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《人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ》(チャールズ・チャップリン)
図書館1、
*
図書館へ行こう、きみと一緒に。
*
そのときぼくは、いらだっていた。あるいは少し憤慨していたのかもしれない。不機嫌なのは、不眠症によるいつもの頭痛のせいだけではなかった。予定の時刻に、スウが姿を見せなかったからだ。
待ち合わせ場所は、図書館のエントランス・ホールだった。玄関口からガラスの自動ドアを入ると、真っ先に出迎えてくれる、天井の高い、吹き抜けの空間だ。間違えようがない。
左手に貸出カウンターがあって、図書館員さんが二人、並んで立っている。若い女性と年輩の男性で、お仕着せのエプロンをしていて、生真面目そうな顔を見せている。
この図書館は公共施設ではなく、私設図書館だった。私立なのに無料で利用できるのはありがたいが、その代わり館外への蔵書の貸出をしていなかった。
だから彼ら彼女らの役割はさほどない。配架や書架の整理、館内掃除なども、人工知能搭載の専用自律機械が行っており、彼らはときどき、利用者の資料案内をするくらいだ。応対するのが人間のほうが安心感がある、という人は、まだまだいるのだ。とはいえ、彼らはいまハシビロコウ並みにピクリとも動かず、ほとんど調度の一部みたいに思えた。
ホールの中央付近には、座り心地の良い布貼りのベンチが幾つかあって、利用者が(主に年輩の男女だ)腰かけて雑誌や新聞をめくっている。
玄関口から見てホールの右手に、階段がある。古い洋館みたいな、リボンのように曲線を描いた大階段が、踊り場で折れて、上階につながっている。
ぼくがいるのは、その踊り場だった。
バルコニーでそうするみたく、踊り場の手すりに両腕をあずけて、前かがみにもたれかかっていた。ちょうど、大きな孔の淵から底をのぞき込んでいるように。手すりは木製で、チョコレート色に艶やかに輝いて、階段を縁取っている。
ぼくはあらためて、エントランス・ホール全体を見渡した。図書館員さん、利用者たち。落ちついた色合いの壁を、燭台を模した電灯が飾り、天井のシャンデリアとともに、黄色っぽい明かりをホールに投げかけている。
そこにやっぱり、スウの姿はなかった。
手すりから離れると、えんじ色の絨毯が敷かれた階段を降りていった。
館内は、暑くもなく、寒くもない。空調は効いているはずだが、ゆるやかに循環する空気の流れを感じ取ることはできない。眠気を催すような、停滞した雰囲気で満たされている。しわぶきの声ひとつなく、新聞紙やページをめくる乾いた音だけが響く。いや。
階段を降りきったぼくは、それを眺めた。玄関口の横に、古めかしいグランド・ファーザー・クロックが据えられている。人の背丈ほどもある時計で、ガラス張りの胴の中で、振り子がゆったりと揺れている。そこから、カチ・カチ・カチ・カチと規則正しい音が流れてくる。大きな文字盤の上で、装飾的な短針と長針が追いかけっこをして、現在時刻を示している。午後四時三十三分。カチ・カチ・カチ・カチ。三十四分になった。
ぼくとスウがここで過ごしはじめて、二時間が経とうとしていた。
ぼくも彼女も図書館が好きなのだ。旧い時代には、図書館で勉強をする学生をよくみかけたそうだが、ぼくたちは、その気が知れない、と言い合ったものだった。
大好きな本が集まっている図書館は、言ってみればお菓子の家に子どもを放り込むのと同じだ。チョコレート、キャンディ、クッキー……きらびやかなお菓子たちと同様、物語、図鑑、事典にすら目移りしてしまって、およそ冷静ではいられなくなる。
そんなわけでぼくとスウは、とくに取り決めをしていなくても、自然と、滞在時間を二時間程度に収めるようにしていた。
図書館に行く、と表現したけれど、それが正確な表現でないことに気づいた人もいるだろう。実際には、ぼくたちはこの図書館と一体化した構造体の中で暮らしているわけで、居住区域のある場所を、便宜的に〈渦巻町〉、書架のある建物を〈図書館〉と呼んでいるにすぎないという者もいるかもしれない。
