1人が本棚に入れています
本棚に追加
中有3
*
「ゼフィール!」
切迫した、ほとんど悲鳴に近い叫び声が、雷霆めいて女を貫いたようだった。女はぼんやりと曖昧な眼差しを、戸口に立つわたしに向けた。女の眼に映ったのは、うりざね顔を黒髪で縁取った小柄な女であろう。まったく見知らぬ女のはずだ。にもかかわらず、その魂の容は、これ以上ないくらい自分の魂に近しいものとわかったはずだ。その証拠にほら、女の双眸に涙が盛り上がり、二すじの流れとなってこぼれ落ちた。
霞がかった曖昧な記憶の海から、一つの名が浮かび上がってきたのがわかる。
「……ゾラ?」
わたしの頬も、熱い涙で濡れていた。
女ーー〈ばんだあ・すなっち〉の一員であり、以前はリナ・ロメイと呼ばれ、遥か遠い次元の彼方ではゼフィールという名を持っていたーーもまた、名前を取り戻したのだ。
彼女が駆け出す。わたしの胸の中に、倒れ込むように飛び込んできた。わたしは受け止め、力いっぱい抱きしめた。愛しい妹が、それに応えた。
「妾は……ゼフィール。ネルガル神殿の大巫女にして、大地をしろしめす聖なる淫売ーー」
ゼフィールが咽び、言葉を詰まらせる。戦慄きが止まらない。わたしはわたしで、子どもみたく、しゃくりあげていた。数多の次元をくぐり抜け、わたしたち姉妹はようやっと、互いの半身に巡り逢えたのだ。
絵が、ガサガサと、蠢いた。
「ゼフィール! ゼフィールだと? 本当に御身なのか?」
ごうごうと、鞴から吐き出される熱風のような声に、心なしか感情が甦ったように思われた。
しかし、まったく同じ声が、すかさず冷笑する。
「小五月蝿い売女め! 貴様なぞ知るものか!」
それにまた、同じ声が被さった。
「嗚呼! これは現の出来事なのか? 俺の狂った頭が創り出した幻ではないのか?」
もう一つの声は、ほとんど嗚咽している。
二人は、抱擁を解いた。
ゼフィールが、三連祭壇画に近寄っていった。
「おいたわしや……あまりに転生と分身を繰り返してしまったがゆえでありましょう……」
まるで傷つけることを恐れるようにゼフィールは、おずおずと腕を延ばす。指先が、絵に触れんばかりに接近する。
わたしは静かにそれを、押し止めた。安易に〈虚無〉に触れれば、いかなる仕儀にあいなるか、誰にも予測できない。
妹の可憐な顏が、切なく歪んだ。嬰児にするように彼女は、そっと話しかける。
「そう、わたくしです。ゼフィールです。ほら、とくご照覧あれ、妾の魂を。おわかりになりませぬか? モロクーー愛しい人よ」
「喧しい! 寄るな穢らわしいやつばらめ!」
「おお……まさに……まさに御身は……」
二つの詞を立て続けに洩らしたあと、〈木男〉ーーモロクは絶句した。
「ある次元でーーあなたが妾を探していることを知ったのです。モロクーーあなたの分身が、妾をその次元から拐おうとしてーー」
ゼフィールの詞に、モロクの少なくとも一部は、恥じ入らずにはいられなかったようだ。彼女の声音に潜む苦衷の響きが、モロクの心を刃のように突き刺し、居たたまれなくさせたのである。
わたしは、妹の肩をそっと抱いた。ゼフィールが首すじに顔を埋めてきて、すすり泣いた。妹の珊瑚色の耳に、ゆっくりと話しかける。
「館じゅうにモロクの分身がーー〈木男〉の残骸が転がっているわ。彼は、多次元に己が分身を送り込んだのね」
ゼフィールがうなずいた。わたしは肩を、妹の涙で濡れるがままにした。
此処に至るまでモロクは、あらゆる姿に身をやつしーー生き物にもそうでないものにもーーあらゆる次元を、森羅万象の中を翔び廻ったのであろう。わたしたちと同様に。どれだけの時間と空間を、彷徨ったろう。数多の次元、幾つもの宇宙を、踏み越えたろう。悠久の刻の果ての果てで、力尽き掛けたことも一度や二度ではなかったはずだ。
だがしかしーー。
