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3 あの人の番になろうとか考えてないよな?
『じゃあ、またね』とはなぜか言えなかった。愛海は平気だったのだからとにかく教室へ行こう。体の向きを変えたところでふと、緊張した脳内に声が入り込んでくる。
「兄貴これ? 全然愛海ちゃんと似てないじゃん」
夕生は目を見開いて、地面を凝視した。
唇を薄く開き呼吸を止める。
愛海の反応が見られない。丈が何を返すかが怖くなる。隣に立つキラキラした二人に自分が挟まれている状況が猛烈に恥ずかしい。
もっと軽く、当たり前みたいに返せば良かったのだが、夕生は「そ、です」と呟いた。
もごもごと何か言って「では」と逃げた。不用意に彼らの世界に入ったからダメだったのだ。「夕生」と後ろから聞こえた気がしたが構わずに二年の校舎へ向かう。背中が燃えるように熱い。
「お兄ちゃんっ」
手首をいきなり握られて、その時になりようやく自分が全力疾走して逃げ出していたことに気付いた。
「どこ行くの」
愛海が真剣な面持ちをして夕生を見上げる。
睨み上げるように見つめられて夕生は我にかえった。はぁ、と荒い息を吐き出す。愛海が言った。
「こっちから行くの? 遅刻するよ」
「あ……そうだね、ごめん」
「……さっきの怒ったから」
「え?」
「まなと似てないって言ったこと。言わなくてもいいこと言ったでしょ」
愛海がいつもより低い声を出す。
夕生は唾を飲み込んだ。
校舎にチャイムが響き渡った。五分前の予鈴だ。だが愛海は夕生から目を逸らさない。
「『うるさい』って言っといたから。だからあんなの気にしないでよ」
「うん……ごめん」
「……」
愛海は「それだけだから」と手を離した。くるっと踵を返して歩いていく。ベルの残響が心に滲んでくる。夕生は深く息を吐き、自分も二年の階へと歩き出した。
愛海は可愛くて、優しくて誠実な女の子だ。自分が嫌だと思ったことにはきちんと言葉にして返す。逃げ出す夕生とは真逆で、まさに『全然似てない』。
彼女が言い返していた声なんて全く聞こえていなかった。夕生は即座に逃げたのだから。
丈は……何と言ったのだろう。
夕生は唇を噛み締め、廊下を歩いていく。
普段学校ではチョーカーを外している。周期的にヒートが近くなった時は制服の下にこっそり忍ばせるが、少しでも異変を感じたら学校を休むようにしている。
だからまだオメガ性だとは気付かれていないし、去年のクラスでは病弱なのだと思われていた。今年も同じように過ごせば問題がない。はずなのだけど。
「三ツ矢」
「……」
四限の授業は移動で、それも校舎の位置的にかなり辺境の三階にある理科室だった。
次は昼休みなので皆さっさと荷物を片付けて教室へ帰っていく。夕生は、昼休みに丈と会ったときに何と言われるかが気になってぼうっとしていた。
きっと何も言われない。愛海が怒った姿を示したところで丈は温和な性格だ。夕生は丈が怒った様を一度も見たことがない。おそらくあの後も、友人らと和やかに過ごしたのだろう。
そんなことを考えていたから竹田が声をかけてくるのに気付かなかった。
遂には、
「三ツ矢、おい」
と肩を握られて、「えっ、うん」と顔を上げる。
「ぼうっとしてんじゃねぇよ。無視すんな」
「ごめん」
「何のろのろしてんの。お前はスローモーションで生きてんのか」
竹田はクラスの中でも中心的な存在だった。部活もバスケ部と活発で、普段から人に囲まれている。
丈や愛海とはまた違った性格だけれど彼らのように人気が集まる部類の人間だ。顔もかっこいいと、一年の時から女子に人気だった。
そう、一年の時から竹田とは知り合いだった。
なぜか去年から何かと絡んでくる。今みたいに。
「スローモーションで、生きてないはずなんだけど」
「チッ。お前には何言っても無駄な気がする」
「もう昼休み始まるんじゃない? どうしてまだ居るの?」
