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1 幼馴染が好きな人と結ばれますように
桜井丈(じょう)の名前には『強く、逞しく、元気よく』育って欲しいという意味が込められているらしい。
それを知ったのは小学二年生の帰り道だった。
小学校には、一学年から六学年の生徒がそれぞれ地域の近い子たちで班になって帰る習慣が週に一度あった。夕生(ゆうき)の属する三番町方面の班に、丈がいる。
その時から丈は皆の中心にいる。丈が中へ行かなくても丈の周りに人が集まってくる。一つ年下の夕生は皆の歩調についていくので精一杯だ。会話になんか入ることはできず、後ろの方で黙々と歩いた。
正直な話、班下校の最中の会話など殆ど忘れている。しかしあの時女の子が『丈くんの名前ってかっこいいね』と口にしたことだけは覚えている。
『確かにカッコいいよね』『ねー』『どんな意味があるの?』興味津々な女の子たちに、丈は笑顔で返した。
それが、『強く、逞しく、元気よく』だった。
皆盛り上がり始めて、会話はそれぞれ自分の名前の由来へ移行する。夕生はこの時、一番後ろにいて良かったと強く思った。
夕生は、自分の名前の意味を知っている。
小学校に入ってすぐ、宿題で名前の漢字と意味をお母さんに聞いてくるというものがあった。夕生はその日、夜遅く帰ってきた母親に早速自分の名前の由来を聞いた。
すると母は、フッと笑って言った。
『意味? 夕方に生まれてきたからだけど?』
次の日、学校でクラスメイトたちが次々に宿題を発表していく間、夕生は恥ずかしくてたまらなかった。自分の番でどんな風に答えたか覚えていない。たった一年前の記憶なのに綺麗さっぱり忘れている。恥ずかしくて恥ずかしくて、消えたいと考えていたから、もしかしたらあの三時間目の間だけ、自分はこの世にいなかったのかもしれない。
夕生はだから、班の皆が盛り上がる最中も今すぐ居なくなりたいと考えていた。妙に緊張し、指先が冷たくなっていく。もうこのまま一人抜け出して勝手に帰ろうか。でもそれをしたら六年の人に怒られてしまう。
そうして息を潜めて話題が過ぎ去るのを待っていた時だった。
『夕生』
俯いていたから分からなかった。隣にはいつの間にか丈がいる。
丈はふんわり微笑んで、右手を上げた。
『夕焼け、きれいだな。あの雲うさぎの形してるよ』
夕生は思わず、かたく俯いていた顔を上げる。丈が腕を上げたのは遠くの空を指差すためだ。丈の、茶髪のさらっとした髪が風に揺れる。グレーの瞳に夕陽が齎す黄金の煌めきが宿っている。
夕生は丈を眺めて、
『きれい』
と呟いた。
丈が夕生に顔を向け、にっこり笑う。夕生もつられて拙く笑い返した。丈はいつも皆の中心で、丈の周りには人が集まる。途端に皆がやってきて、空の巨大な雲について『うさぎかなー?』『どこが耳?』と語り始めた。
『うんこだろ』『俺もうんこに見える』『うっさい!』『おにぎりじゃない?』『いや、あれはうん……『四年男子汚いぞ』『寒いとこに住むうさぎって耳短いんだって』『丈くんさすがにうさぎではないよ』
四年男子の『うんこーっ!』と雄叫びが夕焼け空に響き渡る頃、丈が『夕生と俺あっちだからバイバーイ』と夕生の手を引いて離脱した。
夕生はもうその時には俯いてなんかいない。隣では丈がふんわりした笑顔のまま『四年うるさかったな』と先輩の悪口を言う。
夕生も丈を真っ直ぐ見つめて笑い返した。
『楽しそうだったね』
『四年にもなってうんこで喜んでるんだからびっくりだよ』
『でもあれってうさぎだったかな? 耳がなかったよ』
『うさぎうさぎ。耳が短い、雪の国のうさぎ』
丈はのんびりと歌うように言う。冷たくなっていた手先は丈に握られてすっかり温められていた。
丈はいつも暖かくて、夕生の凍った心を溶かしてしまう。
それはいつまで経っても同じだ。
だが丈に心を溶かされるのは夕生だけではない。
――成長していくごとに丈の暖かさが影響する範囲は広くなっていった。進学する毎に丈の人気は加速する。中学でも相当だったけれど、高校生になった今では学校内で丈の名前を知らない生徒は居ないほどになっている。
丈に『制服自由でいい学校だよ』と親切心で勧められて同じ高校に進学した夕生は、入学してすぐ驚いた。たった一週間で一年の女子生徒たちから『桜井先輩かっこいい』と噂され始めていたからだ。
確かに丈は顔がとても整っているし、背も高くてスタイルがいい。お母さんが北欧系の国出身なので瞳の色もグレーで綺麗だった。
だがそんなことはまだ一週間では分からないはず。不思議に思うが、夕生の考えが甘かった。
丈は顔立ちが良くてスタイルが優れている、『アルファ性』なのだ。
二学年でもトップクラスに入るほど成績も良い桜井丈先輩。柔和な性格で誰にでも親切だから、理想のアルファだと言われている。
噂で丈を知った人たちが実際に丈を目にした時、彼らの感動はまた上乗される。丈が皆の期待値を超える美貌をもっているからだ。その美しさに自分の想像を裏切られて、ますます桜井丈の虜になる。
丈の周りには人が集まる。近くでも遠巻きにも、誰もが丈を見ている。
丈が一人になることは絶対にない。天性のカリスマ性を持った人間だ。そうした人たちはたまにいる。でもそれはアルファだからではない。
