第一章

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***** 信明くんと出会ったのは高校卒業後、短期大学に進学と同時に上京してすぐのことだった。 生活費を仕送りしてもらっていたけれど、少しでも自分で払いたくて始めたアルバイト。そこで出会ったのが私より五つ年上の信明くん。 『信明って呼んで』 『あ、私は夕姫です。呼ばれ慣れてるのでユウって呼んでください』 『わかった。よろしくなユウちゃん』 一年浪人したらしく当時大学四年生だった彼は、私にとってはすごく大人の男性に見えた。 バイト先は居酒屋で、就職が決まったからと卒業までの間だけバイトをしていた信明くんは私の教育係のようなものだった。 仕事に慣れた頃食事に誘われて、私もいい人だなと思っていたからとんとん拍子に付き合うことになった。 それから彼は就職。私は学生のまま。 時間のすれ違いはあったけれど、仕事が終わると家に遊びにきてくれたりとそれなりに仲良くやっていたと思う。 私が社会人になってからは会える時間が短いから、と半同棲のようになっていたけれど、信明くんの友達が結婚するという話を聞いた時に、 『俺らもそろそろ考えてみる?』 そう言ってもらえて嬉しかったのを今でも覚えている。 そんな信明くんをどうしてお兄ちゃんが"束縛彼氏"だなんて呼ぶのかと聞かれれば、私が年末年始などに地元に帰省しなくなったことが原因だと思う。 上京して最初の年の大晦日、私は当たり前のように荷造りをして帰省の準備を進めていたところ、信明くんが急に不機嫌になった。 『え、ユウちゃん、帰省するつもり?』 『え、ダメですか?』 『ダメってわけじゃないけど……え、俺と一緒に年越したくないの?』 『そういうわけじゃないけど……でも、両親にも帰るって言っちゃったし新幹線のチケットも取っちゃったので……』 その日からしばらく信明くんは口を聞いてくれなくて、結局帰省はしたけれど気が気じゃなかった。 都内に戻ってからは会ってくれたけれどやっぱりしばらく不機嫌で。 『来年からは勝手に帰省すんなよ。俺、年末年始もユウちゃんと一緒に過ごしたいし』 不貞腐れたような言い方が、当時の私には可愛らしく見えた。 それ以来、私は年末年始やお盆には帰省せず、ほんの少し時期をずらして数日間だけ帰省していた。 それすらも嫌な顔をされたことと、就職してからは私の仕事も忙しくなったこともあり、さらに帰るのが難しくなってしまった。 そのため、ここしばらくの間は全く帰省できていなかった。 その他にも私の行動を制限するような言動が多々あったけれど、好きだったから平気だった。 友達にはドン引きされたこともあったけど、私は愛されてるんだなと思えたから平気だった。 結婚の話も出て、全部順調だと思ってた。 それなのに、二股をかけられていた。 それに気がついたのは、友達に教えてもらったからだ。 『ずっと言えなくて。でも、ユウが傷付くの黙って見てられなくて。ごめんね。私、見たの。ユウの彼氏さんが他の女の人とデートしてるとこ』 『何かの間違いかと思った。ただの知り合いとか、仕事関係の人とか。でも、彼氏さん、その女の人とホテル入って行って……』 それを聞いて、私の頭は真っ白になった。 ちょうどその日は、信明くんが私の家に来る予定の日で。 仕事終わりにやってきた信明くんからは、知らないシャンプーの香りがした。 黙っていられなくて、私はそれを問い詰めた。 『ねぇ、今日別の女の人とホテル入ったって本当……?』 『は? 何それ』 『私の友達が、見たって言ってて……今もシャンプーの匂いしてるけど、それ、信明くんがいつも使ってるやつじゃないよね……?』 すると、 『あー……うっざ』 心底面倒臭そうなその台詞に、私は吐き気を催した。 『そういうのマジでうざいからやめたほうがいいよ? あぁ、浮気? してるよ。つーか、お前が浮気相手だから。俺にとっては向こうが本命』 『だって、結婚の話……』 『そう言っておけばお前なんでも言うこと聞くじゃん。顔可愛いし何かと都合よかったし体の相性良かったし、……なんか中毒性? があって、手放したくなかっただけ。でももう萎えた。俺面倒なやつ嫌いだからもうお前いらね。さよなら』 そう言って、彼は私の前から去っていった。 ……そしてそれが、つい二日前のことだったのだ。 思い出して、ため息が溢れる。 日向の言う通り、飲んで食べて忘れてしまおう。 そう思ってビールをぐいっと煽る。 酔いが回ってきているのが自分でもわかる。 このお酒が抜ける頃に私の頭の中から信明くんのこともすっぽり抜けてくれればいいのに、なんて馬鹿なことを考えてしまう。 「……私って、馬鹿だな」 あんな惨めな思いをしたのに。 あんな男でも好きだったなんて。本当、馬鹿。 ビールを煽りながら落ち込んでいると、不意に自室のドアをノックする音が聞こえた。 「……はい」 ドアを開けると、 「……起きてた?」 「うん」 そこには日向の姿があった。 「どうしたの?」 「いや。なんか眠れなくて。起きてるなら一緒に年越ししようって誘いに来た」 その手には私と同じビールがあり、考えることは同じかと思って笑う。 「いいよ。私も眠れなかったからちょうど良かった。おつまみもあるしここで一緒に飲みながら年越ししよ」 「あぁ」 スウェット姿の日向を招き入れて、ベッドに案内して小型テレビのスイッチをつける。 「お兄ちゃんは?」 「もう寝たよ。あいつ昔っから夜弱いよな」 「健全に寝ちゃうタイプだからね。寝てる間に年越してるタイプ」 「小学生の時から何も成長してねぇ」 「ははっ、そうかも」 そんな話をしながら日向の隣に座り、改めて乾杯をする。 テレビからはアイドルが歌う声が聞こえてきて、キラキラした世界が眩しく見えた。 「もうすぐ年明けるね」 「あぁ。来年はどんな年にしたい?」 「来年かあ……そうだなあ……今度こそ、私を幸せにしてくれる人に出会いたいな」 そうこぼして、急に正気に戻ったように恥ずかしくなってしまい、 「なんてね」 と笑って誤魔化す。 しかし、日向は私のことなんてお見通しのように 「いいじゃん。恋愛成就の年ってことだろ」 そう笑ってくれる。 「でも、イタくない? この歳でこんなこと言ってるなんて」 「そうか? 皆言わないだけで腹ん中では同じように思ってんじゃねーの?」 「……そう、かな」 「大体の人は幸せになりたい、幸せにしてくれる人に出会いたいって思ってると思うよ。……お前みたいに恋人と別れたばっかりのやつは特にな」 そういうものなのかな。 わからないけれど、日向がそう言うのならそうなのかもしれないと思える。 「何で別れることになったのかは知らねえし夕姫にとっては不本意かもしれない。だけど、俺も星夜も夕姫がその男と別れてくれて正直ホッとしてる」 「……うん」 年末に帰省しなくなってから、お兄ちゃんからよく連絡が来ていた。 内容は他愛ないもので、元気か?とか、バイト大変じゃないか?とか。 それにいろいろ答えているうちに信明くんの話にもなって、相談したりもしていた。 多分、それをお兄ちゃんが日向に話したのだろう。 「夕姫は昔から男運無いだろ。だから星夜も俺も、すげぇ心配だった」 「うん」 「だから今ホッとしてる。ごめんな」 「いいの。二人の気持ちもわかるから。私の方こそごめんね、心配かけて」 そんな話をしているうちに、年が明けるまで残り一分を切っていた。 「年越しの瞬間、何する?」 「んだよその小学生みたいな質問。なんもしねーよ」 「ははっ、そっか」 残り三十秒を切って、テレビの中のアイドルたちがそわそわしながらカウントダウンをし始める。 それをじっと見つめていると、隣から息を呑む気配がした。 「……なぁ、夕姫」 「ん?」 「さっきの、夕姫を幸せにしてくれる人に出会いたいって話だけど」 「ん? うん」 それがどうしたの?と、聞こうとした時。 「……俺、立候補していい?」 「……え?」 見上げた先で、視線が絡まった。 「年越しの瞬間なにもしないっての、やっぱ撤回するわ」 「え……」 テレビからは、十秒前!という声が聞こえてくる。 それなのに、日向と私の間だけ、時が止まったかのように微動だにしない。 そして。 「俺はこのチャンス、無駄にはしねぇよ」 「な、に……?」 「……夕姫」 カウントダウンの声と共に、名前を呼んだ日向の顔がそっと近づいてきて。 「ハッピーニューイヤー!!!」 お祝いの声と共に、そっと唇が重なった。
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