上階には戻らずにぼくは、階段下に口を開けた出入口をのぞいた。
両開きの扉は開け放たれた状態で、中に無数の書架がのぞいているけど、人の気配はなかった。来るときにこの口から入り、奥の階段を使って上階に抜けたので、中で誰にも会わなかったと断言できる。つまりこの奥に、スウはいない。
もちろん、この図書館はかなりの大きさがある。開架スペースは、エントランス・ホールのある階層と、ぼくがたった今おりてきた階層の二階分だけだけど、建物自体は地上五十四階、地下は五階まである。セキュリティを突破して、書庫ーー閉架スペースにもぐり込むことができたなら、楽々と迷子になれるだろう。
ただどこに行ったにせよ、館外に出るには、このエントランス・ホールを通り抜けなくてはならない。他に出口はない。今日ぼくは、ほとんど、ここらへんでウロウロしていた。彼女が通れば気づきそうなものだが、見過ごしてしまったのかしら。
こんなとき、スウが携帯端末を持ちたがらないことを歯がゆく思う。いつもは、名刺に〈旅行中〉と書いてあるヒロインを相手にしているみたいで楽しいのだけれど……。
ぼくは仕方なく、エントランス・ホールから一番手近な部屋を目指し歩き出した。いましもスウが、そこいらから顔を出すのでは、と期待しながら。そのとき、ふいにグランド・ファーザー・クロックが、重々しい音を立てた。ぼくはぎくり、と足を止めた。ちょうどホールのど真ん中だった。
ボーン、ボーン、ボーン、とつづけざまに等間隔に八つ。
おかしなことなのだが、何度もこの場所を訪れて待ち合わせをし、何度となく聞いた音であるはずなのに、このときの八点鐘は、異次元から届いた、初めて耳にする音のように感じられた。虚ろで、とらえどころがなくて、まるで宇宙の終わりを告げている軋み音みたいだった。
ほんのわずか、ぼくのたましいはどこかへ旅立っていたのかもしれない。
我に返るとぼくは、(たぶんぼくの頭の中にだけ)殷々と残る余韻を共に、書架の森へ足を踏み入れた。たちまち鼻をくすぐる、古い紙と皮の匂いを吸い込むことになった。
ひとつひとつの書架は、ちょうどぼくの身長より少し高いくらいで、それほどの圧迫感はない。しかしそれらが無数に立ち並び、折り重なっているさまは圧巻で、まさに本の森、本の海原のよう。
書架にはぎっしりと古い紙の本が詰まっていた。本物の、紙の本だ。図書館全体の蔵書がどれだけになるのか、把握しているものはいるのだろうか。まあ、表紙だかにICチップが埋蔵してあって、位置情報を捉えているのだろうけど。
エントランスに近いこの部屋にあるのは、主に雑誌や新聞のたぐいだが、この私設図書館には、およそ本と名のつくものは分け隔てなく収蔵されているらしい。一生かけても読み切ることのできない圧倒的な量を思うと、ぼくはいつも、途方もなく巨大な迷路に入り込んでしまったような心持ちになる。それは、不思議と心なぐさめられる光景だった。
ぼくは、書架と書架のあいだを、あちこちのぞきながら、ゆっくりと歩いた。どこに、スウがいるやもしれない。以前にも、似たような経験があった。出口付近にまでやってきたのに、たまたま目に入った昔のペット雑誌につかまっているスウを拾ったことがあったからだ。だから案外、近場を一周したら巡り会えるかもしれない、とこのときのぼくはまだ高をくくっていた。勝手に隠れ鬼を始めた子どもを、追いかけている気分に近いかもしれない。
チラホラとだが、本を開いてたたずむ人に出くわした。ほとんどがお年寄りで、若者は少ない。そもそも懐古主義(あるいは懐古趣味)ででもなければ、紙の本を手にする者はまれなご時世だ。
館内には、思いがけないところにベンチがあり、人々は『星の王子様』に出てくる、離ればなれの惑星に暮らす住人(王様、うぬぼれ屋、のんべえ、ビジネスマン、点灯係、年寄りの地理学者……)のように、十分に孤独を楽しむことができる。また、隠れ家のようなひっそりとした書見机もあって、スウはしょっちゅう、お気に入りの場所を求めてさまよっていた。彼女は、はじめからそこに生まれついたかのようにぴったりと収まる、そんな約束の地が、この〈図書館〉に必ずひとつあるはずだとつねづね主張していた。