モロクのこの変容は、ただ事ではない。そもそも、ひとつの次元に腰を落ち着け、己が分身をあらゆる次元に送り込むなど、到底、一介の漂流者によくなし得ることではない。それにこの場所。ここは、ネルガル神殿があった世界に似せて創られた、箱庭のような小世界だ。モロクは、自分専用にひとつの次元宇宙を創造したことになる。それもまた、一介の漂流者の仕業とは思えなかった。
なぜモロクが斯様な力を行使できたのか。そこにわたしは、〈意思〉を感じずにはいられなかった。ゼフィールもまた、同じ考えであった。わたしの肩から顔をあげた妹の目に、瞋恚の焰が灯った。
「私たちは、玩具にすぎないのね?」
ゼフィールは、いまいましげに吐き出したが、みだりにその名を唱えるような愚は冒さなかった。わたしは、黙ってうなずいた。
モロクの〈力〉の源泉は、〈名づけえぬ神〉にちがいなかった。宇宙の中心付近の、あらゆる時空間から隔絶された〈牢獄次元〉に閉じ込められていながら、同時にすべての次元に隣接しているという〈名づけえぬ神〉だからこその御業である。
傍証はもうひとつあった。〈魂〉だけ転生し続けたわたしたち姉妹とちがい、モロクのように他の次元へと〈分身〉を送り込めば、その影響は計り知れない。当該の次元の宇宙に、それまで存在しなかった原子が突如出現することになるからである。
そのとき発生したひずみは、宇宙が本来持つ弾力性によって修正されるであろうが、おびただしい頻度の改変は、ときに宇宙の自己保存能力を脅かすだろう。ほんの少しの狂いで、生物種が丸ごと絶滅し、環形動物が高度な文明を発達させ、大陸が沈み、彗星が衝突し、星雲が跡形もなく消え去る可能性だってありうる。そうして派生してしまったすべての〈亜現実〉ーー亀裂や裂け目ーーを瞬く間に修復し、手当てできる存在など、〈名づけえぬ神〉の他にはおるまい。
斯様な力をモロクに与えたのが、神の気まぐれであったのか、あるいは己れの神域を侵した者への意趣返しだったのかは、もはやわからない。いや、神のなすことは、基本的に人間の理解を超えており、そこに何らの〈意図〉など、はなからないのかもしれない。
だが少なくとも、モロクは〈神〉の提案に小躍りしたであろう。それほどまでに彼は、ゼフィールとの再会を希ったのだ。
他者の命を犠牲にすることも厭わないほどに。
己が正気を犠牲にすることも厭わないほどに。
絵のざわめきが、激しくなった。わたしとゼフィールは、息を呑んで見つめた。
「ぐげげ」
「おぼぼ」
〈木男〉の口から出たのは、もはや、どれも人語の体を成していない呻き声だった。
わたしは痛ましい思いで、〈木男〉に視線を向けた。
「彼はーーあなたを探しにいった分身が帰還すると、分身と融合したのね。そのやり方が、いちばん劣化することなく情報を受けとる手段だからーー」
しかしそれは、数多の世界の記憶を同時に背負うことと同義である。無数のおびただしい魂とその身に刻まれた記憶を、モロクは文字どおり一身に引き受けた。
つきつめれば、〈魂〉など肉体の奴隷に過ぎぬのではないだろうか。分身の魂は〈容れもの〉に合わせた変容を迫られ、少しずつ歪んでいった。その歪んだ魂と融合するたび、本体もまた変容していったのだ。
生物にとって、忘れること、記憶を失うことは、危険や恐怖と隣り合わせであると同時に、恩寵でもある、とわたしは考えずにはいられなかった。ヒトにとってはときに、〈忘れること〉自体が正気を保つ因になる。
だが、忘却という名の恩寵を手放したモロクのなかで、記憶は分身の報告を取得するごとに膨らみ続けた。数多の世界の記憶を同時に持つことは、超越的な存在にしか不可能なことであろう。そして、超越存在であることに耐えられるような心を、ヒトは持っていないのだ。
「いびびびびび……」
「んんんももも……」
〈木男〉の口走る叫びは、もはや断末魔に似て、陰惨な色合いを帯びていた。