アルファでもオメガでも人々を魅了する者はいる。
その一人が夕生の妹である愛海(まなみ)だった。
彼女も人の中心になるカリスマ性を持ち合わせ、周りの目を惹きつける美貌の主であり、そして、名前に意味のある子。
「お兄ちゃん」
濡れた顔を拭っていると、鏡の端に同じ学校の制服を着た女の子が映った。
振り向けば愛美が立っている。既に学校へ行く支度が出来ているらしく、携帯を片手にして扉に寄りかかっている。
高校一年生ながらもメイクをしている。愛海によく合った素材を活かすメイクというやつだ。ついこの間明るくした髪も、毛先を丁寧に巻いている。ファッション誌から飛び出してきたような完璧な女の子は、夕生の全身を眺めて目を眇めた。
「朝ご飯食べないの? もう行かないと遅刻するよ」
「愛海は食べた?」
「うん」
「そっか。食器流しに入れといてね」
愛海は小さくため息をして、「そんくらい自分で洗ったから」と言った。
「そっか、ありがとう」
「あのさ。聞きたいことあるんだけど」
「何?」
「……丈くんのこと」
夕生は一度唇を閉じて、息を呑む。
それから「何?」と返事した。
愛海は何か言い迷うような間を空けて、整った眉を小さく寄せた。
「ねぇ、びっくりしたよ。丈くんと学校行ってるのは知ってたけど……もしかしてお昼休み、一緒にいるの?」
「……う、うん」
「へぇ……そうなんだ」
「なんで?」
「……別に?」
愛海はにっこりと微笑んだ。一瞬滲んだ冷たい眼差しなどなかったかのように。
夕生が何か言う前に愛海が笑顔のまま告げた。
「もうすぐ丈くん来るんじゃない? 急いだほうがいいよ。じゃ、まなは先に行くから」
スカートを翻して細い足を踏み出し、愛海がその場を去っていく。甘い香りが少し残った。夕生は深く息を吐き、既に拭った顔にもう一度タオルを当てる。
夕生は二学年へ進学し、丈は三年になった。そしてこの春新たに高校へやってきたのは一つ下の妹である愛海だ。
彼女もまた入学当初から話題になった人物だった。理由は丈と同じで、その美貌から。
愛海はとても可愛い女の子だ。街を歩けば芸能事務所のスカウトに何度も声をかけられる。顔もアイドルのように整っていて、手足もすらっとしている。
一学年に芸能人並みの美少女がやってきたと二学年にも直ぐに伝わってきた。きっと丈のいる三年にも。
だが皆は知らない。彼女はアルファではなくオメガだ。
皆は知らない……夕生もまた、彼女と同じオメガであること。
同じなのは第二性だけであって、妹と自分は全く違う。あの子は夕生と違って人を惹きつけるオメガなのだ。
彼女は昔から誰も彼もを虜にする魅力をもっている。でもそれは外見のせいだけでなく、性格も華のように明るく万人に親切な優しい子でもあるからだ。
夕生と違って愛海は溌剌としているし、最初から家族にも愛されている。
海のように広く愛される子、それが愛海だった。
それだけでなく人を愛する力も持っている。夕生は鏡の前で、自分から目を背けるように瞼を閉じた。
耳に蘇るのは一年と少し前の春だ……夕生は中学三年生で卒業を控えている。丈と同じ高校に合格し、我にもなく浮かれていた。
ふと真夜中に目が覚めてリビングへ降りてきた。リビングには灯りが付いていて、父と妹がいる。
妹は高校受験について父に相談している。彼女は言った。
『お兄ちゃんと同じ高校へ行く。あそこには丈くんもいるから――……』
聞いてはいけない気がして、夕生は自室へ戻った。
今でも彼女に言葉の真意は聞けていない。でもあのセリフが意味することは明らかである。丈がいるから、妹は高校を選んだ。
愛海はきっと、丈を好きなのだろう。
鏡の自分と目が合う。そうしてまた記憶に浮かんだ。
これは高校に上がってすぐ聞いた『丈』の声。
丈と友人たちが廊下で話しているのをたまたま耳にした。『お前ってキレたりすんの? 怒ってんの一回も見たことねぇんだけど』と、いつも温和な丈へ問いかける友人に、丈は答えた。
『好きな子や好きな子の大切にしてるもん傷つけられたら怒るけど』
夕生は息を呑んだ。その後彼らは『丈、好きなやついるんだ』『どんな子?』『クラスは?』と盛り上がる。
丈は『真っ直ぐ俺を見てくれる子』と言った。
もう夕生は聞いていられなくて、その場から逃げるように駆け出した。
俯きながら逃げていく。夕生は直ぐに俯いてしまう。いつも端っこにいて、誰の目も向けられないし、容姿には際立つものはなく、名前には何の意味もない。
夕方に生まれてきたから夕生なだけ。たったそれだけ。最初から意味なんかなかった。
――夕生は廊下の窓から外を眺める。
すると家の前の道路で、愛海と丈が向かい合っているのが見えた。
愛海は臆することなく真っ直ぐに丈を見上げていて、丈もびっくりするほど優しい目を向けている。愛海が先に学校へ向かうため歩き出した。
丈がその背をじっと眺めている。
……夕生には意味なんかなかったけれど。
せめて、大切な人たちには意味のある人生でいて欲しいと思う。
たとえ夕生が、あのうさぎの雲を眺めた夕焼けの頃から丈に恋心を抱いていたとしても、関係ない。
丈や愛海が好きな人と結ばれるといい。
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