名前のない書物

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中有1   *  いつとも知れぬ時間(とき)、どことも知れぬ空間(ばしょ)で。   *  そして気がつくと女は、赤茶けた土砂に覆われた丘陵を一歩一歩、登っているのだった。急峻な傾斜ではないが、乾燥しホロホロと崩れる地面は注意していないと足をとられ、思うように進むことができない。女はゆっくりと、足元の実在を確かめるように、歩いてゆく。  丘のそこここに、ひねこびた矮樹(わいじゅ)が思い出したように顔を覗かせる。永い年月、風になぶられ続けたのか、枝が幹が、水平やあり得ない方向にねじくれている。  ふりあおげば、(しろ)い火輪が中天にあった。のっぺりとした、気味の悪いほど鮮やかな蒼穹には、刷毛で引いたほどの薄雲がわずかに貼りついている。遥か遠くの山脈は、陽炎めいて曖昧だった。  凡てにおいて遠近感がまるでない。世界全体が、どこもかしこも嘘臭く、見かけ倒しの(まが)い物のようだ。何かが決定的に狂っている。  それを裏書きするように、感じてしかるべきものがないことに、女は気づいていた。まったく暑くないのだ。どころか一切の温度を感じない。これだけ強烈な陽射しを浴びたなら、そしていまの格好ーー革のつなぎーーをしていたなら、とうに息があがって、心臓が激しく脈打ち、汗が吹き出していてもおかしくないが、まったくそんな気配はない。  いやーー。  もともと息などあがるはずもないのだが。  心臓の拍動などあるはずもないのだが。  何故なら、女の身体はとうの昔に生命活動を止めているのだから。その証拠に、()げた右手首の切断面には、一滴の血潮もにじんではいなかった。  だが、そんな矛盾にすら気づかず女は、己れの裡にひたすら沈み込んでいった。  色もこんなではなかった、と女はひとりごちた。大地はもう少し黄土であったし、草木もずっと潤っていた。すべてにおいてもっと、生命力が満ちていた。空には雲雀(ひばり)の鳴き声があった。ここには音もない。風すらない。死んだように静まりかえっている。いや死そのもののようだ。  しかし斯様な感慨が、何時の、誰の記憶と照合した結果なのか、女に解りはしない。自分の記憶であったのかすら、定かではなかった。  そもそも、女に〈自我〉や〈意識〉と呼べるほどの心理的な機制が存在しているのだろうか。  女が〈生まれた〉のは、最終処分場の、暗く冷たい(あなぐら)の中だった。処分場とは名ばかりの、ただゴミを投げ棄てるだけの、コンクリートで覆われた巨大な竪穴。其処が、女の揺りかごだった。  辺りには腐敗臭と、分解された有機物の放つ熱が立ち込め、息が詰まりそうだった。女が初めて目にしたものは丸々と肥えた金蝿で、もし刷り込み(インプリンティング)などという本能が備わっていたなら、女の恋慕う親はこの不潔な(むし)であったろう。  女が、彼女の創造主(デミウルゴス)である、狂った〈尊者(アーユシュマット)〉にして〈万能の博士(ドクトル・ウニウエルサリス)〉サンテツ・フリヤギに与えられた、〈意思〉と呼べるものは、ただ一つだけ。〈憎悪〉だ。何に対しての〈憎悪〉か?    〈木男〉への〈憎悪〉である。  〈木男〉の共犯者にして傀儡、ジュウハチロウ・セコウへの〈憎悪〉である。  〈木男〉の企図通りに営まれている社会への〈憎悪〉である。  〈木男〉の邪悪を感じつつ唯々諾々と、見て見ぬふりを決め込む民への〈憎悪〉である。  〈木男〉が書き換えた歴史ーー異族の記憶がなかったことにされたーーへの〈憎悪〉である。    