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第二章
「秋野さん、こっちの処理お願いできる?」
「わかりました。そこ置いといてもらえますか?」
「ありがとう! 助かる!」
「秋野さん、こっちも!」
「えぇ!? 急ぎですか!?」
「明日の朝イチ! 頼んだ!」
そう叫んで鞄を持って走って出ていく営業部の社員を見送り、
「なんで休み明けからこんな忙しいのー……」
と資料を取りながら文句をこぼす。
お正月休みが明けた仕事始め。
私は都内の自宅に戻り気持ち新たに出勤したのだが。
来て早々社内は軽くパニックのようになっていた。
どうやら他部署の案件で年末に納品したものの中にミスがあったらしく、新年早々先方をかなり怒らせてしまったらしい。
営業部は朝からその処理に追われており、その結果他の案件の処理が営業部だけでは捌ききれずに総務にも回ってきたのだ。
ただでさえ年始は忙しいのに、今年は例年の何倍もの仕事量がのしかかってくる。
お昼どころかまともに休憩に入ることもできずに仕事をし続け、ようやく帰ることができたのはすでに二十二時を過ぎたあたりだった。
へろへろになりながら帰り道を歩き、自炊する体力なんて残ってないからコンビニで適当に食べ物を買って帰る。
やっとの思いで家に着きご飯を食べていると、日向から連絡が来ていることに気がついた。
"お疲れ。今電話できる?"
メッセージは三十分ほど前に来ていたようで、私は慌てて
"お疲れ。今見た。大丈夫だけどどうかした?"
と返す。
するとすぐに電話がかかってきて、スマホを耳に当てた。
「日向?」
『悪いな、仕事始めで忙しいのに』
「それは全然いいけど、どうしたの?電話なんて珍しいじゃん」
日向の連絡先はずっと知っていたけれど、電話どころかメッセージすらあまり来なかったからこういうことは珍しい。
『いや、今まではお前の彼氏に悪いなと思って控えてたんだよ。でも別れたんなら関係ないと思って』
「あぁ、そういうこと」
どうやら日向なりに気を遣ってくれていたらしい。
『なぁ、今月末の金曜の夜、時間あるか?』
「今月末……今のところ予定は特にないから大丈夫だとは思うけど」
『ん。じゃあその日空けといて』
「こっちにくるの?」
『あぁ。実は出張でそっちに行くことになったんだ。土曜に帰るから、金曜の夜に食事でもどうかと思って』
ドクンと、胸が高鳴る。
出張の後に、わざわざ私に会いに……?
驚いて、
「そ、っか。わかった。空けとくね」
そんな返事しかできない。
大学時代の友達もこっちにいるはずなのに、その人たちじゃなくて私に会いたいと、そう思ってくれたのだろうか。
『それより、なんか声変だけど、もしかして大分疲れてる?』
「あー……、うん。よくわかったね。実は会社でバタバタしててすっごい忙しかったの。もうへとへと」
『やっぱり。メシはちゃんと食ったか?』
「今食べてるよ。コンビニご飯だけど」
『そうか。あんまり無理すんなよ。放っとくとお前はすぐ一人で抱え込むんだから』
「うん。ありがとう」
スピーカー越しでもわかるなんて、そんなに私は疲れ切った声をしていたのだろうか。
でも日向の声を聞いたら、なんだかスッと楽になったような気もする。
『急に電話して悪かったな。あったかくしてゆっくり休めよ』
「うん。おやすみ日向」
『おやすみ』
電話を終えるとすぐに眠気が襲ってきて、ご飯もそこそこにシャワーを浴びてからベッドに倒れ込む。
「明日も仕事かあ……」
明日も忙しいんだろうけど、月末には日向に会えるし……。
そこまで考えて、日向に会うのをすごく楽しみにしている自分がいることに気がついた。
あんなことがあって、気まずい気持ちもあったのにまたすぐに会いたいだなんて……。
膨らみ始めた気持ちに、気づかないふりをして眠る。
その日は夢も見ずにぐっすり眠っているうちに夜が明けていた。
*****
日向との約束の日は、忙しなく過ごしているうちにあっという間にやってきた。
"待ち合わせは十九時ごろで大丈夫か?"
