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『夕姫? どうした? 何かあったか?』
「あ……ううん、なんでもない」
『……』
仕事終わり、約束していた通り日向からかかってきた電話に出たものの、私は動揺が隠しきれない。
最近こんなことばっかりだ。すぐに思考が停止する自分自身が憎たらしくて仕方ない。
せっかく日向とゆっくり話せる時間なのに、私の頭の中では浅井さんの声がこだましていた。
"秋野さんのこと口説いてもいい?"
予想だにしなかった言葉と頬に感じた感触に、頭が混乱している。
『夕姫』
「ん?」
『やっぱお前、何かあっただろ』
「え……」
『俺に隠し事できると思うなよ?』
顔も見えないのに、どうして日向にはわかってしまうのだろう。
不思議で仕方ない。
だけど、私のことを好きだと言ってくれている日向に、浅井さんのことをどう言えばいいのかがわからない。
『何があった?』
「……」
『言って。心配だから』
「あの……」
『うん?』
「その……今日、会社の人に、言われたの」
『うん、なんて?』
「……秋野さんのこと、口説いていいか……って。それで……頬に、キス……されて」
日向が、息を呑んだ音が聞こえた気がした。
「その人、会社の先輩なんだけど、今までそんな素振りなかったしいきなりだったからびっくりして……。それで動揺しちゃってたの。ごめん、日向にこんな話するべきじゃないっていうのはわかってる。自分で解決しなきゃいけないことくらい、わかってる」
返事が無いのは肯定の意だろう。
日向は少し黙った後、
『……夕姫は、その人のことどう思ってんの?』
恐る恐る聞いてきた。
「私? 私は……その人には申し訳ないけど、ただの職場の先輩としか思ったことない。優しいし頼れるのは知ってるけど、それ以上には思えない」
あれから、どうやって断ればいいのかをずっと考えていた。
私にとって浅井さんはあくまでも職場の先輩であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
頬にされたキス。
……正直、すごく嫌だった。
答えると、日向は心底安心したように息を吐いているのが聞こえた。
『……夕姫』
「ん?」
『こんな時に言うことじゃないかもしれないけどさ』
「……」
『……会いたい。今すぐ夕姫に会いたい』
「っ……」
胸が締め付けられるほどに切ない声に言葉が詰まる。
『今から、会いに行っていいか? ……いや、やっぱダメって言われても行く。そこで待ってて』
私の返事を聞く前に、日向はそう言って電話を切ってしまった。
それから十五分後。
窓の向こうで車のヘッドライトが消えた少し後にインターホンが鳴り、モニターにはパーカー姿の日向が映る。
急いで玄関ドアを開けると、そのまま勢い良く抱きしめられた。
「……日向?」
「夕姫。こんな時間に来てごめん」
「ううん。大丈夫だよ」
後ろ手に玄関の鍵をかけた日向は、私を抱きしめたまま離そうとしない。
それどころか、
「キスされたのどっち?」
と聞かれて、指差すと
「……消毒させて」
上書きするように何度もそこにキスをされた。
浅井さんにされた時とは違う、熱を持った頬。
「日向……」
「ん、もうちょっとだけ」
だけど、いつまでも玄関でこうしてるわけにもいかない。
「……日向、ここじゃ寒いから、とりあえず中入って?」
背中を軽く叩くと少し身体を離してくれたため、手を引いて中に通す。
ソファに座らせてお茶を出そうとするけれど、日向はそんなのお構いなしにもう一度私を抱きしめた。
「日向、お茶出すから……」
「いい、大丈夫」
「でも」
「大丈夫だから、ここにいて」
今にも消え入りそうな声に、私は「わかった」と頷いた。
「……俺、情けねぇな」
「ん?」
「夕姫が告られたって聞いて、キスされたって聞いて、まじで焦ってる」
「日向……」
「多分、夕姫以上に今めちゃくちゃ動揺してる。夕姫がまた手の届かないところに行っちゃうんじゃないかって。俺以外の男のところに行くのかって考えたら……怖いんだ。怖くてたまんない。俺が口出しできることじゃないのに。俺だって無理矢理夕姫に手出して、何も人のこと言えねぇのに。どうするかは夕姫が決めることなのに。……大の大人が情けねぇよな」