その〈憎悪〉は、たぶんに〈尊者(アーユシュマット)〉本人に由来する私憤であったが、であるからこそ恐ろしく苛烈で、執拗だった。  偏執的な周到さでもって〈尊者(アーユシュマット)〉は、ゴミ溜めから女の相棒たる男・肉屋(ブッチャー)を造り出した。二人はまさに、汚濁のアダムとイヴであった。さらに、二人の下僕(しもべ)たる〈怪物(スナーク)〉どもも造り出した。  〈燻り狂ったばんだあ・すなっち〉の活動は全て、この本丸に至るための布石である。彼女らが盗んだ、とるに足らない品物群には、ある秘密が仕込まれていた。セコウ男爵は、忠誠を誓った者へ誓約の印として、密かに〈シドッチ石〉を忍ばせた品物を送っていた。〈木男〉とセコウは邪悪な研究をさらに発展させ、シドッチ石がヒトの意識に影響を及ぼす周波数を、割り出していた。  四号鉄塔から帝都全域に発信された超音波が、シドッチ石を共鳴させ、その固有振動数が脳に作用する。するとシドッチ石を傍らにしたヒトは、思考能力を低下させ、命令者に従順になる。彼らが政府の有力者や選良をも牛耳ることができたのは、このためである。  〈怪物(スナーク)〉を率いた〈ばんだあ・すなっち〉の攻撃によって、四号鉄塔は崩壊した。少なくとも、数多ある〈物語軸〉世界の一つは、〈木男〉の魔手から逃れただろう。  だが、それが何になるというのだ? この闘争はいつまで続くのか? 無限にも等しい〈物語軸〉のたった一つを救ったところで、〈木男〉の浸蝕を止めることなど出来はしない。〈木男〉はおびただしい数の〈分身〉を、並行する〈物語軸〉へと送り込んでいる。そのすべてを網羅し、駆逐することなど、とうてい不可能だ。  だからこれは、千載一遇のチャンスだった。〈木男〉自ら、座標系上の己れの〈原点〉に招待してくれたのだからーー。  女は、ひと息つくように立ち止まる。それはあくまで、〈生きて〉いたときの慣習的な動作を、無意識に繰り返しているだけだった。生物的な意味で彼女が〈疲れる〉ことはないのだから。  振り返って見張るかすと丘は、いつの間にか一面の水に囲まれていた。丘が小島の如く、海原のただ中に頭を出しているのだった。水面(みなも)はピタリと凪いで、鏡のようであった。  それは女がかつて眺めた大洪水と同じ光景であったが、今の女には往時を浮かべることはできなかった。そのような記憶はない。にもかかわらず、胸の奥底に、掻きむしりたくなるような疼きーーもしくはその残滓ーーを覚えたのだった。郷愁と哀惜の残滓を。  女は再び、歩き出す。  どれほど進んだか、やがて登り坂の先、丘の中腹に小さな館ーー実際には館とも呼べないような石積の粗末な小屋ーーが見えてきた。それが目にはいるよりも前に、女には、それがそこに建っていることが分かりきっていた。女の、本来はない筈の記憶が、チリチリとささやき続けていた。だが、記憶にない物もそこにはあった。館への道すがら、丘の傾斜のあちらこちらに、異様なものが転がっているのだった。  人形ーーに見えた。おびただしい数の人形。よく見るとそれは、すべて同じ形である。より正しくは、アヒルめいた形状の人形だった。胴体が卵形で、足が木に似ている。そして頭部はヒトのそれだ。つば広の帽子を被った、のっぺらぼうの頭。人形どもはおしなべて破損していて、地の果てに打ち捨てられた玩具めいている。  女の足どりが、重たくなる。このあわれな〈分身〉たちが引き受けた運命、そしてその〈原点〉に居る存在を思い、ほとんど引き摺るように我が身を進めねばならなくなる。  ようやっと、たどり着いた。  小屋の古びた木の扉は開け放たれていた。中からは、物音一つせず、気配も感じられない。  本物そっくりなのにーー本物? 