「嗚呼、モロクーー」
ゼフィールの声が、哀しみにひずむ。
「御身を、このままにしておくことはできませぬ。さらに多くの犠牲者を生み出してしまうかもしれぬゆえ……」
今度は、わたしも止めることができなかった。
ゼフィールは〈木男〉に身を寄せると、そっと口づけした。ふり向き、わたしを見つめた。大巫女の称号にふさわしい、凛とした眼差しで。
「お願い、ゾラ。妾たちの〈座標〉を書き換えて。彼と妾を、彼岸へ送って」
わたしはぎょっとして、後ずさった。
「ゼフィール!」
二人の座標を書き換え、虚無の彼方、宇宙の果ての果て、生命が存在し得ない環境に移すことは、確かに〈名づけえぬ神〉の神威力を持ってすれば可能だろう。だがそれは、愛する妹と愛した男を、永劫の向こうの辺土に喪うことを意味する。
ゼフィールが絵に向かって、きっぱりと宣した。
「妾も、御身にお供いたしまする。それが御身の慰めになるかはわかりませぬが、わたくしの精一杯のまごころ……」
「嫌よ、ゼフィール! また……また、わたしを置いて行つもり?」
「赦してゾラ。でも、この人だけを、ただ遠くに行かせるなんて、とてもできない。妾にできるのは、もうこれしかないの」
決然とゼフィールは言い切った。妹は、命をかけてモロクに同道しようとしていた。それはいっけん悲愴な覚悟に思えるが、そうではなかった。愛する者と最期の最期まで添い遂げんとする、広大無辺な慈しみである。彼女の頬は薔薇色に上気し、唇は凛々しく結ばれていた。
なんて綺麗なんだろう。
わたしは、妹の輝くばかりの魂に、あらためて心を打たれずにはおれなかった。
嗚呼、真にいやしく、邪なのは、わたしなのかもしれない。わたしは妹を失いたくなかった。執着していた。しかしどうすれば妹を失わずに済むだろう? わたしは必死に思いをこらした。
そのときわたしの脳裏に、一条の光が射した。
「ーー〈瓶詰地獄〉!」
「え?」
ゼフィールが、怪訝な面持ちになった。
「……うん、うん……ひょっとしたらーーいえ、たぶん、上手くいくーー」
思考が逆巻き、言葉が追いつかない。
漁師が拾った壺には、鬼神が閉じ込められていたという。鬼神を壺に封じた方途を、わたしは知っていた。封印者は、鬼神の座標を書き換え、壺の中の世界に移したのだ。
わたしはゼフィールを残して、部屋を飛び出した。この場所が、大巫女の館の似姿ならば、わたしの部屋にそれはあるだろう。そしてそれはあった。
わたしは脱兎のごとく引き返し、ゼフィールにそれをかざした。
「これを使おうと思う」
わたしが見せたのは、四角い、小ぶりな瓶だった。不透明なガラス製の古びた瓶で、緑色の本体に、広口の首がついている。
わたしは、思いついた考えを、整理しながら、ゼフィールに説いた。
まず、館を含む〈この宇宙〉の座標を、まるごと書き換える。書き換える先は、〈瓶〉の中だ。つまり〈この宇宙〉ごと、瓶に閉じ込める。そうすることで、ひとまず現状を保ったまま、〈神〉が創ってモロクに与えた不自然な小世界を隔離する。そうして、〈ここ〉をよりシンプルな座標にしたうえで、〈瓶〉をできるだけ頻繁に動かし続ける。あちらの宇宙から、こちらの次元へ。わたしたちはこの小世界ごと漂流するのだ。
「でも、〈神〉には関係ないのでしょう? 彼の者がいるのは、〈全てに繋がり、どこにも繋がっていない場所〉なのだから」
ゼフィールが声をひそめる。
「そうね、〈神〉は遍在している。どこにいても見られているのに、かわりはないでしょうね。でもね、〈神〉は気まぐれで移り気だわ。わたしたちが思っているより、〈神〉はわたしたちに興味なんてないと思う」
しゃべりながら、これを自分が本気で信じているのか、妹を失わないための方便なのか、わからなくなってきた。なに、かまうものか。その二つに、どんなちがいがある?