ーーそこがわたしの、運命の居場所。
キミの運命の居場所はぼくの傍だろ、などという気障な科白は、たとえ思いついたとしても口に出しては言えないのだった。ずっと後になって、思いきって言えばよかったと後悔した。たとえ冗談交じりであったとしても。真実の心の持つ、切実な響きが彼女にだって伝わったのではないか。
いつの間にか口の中がカラカラに乾いていることに気づく。スウの声を思い出したことで、ぼくのいらだちはいっそうふくれていった。いや、ぼくはすでに気がつきはじめていたのだが、それはいらだちではなく、焦り、より正しくいうなら、怯えに近い感情なのだった。
風邪を引いた日みたく、咽喉がひどくいがらっぽかった。熱くて濃いお茶が飲みたいという欲求に苛まれた。
ぼくは歩いた。森を逍遥する隠者のようにとはいかずに、街を徘徊する記憶喪失者にみえたことだろう。
歩くーー歩くーー歩く。
どこにも、影すらも、スウを思わせるものはなかった。
どれだけ時間をかけたか、たぶん十数分と経っていないだろうに、ぼくはすでに何日もあてどもなくウロウロとさまよい続けているような錯覚に陥った。
足を動かすのが、ひどく重ったるい。まるで床が流砂に変じてしまったようだ。スウに出会う以前、一時期心にトラブルを抱えていた頃の自分に戻ってしまったようだった。酷い希死念慮に苛まれ、暗い川面を眺めていた頃に。
視界が心なしか歪んでいる。書架の波が、ぐぐっとせり上がって、前後左右からのしかかって来るようなプレッシャーを感じるのだ。
そのとき。
〈それ〉はふいにおとずれた。
前触れなく、恐慌の大きな手に全身を掴まれた。不可視な巨人のかぎ爪が心臓に触れるのを、まざまざと感じたのだった。のちに考えればパニック症状の前駆だったのだが、そのときは自分で分析できる余裕などもちろんなかった。あまりのショックに、大声で叫びだしたい衝動に駆られた。自分でも、とても正気とは思えない、破壊へまっすぐ突き進む衝動が、頭の天辺から足のつま先を貫いた。
歩みが自然に止まった。
歯を食いしばり、圧倒的な何かに必死で抗った。ぶううううん、という羽音のような、うなり声のような音が頭の中で響きだした。頭蓋のなかで怒濤が咆え、こめかみがズキズキと脈打った。
全身が強ばり、力を込めすぎたあまり、ぶるぶると震える。
奔流のような〈それ〉が過ぎ去るのを、ぼくは必死に耐える。
冷や汗がわきの下を伝う。
ガチガチと顎が鳴る。
歯を喰いしばることしばしーー。
細く、細く、呼気を吐きだす。
ぼくはその場できびすを返した。
ゆっくりと。
何でもない風に。
自然に振る舞え。
あれ、に気づかれちゃいけない。(だがあれとは何だ?)
ぼくは再び歩きだした。
もときた路をたどる。
歩みのテンポが、胸の鼓動に合わせて、次第に高くなっていく。
何か恐ろしいもの、得体のしれない怪物めいたものから逃れるように。
脚がもつれる。
呼吸が浅くなる。
酸素がうまく肺に届いてこない。
しまいにはーーめちゃくちゃに駆けだしていた。
エントランス・ホールに出たところで、強烈な目眩に襲われた。ぼくは息も絶え絶え、ふらふらと進んで、そのまま貸し出しカウンター前の絨毯に手を突いた。
カウンターの中から、図書館員がひとり、ぼくのそばにやってきて、
「どうされましたか。ご気分が悪いのですか」
と声をかけた。年配の男性の声だった。
何も答えられなかった。口から出ていくのは、ほとんど嗚咽のような呼気だけだった。
「大丈夫ですか、お客様? おぅきゃくぅさぁまぁぁぁ?」
男の声がひずんで聞こえる。
胸が苦しい。
巨大な、圧倒的な重量の喪失感に押しつぶされそうだった。いわれのない確信が、ぼくを刺し貫いていた。
なにひとつ根拠のない、しかし、絶対的な確信。
ぼくは、スウを、永遠に失ってしまったのだ。
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