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2 丈の幼馴染
【第一章】
「夕生、おはよう」
急いで準備を終えて家を出ると、庭の向こうで丈が手を振ってくれている。
この家は近所でも豪邸と知られていて、玄関から正面扉までの距離が長い。庭を小走りで駆けて、丈の元へ行く。
丈はどこか語尾の伸びた言い方でまた「おはよう」と言った。
「おはよう、丈」
「今日はちょっと遅かったね。どうしたの?」
「あ、少し……寝坊した」
朝はいつも、大した量ではないけれど洗濯物を干している。今日はうっかり洗濯機のスタートボタンを押すのを忘れていて、その分の時間をロスしたのだ。
夕生は軽く振り返りテラスに干した洗濯物を眺める。良い天気で春の日差しも暖かく、雲もない。よく乾きそうだ。
「へー……ま、行こっか。今日すげぇ晴れてんねー」
「うん」
「そういやさっき愛海と会ったよ」
「あっ、うん」
丈の口から愛海という単語で出てドキッとする。
去年までは丈から彼女の話はあまり聞くこともなかった。だが、今年は違う。
愛海が同じ学校に入学した。この辺りでは最も偏差値の高い学校で、毎日夜遅くまで勉強し、ようやく丈と同じ高校へ進学できたのだ。
さっきだって、きっともっと話したかったはずなのに、夕生のせいで丈と話す時間が少ない。別に夕生と丈は、登校を共にしようと約束しているわけではない。丈が友達の少ない幼馴染を気遣って来てくれているだけ。
でも、今年はこれも愛海に譲った方がいいかもしれない。
一切余計なことをしないで必死に受験勉強を乗り切ったのだ。愛海が高校を楽しめるといいのだけど。
「愛海、まだ入って一ヶ月も経っていないのに髪とか染めてさ。雰囲気変わったな」
「そうなんだ。校則がないのが良いって嬉しそうにしてた」
「へー」
「ピアスも頑張って開けてたよ。SNSで憧れの女の子と同じピアスをお父さんに買ってもらってて、すごく似合ってた」
「ふーん」
「髪もさ、今は茶髪だけど夏はもっと明るくしたいんだって。ブリー……ブリー……」
「ブリーチ?」
「うん。多分それもしたいって。お父さんが派手なの許してくれるか分からないから一緒に説得してって頼まれたんだ」
「愛海、金髪にでもするの?」
「分からない。けどきっとどんな色でも似合うし、きっとお父さんも許してくれる」
父は厳しい人だけれど結局は愛海の言うことを許してくれる。母も今は日本を離れているけれど、毎日のように電話をかけてきて、娘を溺愛している。
丈が言った。
「俺のクラスでも愛海の話ししてるやついたよ」
やはりか。夕生はでも少し心配になり、「どんな話?」と訊ねた。
「んー、普通に、可愛いって。一年にアイドル入ってきたって話題になった」
「あ、なるほど」
バースのことではなかったようだ。夕生はホッとして、「うん、可愛いもんね」と小さく微笑んだ。
途端に丈の口振りが饒舌になる。「クラスの運動部連中が」と含み笑いで言った。
「全員愛海にマネージャーになってほしいって言ってんの。愛海のクラスにも勧誘行ったって言ってたぜ」
「人気なんだね」
さすが愛海だ。でも彼女は部活に入らないと言っていた。
丈と同じ帰宅部だ。
するも丈が笑いながら言った。
「愛海からしたら迷惑だろうな。あいつらテンション上がって強引なんだよ。愛海は部活入らないって言ってたし」
……丈も聞いていたのか。夕生は少し反応に遅れながらも返した。
「そう、だよね。帰宅部がいいらしいね」
「バイトしたいとも言ってたなぁ」
「え?」
「あれ、夕生聞いていない?」
丈が目を丸くする。その情報は夕生も知らなかった。
丈は「あんだけ家金持ちなのに何でバイトすんのかなって思ったんだけど」と不思議そうにする。夕生は押し黙った。