本物とはどこにあるのだ? ーー同時にどうにも作り物めいている。まるで書割に描かれた舞台装置のようだ。  が、それを言うなら、女のいるこの場所そのものが、薄っぺらい板で作られた舞台背景と言えた。しかもそれは、誰かの思い出、誰かの記憶によって固定されてしまった世界だ。歪んだレンズで撮影された画像のなかの世界が、現実を写しながらも同時に歪んでいるように、この世界は、固着させた当人の歪みをそのまま反映している。当人とは誰か? その相手は、小屋の中にいる。  女が木の扉に近づいていく。躊躇いなく、小屋に足を踏み入れる。小屋の中もまた、人形が溢れかえっており、足の踏み場もない有り様だった。壁にもたれているもの、床に無造作に転がっているもの、バラバラになっているもの、蝋燭のように熔けかけているもの……。  それでも内部が、記憶通り三つに仕切られているのを女は見てとった。玄関口を入ってすぐに大きめの部屋があり、そこが謁見の間になっている。正面の壁に、今はとうに忘れられた旧い言語の綴られたタペストリーが掛かっている。  館の中はかなり暗かった。しかし目が馴れないせいではなかった。  謁見の間には天窓が二つあり、そこから上空が覗ける。右の天窓の向こうには、星空があった。左の窓外は、故郷ではけっして見えるはずのない雪景色である。振り返れば、玄関から見える外は、相変わらずの青空だった。この小屋の別々の開口部から覗ける屋外は、時刻も場所もバラバラであるが、その奇っ怪さも、もはや驚くに値しない。小屋は幾つもの次元にまたがっており、内部もまた歪み、引き裂かれているのだ。  女は、向かって右の幕扉に手をかけて止める。この奥は、そう、ゾラの居室だ。胸が痛くなる。生命よりも愛していた者の部屋。  部屋に踏み入るなり、慄然となった。部屋の天井からは、まるで屠殺場(とさつば)のように無数の肉塊が吊り下げられていたのだった。あらゆる物語軸から(かどわ)かされてきた、数多の〈わたし〉だ、と女は察した。凄惨な、おぞましい光景であるのに、強烈な徒労感とでも言うべき空気が支配していた。命を、無意味に蕩尽しつくした、(ぬけがら)の跡である。  ならば、(おとな)うべきは、左手の、自分の部屋に違いない。  踵をかえし、謁見の間を横切って反対側へ移動する。幕扉の布を、一息に横に引いた。  部屋にあるものが女の視神経に染み入ってくるが、それが何であるか認識するまで、間があった。  そこに〈木男〉がいた。いや在ったというべきか。  女の居室だった部屋の真ん中に、大きな絵が置かれていた。高さで言えば肉屋(ブッチャー)の身長ほどはあろうか。女より頭二つは高く、居室の天井に接するほどであった。幅もかなりのもので、おそらく、女が両腕を水平に広げた左右の長さよりも大きい。  絵の描かれている材質は木の板だが、絵の具はこの小屋の建っている世界の文化水準では存在し得ない材料である。油彩絵の具で描かれているのは巨大な半透明の球体で、緑がかった灰色の単色をしており、上半分が平たい大地、下半分が海だった。  とーー。  屹立していた絵が、ぶるぶると震えたのだった。絵自身が、自らの意思で我が身を揺すったーーようにみえた。  球体の絵が中央から割れて、左右にゆっくりと開いていった。ちょうど、両開きの扉を手前に開いたように。  開き切るとそれが、左右両翼と中央の三面からなる祭壇画であると知れた。  雷霆に貫かれたごとく、女の全身に戦慄が走った。わたしはこの絵を知っている、と女は思った。この世界ではない、どこか別の世界で彼女は、確かにこの絵を見たのだった。女がそれを見たのは二十世紀中葉、独裁体制下のマドリードでのことだが、その怪奇(ビザール)な詳細については紙幅が足らぬゆえ割愛せねばなるまい。  