もう理科室には誰もいなかった。隣の準備室で、先生が誰かと話している笑い声だけ聞こえてくる。
「三ツ矢に聞きたいことあってさ」
すると竹田がニッと目を細めた。
何だろう。嫌な予感がする……。夕生は警戒して、思わず頸に手を当てたくなった。堪える。竹田はアルファ性だと噂されている。本当は他人の噂なんて聞きたくないけれど、どうしても第二性の話題は脳が勝手に聞き取ってしまうのだ。
何でもないふりをして教科書を抱える。竹田が言った。
「三ツ矢、お前、オメガだろ」
「え?」
夕生はバッと顔を上げた。
竹田は夕生をじっと見下ろすと、何か見つけたみたいに、ゆっくり笑顔を浮かべる。
夕生は呟いた。
「どうしてそれを……」
「んなの匂いで何となく分かるし」
匂い? 何、それ。
夕生は焦って自分の腕を嗅いだ。ペンケースがこぼれ落ちて、カシャンと室内に響く。竹田は机に手をついて間近で夕生を見下ろしてくる。夕生は慌てて後ろに退いた。
分かっていたって、一年の時から? それを竹田は他の人に伝えたのだろうか。聞きたいことが脳に溢れかえって整理できない。混乱する夕生に竹田は言った。
「で、お前がアルファの桜井先輩の幼馴染って本当か?」
夕生は目を瞠り、落ちたペンケースを見つめた。
背の高い竹田の声がつむじに落ちてくる。
「一年の三ツ矢愛海ってお前の妹なんだろ。だったらお前も桜井先輩の幼馴染になるじゃねぇか」
そう、愛海は丈の幼馴染だ。
既にその話は広まっているらしい。愛海の苗字に注視すれば、同じ『三ツ矢』なので夕生が彼女と兄妹だとわかる人もいる。
容姿が似ていないので気付く人は稀だ。だけど竹田は知っている。
「アルファの幼馴染いんの? なぁ、三ツ矢」
夕生はしゃがみ込んでペンケースを拾った。頸にピリッと緊張感が走る。竹田に背を向けるのは何だか怖かった。
「もしかして三ツ矢、桜井先輩がアルファだからってあの人の番になれるとか考えてないよな」
夕生はようやく竹田を見上げる。
竹田はフッと微笑みを溢した。
「桜井先輩はお前の妹みたいなやつと番になんだろ」
「……竹田くんもそう考えてるなら、どうして俺に話しかけてくるの?」
竹田が一瞬黙り込んだ。
夕生は、
「俺が」
と口にした後、『丈』と言おうとした唇を閉じる。
唾を飲み込んで続けた。
「桜井先輩の幼馴染だってこと、愛海が入ってくるまで知らなかったくらい、俺と桜井先輩には接点がなかったのに」
「見たんだよ」
すると竹田は笑顔を引っ込めて無表情になった。
「お前が桜井先輩とお昼過ごしてるとこ」
え。
夕生は言葉を失った。見られていたんだ。
丈とはいつも、校舎の端っこにある空き教室で過ごしている。なぜか丈はその部屋の鍵を持っていて、誰もやってこないので安心していた。
カーテンが閉まっているから外から見られることはないと思っていた。だがどういうわけか竹田が、丈と二人でいるところを見ていたらしい。
「あの人の番になろうとか考えてないよな?」
竹田が強い口調で、念押しみたいに言った。
「三ツ矢とは世界が違う人じゃん」
「うん、分かってる。もう行っていい?」
夕生は視線を逸らして言い切った。竹田が若干狼狽えたのが彼の手先で分かる。
竹田は拳を握りしめた。それが何だか怖くなり、夕生は返事を聞く前に歩き出した。すかさず「おいっ」と彼が追ってくる。理科室の前は階段だ。
二年の教室は二階なので下らなければならない。夕生が階段を下りようとすると、背後にいた竹田が怒鳴った。
「なんだよっ」
先ほどからなぜか竹田の声に恐怖を感じて仕方なくて。
竹田は怒鳴っただけなのに体が勝手に反応した。本能みたいにぶるッと震えて重心を見失う。あ、と気付いた時には遅かった。片足が階段から外れる。夕生の体が浮遊する。
「——三ツ矢!」
ガシャンっと、ペンケースが床に叩きつけられる音が頭の上の方で弾けた。
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