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事件発生
突然大きな物音が響いた。
階下で立ち働いていた者達は、大きく重たいものが倒れたような振動を感じ、咄嗟に天井を見上げる。
暫しの沈黙の後、女性の声がした。
「誰か! 誰かすぐに来てちょうだい! 旦那様が!」
すぐに反応したのは、この屋敷で執事を任されている山中だった。
つい先月62才の誕生日を迎えたとは思えない俊敏な動きで、一段飛ばしで階段を駆け上がっていく。
「奥様!」
「こっちよ、こっち。早く! 早く旦那様を!」
この屋敷の主である斉藤雅也の妻、小夜子が青い顔をして指さした部屋に駆け込む山中。
「ご主人様!」
そこには車椅子ごと倒れている斉藤の姿があった。
遅れて駆け付けたメイドに医者の手配を命じた山中は、車椅子を引き起こして斉藤の体を引き摺り上げるように座らせる。
斉藤は今年で72才だが、若い頃からの不摂生が祟ったのか、心臓の病を患っている上に、斉藤より幾分か若い山中一人では持ち上げられないほどの巨漢だった。
「奥様、寝室にお運びします」
「ええ、お願い」
車椅子の上でぐったりとしている夫を執事に任せ、小夜子は寝室の扉を開けた。
南向きのそこは、大きく切り取られた窓が東南にあり、掃除の行き届いた心地よい部屋だ。
夕食を終えたこの時間は、重厚なカーテンがひかれている。
「手伝うわ」
「いえ、奥様には無理です。千代さんを呼びますので」
斉藤を寝かせる手伝いをしようとする小夜子を押しとどめ、山中は階下に向かって叫んだ。
「千代さん! 美奈さんも来て! 早く!」
呼ばれたのはこの屋敷に住み込んでいる2人のメイドだ。
千代と呼ばれた女は、若い頃に夫を亡くした寡婦で、厨房の管理を任されている。
もう1人の美奈は、執事である山中の姪で、学生の頃に事故で両親を亡くしていた。
3人とも千代が斉藤の後妻としてこの屋敷に入る前から勤めており、疑り深い斉藤の下でよく尽くし、この屋敷の維持管理に貢献している。
「まあ! ご主人様!」
駆け寄る2人に手伝わせながら、山中が斉藤をベッドに下ろした。
「千代さん、お医者様は?」
「山本先生がすぐに来てくださいます」
「そうか……それにしても、このところ安定していたのに。夕食後の薬は?」
「いつも通りお飲みになりましたよ。ええ、お食事も残さず召し上がりましたし、全ていつも通りでしたよ」
「そうだよな……それは私も見ていたから……」
そう言うと山中は、斉藤の枕元に呆然と立ち竦む小夜子に視線を向けた。
「奥様……急にお倒れになったのですか?」
「急に……そうですね。旦那様は夕食の後でいつものように執務室に行かれ、いつものようにご確認をなさって……急に……そうだわ。急に大きな声を出されて、車椅子から立ち上がろうとなさって、倒れてしまわれたの。私はいつも通り車椅子の後ろにいたから、一緒に転んでしまったのよ。起き上がってみたら旦那様が……急いであなた達を呼びに行ったの」
「倒れたのはコレクションのご確認の最中ですか?」
「ええ……金庫から出してボックスを開けて……そうね、その後すぐに大きな声を……」
山中はメイド2人をその場で待機させて、小夜子と共に執務室に向かった。
「奥様……あれがありません。ご主人様が命より大事とおしゃっていた『女神の涙』が……」
山中の声に息をのむ小夜子。
その横で開いたままになっているコレクションボックスを凝視したまま山中が声を出した。
「別の場所に移されました?」
「いいえ。そんなお話しは聞いてないわ」
「今朝はあったのですか?」
「ええ、確かにあったわ。旦那様はいつものように『女神の涙』を箱からお出しになって、朝日に翳してうっとりしておられたの」
「全ていつも通りですね」
「ええ、変ったところは無かったと思う」
「警察に通報します。この部屋はこのまま封鎖しておきましょう」
「え……ええ……お願いします」
山中は怯える小夜子を寝室に連れて行き、ポケットから携帯電話を取り出した。
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