しかしまた、それは、彼女の知っている絵とは明らかに違う点もあるのだった。  顕著なのは、向かって左の面と中央の面の絵が、ほとんど失われていることだった。左翼には「エデンの園」の様子があるはずだったが、のんびりと過ごす動物や男女も脇に控える蛇の姿も褪せて、輪郭すらあやふやになっている。  一番大きい中央パネルはさらに酷く、「快楽の園」にいるはずの裸体の人間たちも、泉も、構造物も、一角獣も、煤のようなものに覆われ、明るい色調は完全に失われている。  一方、右翼の「地獄」を描いたパネルも、元の絵が毀損されているという点では他と変わらなかった。少なくとも、ナイフや怪物や地獄の責め苦も、本来の(かたち)は、まったく定かでなくなっている。  しかし決定的に異なるのは、それらが経年劣化のような自然な崩壊ではないからだった。かといって、悪意ある人の手で棄損されているわけではない。いや、いっそ人為的に灰色に塗りつぶされていたほうが、まだましであったろう。  「地獄」のパネルを侵蝕しているそれは、〈欠損〉ですらまったくなく、強いて言えば〈虚無〉とでも呼ぶべきものだった。  のっぺりとした、奥行きのない、光すら吸い込む、何もない世界が、厭わしい染みのようにパネルを侵蝕している。  そのパネルの中ほど、上下もわからぬ中空に、ピンで留めれた蝶みたく、彼奴が静止しているのだった。  〈木男〉の部分だけは、往時のままハッキリと描かれていた。馬鹿げたつば広の帽子のような円盤を頭に乗せ、右後ろを振り向いた体勢で、恨めしそうな目線を此方に向けている。  彼奴はいうなれば不恰好で不気味な、人面の家鴨だ。卵の殻でできた胴体は割れて、中で酒が(きょう)されている。木製の脚が付いているが、その場に根を張り移動できるようには思えない。  三次元ですらない、平面の、厚みを欠いた、ただの絵がーー見間違えではないーーさわり、と揺れた。  「ーーお前は誰だ?」  ザラザラした、耳障りな声が誰何した。  信じがたいことながら、絵が、喋った。  円盤上のバグパイプがけたたましい音を上げ、周りで踊っていた悪魔どもがざわめく。少なくとも、そのような動きを示した。実際は、無音であった。空気すらない虚無では、音も存在できない。 「お前は誰だ?」  再びの誰何に、女が答えた。 「〈ばんだあ・すなっち〉」  しかしその(いら)えは、明晰さを欠いていた。果たして自分は、自らが名乗ったような存在なのか? 私は私の何を知っているというのか。だが混乱しているのは、女だけではなかった。 「いつぞやの小癪な女賊めか? たいそうな女冒険家(アドヴェンチェレス)というではないか。近こう寄れ、赦す!」 「公娼鑑札(ラ・カルト・ド・ラ・ファンム・ピュブリク)でもめぐんでもらいに来たか、この阿婆摺(あばずれ)め! ()ね!」  立て続けに、別々の科白を吐いた〈木男〉は、ガチャガチャと平面的な全身をゆすった。  絵に殺到しかけた女は、すんでで思いとどまった。自身の身体を探っても、自動拳銃は見当たらない。ナイフの一本すらない。  素早く辺りを見回すと、部屋の入り口付近の壁龕(くぼみ)に、真鍮の燭台があった。それを手にとると女は、再び部屋の中ほどの絵の前に立った。燭台を両手で振りかぶる。叩きつけようとする。 「待って!」  悲痛な静止が響いたのは、そのときであった。声の方を見やると、入り口に、女が立っていた。彼女が息を荒げて叫んだ。 「ゼフィール! やっと会えたのねーー」
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