「でも……でも、モロクは、また他の次元へと分身を派遣したがるのじゃないかしら?」
「かもしれない。でも、そっちはあまり心配していないの」
「どうして?」
「だって、モロクは、あなたを求めて多元宇宙に分身を遣わしていたのよ。今はそのあなたが傍にいる。どうしてあちこち出向かなければならないの?」
ゼフィールは絶句する。わたしは、妹の手をしっかりと握りしめた。
「あなたが、彼の錨になるの。そうして少しずつ少しずつ時間をかけて、本来の彼を取り戻すの」
それでもゼフィールは、躊躇している。
「彼をーー元に戻す方法なんて、あるのかしら?」
不安と期待の入り交じった眼で妹が問う。彼女に希望が復活しつつあることを、わたしは心底喜んだ。
「もちろん、あるなんて言い切れないわ。実際、ないのかもしれない」
「そんな……」
「でも、ないとも言い切れない」
わたしは急いでつけ足した。
「〈瓶〉のなかで、わたしたちはなにをするのか? わたしたち、おしゃべりをするの。できるだけ、モロクを交えてね。わたしとあなたが経巡ってきた、数多の次元の世界について語り合うの。わたしたちは、数えきれない世界を経験してきた。たくさんの言語やコミュニケーション手段を経験してきた。そのなかに、モロクの魂に響く〈交通手段〉があるかもしれない。あるいは、モロクを元に還すヒントがあるかもしれない。それに、ひょっとしたら、なくてもどうにかなるかもしれない」
「どういうわけ?」
「わたしね、ある世界で作家だったのーー」
わたしは、しょぼくれた顔つきの作家志望の男を思い出す。胸の奥が疼いた。でも今は、彼のことをふりはらい、話を進めなければならない。
世界を、認識しやすいパターンに切り取る作業は、生き物の性だ。そうして創り出された物語は、作り話であれ、実話であれ、ヒトの情動に働きかける力を持つ。共有された物語は、コミュニケーションの土台になり、話し相手が自分の語る物語を認知してくれたとき、自己そのものが受け入れられたような浄化を経験するだろう。あるいはそれが寛解につながるかもしれない。
「〈神〉はすべてを見透しているけど、わたしたちを癒してはくれない。わたしたちを癒せるのは、たぶん、わたしたち自身しかいないーー」
「……」
「わかったでしょうけど、〈瓶〉の中には、わたしもいっしょに行くわ。お邪魔だろうけど。でも安心して。たぶん、あなたはきっと忙しいわ。わたしとはずっと〈物語〉を語り続けなきゃいけないし、モロクはあなたの声しか聞かないだろうし」
「ゾラーー」
妹が涙ぐむ。
「覚悟して。わたしたち、一蓮托生よ。証明しましょう。わたしたちは、わたしたち自身で立ち上がれるって。相手がわたしたちを虫けらのように扱うなら、わたしたちだけが、一方的に敬意を払い続ける必要なんてある? 勝算なんてまったくないけど、〈神〉の鼻をあかせるかどうか、試す価値はあるんじゃない?」
わたしは馴れない仕草で、片目を瞑った。ゼフィールが、瞳を輝かせて微笑んだ。その笑顔をゾラは、本当に美しいと思った。
はにかんだゼフィールの手をとる。
「ずっといっしょよ」
「そうね。ーーたった二人きりの姉妹だもの」
わたしたちは、互いの手をしっかりと握りしめ合う。もう二度と離したくない、その手を。
わたしは静かに年古りた詞を唱え、〈名付けえぬ神〉に呼びかけた。我が身と愛しい人たちを含んだこの館の座標を、書き換えた。たちまち、外宇宙の冷たい深淵から訪れた神秘の力が、秘儀を可能にした。
須臾のうちにわたしたちは、小さな容れ物の先へと消えた。
*
こうして妹は、モロクの錨にーーいや狂王に寄り添う語り手になった。
最初のコメントを投稿しよう!