愛海は明るく、話も上手い。夕食の際、黙り込んでしまう夕生とは違って父と楽しそうに会話している。愛海は夕生にも色々と話しかけてくれるが、それ以上に今は丈と話すようだ。
「知らなかった……」
「へぇ……お父さん、許してくれんの?」
「分からないけど、校則で禁じてないし、愛海の好きなようにさせてくれるんじゃないかな」
「あー。ぽいなぁ。子供に甘いもんな、夕生のお父さんは」
夕生は軽く首を上下に振った。何のバイトをするかは分からないが、それを知るのは夕生よりも丈の方が早いだろう。
てっきり丈と放課後を過ごすために帰宅部を選んだと思っていたのに。でもそうでないなら、この朝の時間だけでも愛海に譲るべきかもしれない。
丈と愛海が二人並んで学校へ向かう姿を頭に浮かべる。丈の隣は夕生よりも愛海の方が似合っている。きっと絵になる。
想像するだけで胸がキツくなった。そんな自分が卑しくて嫌になる。
丈と登校できたら愛海も嬉しいだろうし、丈も、直ぐに黙ってしまう夕生よりも愛海といた方が楽しいに違いない。丈がこうして登下校を共にしてくれるのは幼馴染の交友関係が希薄であることを気遣っているからだ。
それに一度は共に通わなくなったこともある。
そろそろまた離れる頃だろう。新学年になったのだからもっと頑張ってクラスメイトと接しなければ。ぼんやりそんなことを考えていると学校が近付いてくる。
丈が言った。
「俺、そこのコンビニ寄ってくから夕生先に行っててー」
「うん」
丈は「またねー」と柔らかに微笑んでコンビニへ向かう。夕生はその背中を数秒眺めてから、つい今し方よりもゆったりとした歩調で学校へ向かった。
これはいつもそうで、学校が近くなると丈は夕生と距離を置く。コンビニは夕生と離れるための口実だ。
だってこの一年だけの話ではない。
中学の時もそうだった。
小学校の頃も夕生と丈は共に学校へ通っていたがその際は校舎まで共にいた。学校が見えてくると離れるようになったのはいつからだろう……。確か夕生が中学に上がってからだ。
初めの一ヶ月は校門まで二人隣で歩いていたのに、いきなり、生徒たちが大勢歩いている道に入る手前で丈が立ち止まったのだ。
先に行って、と。
夕生は不思議に思いながらも言われた通り学校へ向かった。その翌日も同じことが起きて、そのまた次の日も……。
夕生はあれからずっと丈と一緒に校舎に入っていない。最初は訳が分からなかったし寂しかったけれど、次第に理解した。
丈は学校内でも人気な男子だ。教室の隅の方にいる夕生とは世界が違う。
地味で友達のいない夕生と共にいるところを見られたくないのは当然だ。意味が分かると混乱が解けて、むしろ安心した。理由が分からないことは怖いのだから。
中学校は少し回り道をすれば高校へ向かう途中に寄れる。だから丈が高校へ進学してもその気になれば共に登校できたのだけど、夕生は丈の高校進学を機に、自分が受験生であることを建前にして『朝は自習室行きたいから一緒に学校行くのやめよう』と提案した。
丈は『わかった』と素直に頷いた。『勉強ふぁいと』と呆気なく受け入れる丈の反応を見て、夕生はようやく、丈が友達のいない自分に気遣って共にいてくれたことに気付いた。
凄く寂しかったし、これで丈と接点がなくなってしまうのではと不安にもなった。だが予想に反して丈は放課後に『高校受験のこと教えてあげるねー』とふんわりした笑顔で来てくれた。
丈にとって朝の登校などどうでもいいみたいだった。夕生ばかり気にしていて、情けなくなってしまう。だがこれは夕生が勝手に丈へ身の程知らずな恋をしているための落胆だから感情を表に出しても仕方ない。
その一年間夕生は丈の『おはよう』を聞くことはなかった。意外だったのは高校に進学してから二人の登校が再開したことだった。