小さく笑った日向は、私の肩に顔を埋める。
私はそんな日向がすごく愛おしくなり、背中に手を回してから右手でぺたんこになった髪の毛をゆっくりと撫でた。
「日向」
「……」
「私、本当にその人のこと、なんとも思ってないよ」
「……うん」
「あれが告白なのかも正直よくわかんないしね。確かにびっくりしたし動揺しちゃった。頬にされたキスも……本当は口にされそうになって。嫌で逃げたようとしたの。すごく嫌だったし、怖かった」
「……」
「だからこうやって日向が来てくれて、こうやって抱きしめてくれて、すごくホッとしてる自分がいるの。日向といたら、なんか頭の中すっきりした。明日、ちゃんと断ってこようと思う」
「夕姫……」
私の様子がおかしいことに気付いてくれて、こうやって駆けつけてくれて。ありがとう。
「すごく私のこと大切に想ってくれてるの、嬉しい。日向が来てくれて嬉しかった。だから情けないなんて言わないでよ」
抱きしめる力を強くした日向に、私は笑ってしまう。
今までどう断ろうかってずっと考えていたけれど、日向にこんな顔をさせるくらいなら、シンプルに思っていることをそのまま伝えよう。
明日、浅井さんと話をしよう。
そして今は、日向に私の気持ちを伝えよう。
「……ねぇ日向」
「ん?」
「疲れてるのに会いに来てくれてありがとう。今日のこと、すごくショックで……本当はね、私も日向に会いたかったんだ。だから嬉しい」
「……夕姫」
「日向。……告白の返事、今していいかな?」
聞くと、日向は肩を跳ねさせてからゆっくりと顔を上げる。
その目の奥は不安に揺れていて、見ているだけで胸がキュッと締め付けられた。
「日向。私も、日向のことが好きだよ」
「ゆ、うひ……?」
「この何ヶ月か、日向と一緒に過ごして気が付いた。私、自分で思ってる以上に日向がいないとダメなんだなって」
「……」
「日向といる時間が大好き。毎日会いたい。思い切り泣かせてくれて、思い切り甘やかしてくれる日向が大好き。日向といるとすごく楽で、素の自分でいられるの。落ち着くし、癒される。あぁ、好きだなあって思う。そんな人、日向以外にいない。考えてみたら、昔っから私が泣ける場所って、日向だけなの。強がりで断れない性格で面倒臭い私が、弱いとこ見せられるのは日向だけなんだ。……多分だけど、お正月に衝動的に地元に戻ったのも、日向に会いたかったんだと思う。日向なら慰めてくれると思ったのかな。無意識のうちに日向を求めてたんだと思う」
なんで気付かなかったんだろう。どうして見落としていたんだろう。
こんなにも、近くにいたのに。
誰よりも側で、私を愛してくれていたのに。
それに気付かず、日向の気持ちを利用するみたいに無意識に頼って縋って甘えて。今さらになってようやく気が付くなんて。
ずるいなって、最低だなって。自分でもそう思うよ。
目を見開いて言葉を失っている日向の頬に手を当てる。
「……日向。いっぱい待たせちゃってごめんね。たくさん心配かけて、傷つけてごめん。今更って呆れられるかもしれないけど、私、日向のことが大好き。やっと気付いたの。もう一人のお兄ちゃんとしてじゃなくて、男の人として日向が大好き。これからも、私は日向と一緒にいたい。一緒にいさせて? 私、日向の隣にいたいの。日向じゃなきゃダメなの」
顔を近付けて、私からキスをする。
そのまま額をくっつけて目を開くと、今にも泣きそうな日向がいた。
「──日向、大好きだよ」
笑顔でもう一度そう伝えた瞬間、息ができなくなるほどキツく抱きしめられた。
「これは、夢か……?」
呟く声に、笑って首を横に振る。
「夢じゃないよ、日向」
くぐもった声は、日向の耳にも届いているようだ。
「夕姫……夢じゃないなら、もう一回言って……」
それが、どの言葉のことを指しているのかはわからないけれど。
多分、
「……日向、大好きだよ」
これだと思った。
「……もう一回」
「日向、大好き」
「もう、一回」
「日向だけが大好き」
「……ありがとう。夕姫。俺も夕姫が大好きだ」
しばらく、私たちはそのまま抱き合っていた。
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