てっきり朝は別々になると思ったのに、夕生が入学した朝、丈は当然のように家まで迎えに来たのだ。
『おはよう。学校行こ』
あの朝の丈の笑顔は忘れない。
彼としては深い意味のない行動だったのだろう。近所に同じ学校へ進学した幼馴染がいるから声をかけただけ。
それでも夕生にとってはとても意味のある朝だった。
夕生は笑うのが苦手だ。でも丈の前だと自然と笑みが漏れる。『おはよう』と小さく微笑みを返した夕生に、丈はにっこりしてくれた。
校舎が見えてくる頃に離れるくらいどうってことない。丈の世界に夕生が入るわけにはいかないから、むしろその方がいい。考えながら高校の正門を通ると、玄関ホールに愛海の姿が見えた。
愛海は男子生徒数名に囲まれている。
もしかして丈の言っていた、『強引な勧誘』だろうか。
焦って小走りになる。愛海は女子だから運動部の男子には敵わない。部活に入らないと言っているのにまだ誘うなんて強情だ。
だが、近付いてみて分かった。
「丈くんに聞けばいいじゃないですか」
あれは丈の友人たちだ。校内で、丈が彼らと行動を共にしているのを何度か見かけたことがある。
派手な集団でいつも何か楽しそうに笑っている。夕生とは別の世界の人たちで、一度も関わったことがない。
「まなに聞かないでください。何度もまなに絡まないでくださーい」
愛海はごく自然に彼らと会話していた。プイッと頬を膨らませる愛海に、男子生徒たちが盛り上がる。
「くっそ。生意気だけど可愛いな」
「生意気なのも可愛い」
「こんなかわいい幼馴染いんの正直羨ましすぎる」
「だってさ、丈ってあんま好きな子のこと話してくんないし。だったら当事者に聞くしかないって」
「先輩たち退いてください――……あっ」
彼らの会話に思考が止まる。夕生はその場に立ち尽くした。
愛海がこちらに気付き、「あっ」と怪訝な顔をする。嫌そうに夕生を見てから、キッと、まるで恥ずかしそうに男子生徒を睨みつける。
『好きな子』『当事者』――……丈の好きな子について、当事者の愛海に話を聞いている。
それは、つまり……。
愛海の視線を丈の友人らは追う。こちらに気付いた丈の友人は、訝しげに夕生を見た。
夕生は唇を噛み締める。すると友人の一人が前に出て、言った。
「あれっ、君って――……」
「何してんのー」
いつの間に追いついていたのか。
声がしたと思ったら隣に丈がいた。
丈は夕生に目を向けない。いつも通り、ふわっとした笑顔を浮かべて、友人らに「おはよ」と声をかける。
丈は夕生の隣を通り抜けて、夕生の前に立った。友人らの顔が見えなくなるが目の前に丈が立っていなくてもそれは変わらない。夕生が俯いているからだ。
「おっ、丈じゃん」
「はよ」
「へい」
「ふぇい丈。おはよ」
「ちょ、その子さ、愛海ちゃんのお兄ちゃんじゃん」
最後のセリフに被せるように丈が言った。
「チャイム鳴るよ。教室行けって」
丈の明るい声は友人らに向けられている。丈の視界に夕生は一切入っていない。
目の前にいるのに嘘みたいに距離を感じた。丈の友人は愛海を知っている。噂の一年のアイドルではなく、丈の幼馴染として認識している。
夕生は一度も丈の友人と会ったことがない。けれど愛海は違う。愛海は丈の世界に入ることができる。丈の幼馴染は愛海なのだから……。
「ご、ごめん」
「……え?」
思わず口から言葉が漏れていた。
ごめん。
勝手に、入ろうとして。
「何が?」
振り向いた丈が眉根を顰める。いつの間にこちらへ来ていたのか、愛海も言った。
「お兄ちゃん?」
「夕生? ごめんって何?」
「……じゃあ、うん」
自分でも何が言いたいのか分からない。頭の中が羞恥心で熱くなる。
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