そんなメッセージが朝から来ていて笑ってしまう。
それに承諾の返事をして、いつも通り出勤した。
「秋野さんおはよ」
「真山さん、おはようございます」
「なんか機嫌良いね」
「え、そうですか?」
「うん。いつもより雰囲気が明るい気がする。さてはいいことあったなー?」
「いや別にそういうわけじゃないですよ。ただ、今日はちょっと予定があるのでそれが楽しみではあります」
「珍しいね、あの彼氏さん?」
「あれ、言ってませんでした? 彼とは年末に別れちゃったんです」
「え!? そうだったの!?」
「はい。いろいろありまして」
出勤早々、エントランスで同じ総務部の先輩である真山さんと会い、一緒にオフィスに入る。
エレベーターに向かいつつ信明くんと別れたことを告げると、目を見開いて驚いた後に
「そっかあ……。でもこんなこと言ったら秋野さんは怒るかもしれないけど、ちょっと安心した」
と笑った。
「もー、真山さんまでそんなこと言う」
「他にも誰かに言われたの? そりゃそうだよ。その元彼さん、束縛すごかったじゃん」
「すごかったんですかね……」
「すごかったと思うよ。彼が嫌がるからって会社の飲み会も全部断ってたでしょ。私、結構寂しかったんだからね?」
「そういえばそうですね……すみません。いつのまにかそれが当たり前になってて、あんまり気にしてなかったかもしれないです」
「すっかり洗脳されてた感じだったもんね」
真山さんにも言われてしまうほど、信明くんの束縛はすごかったようだ。
言われてみれば会社の飲み会にもここ数年行ってないし、友達とも連絡は取るけど実際に会っていない。
ランチで社内の人たちと近所に出かけるくらいしかそもそも外に出ていなくて、友達の結婚式に行くのも信明くんに嫌な顔されたっけ……。
あれ、もしかして、私相当ヤバい人と付き合ってた?
自分を客観的に見て初めて、真山さんの言うとおり洗脳されていたのかもしれないと気がついた。
日向もお兄ちゃんも、私が信明くんと別れたことに喜んでくれているのが複雑な気がしていたけれど、当たり前のことだったのかもしれない。
それだけ心配をかけていたのかと思うと申し訳ない気持ちにもなる。
「でも……その人と確か結婚の話も出てたんじゃなかった? なんで別れたの?」
「それが……いや、あんまり大きな声では言えないので……今日のランチの時でもいいですか?」
「……だいぶやばい話ってことね? わかった。じゃあ後で聞かせて。個室のお店探しとく」
「ありがとうございます……」
真山さんの気遣いに感謝しながら、エレベーターに乗った。
「秋野さん、おはよう」
総務部に入るとすぐに、営業部所属の先輩、浅井さんが声をかけてきた。
営業部と総務部は隣だけど、朝からこちらにいるのは珍しい。
「浅井さん、おはようございます。総務部にご用でしたか?」
「いや、この間商談についてきてもらっただろ? そのお礼渡しに来たんだ」
「え!? そんな、私はただついていっただけみたいなものですし、お礼なんて受け取れませんよ」
「そんなこと言わずに。データもまとめてもらってかなり助かったんだ。だからほら、受け取って」
そう言って差し出された小さな箱。
近所でおいしいと評判のパティスリーにある焼き菓子セットだ。
確かに数日前に浅井さんに頼まれて商談についていった。いつも一緒に行ってる営業事務の女性社員が休みだったから、私が借り出されたのだけど。
特に何をしたわけでもないし、ただデータをまとめて浅井さんの補佐的役割をしただけだ。
こんなお礼をいただけるようなこと、した覚えはないのだけれど。
「可愛い! ……こんな素敵なもの、いただいちゃって本当にいいんですか?」
ここで無理に断ったら、逆に浅井さんに気を遣わせてしまうかもしれない。ここはありがたく気持ちを受け取っておくのが良いだろうか。
そう思っておずおずと受け取ると、浅井さんは嬉しそうに笑ってくれた。
「もちろん。その代わりまたお願いするかもしれないから、その時は頼むよ」
「はい。ありがとうございます」
会釈をすると、浅井さんは颯爽と営業部の方へ戻っていく。
「ちょっと秋野さん、最近浅井くんといい感じなんじゃない?」
「え?」
「浅井くんも秋野さんのこと気に入ってるみたいだし、彼氏と別れたんなら狙ってみたら?」
「真山さん何言ってるんですか、そんなんじゃないですよ」
浅井さんが見えなくなったところで真山さんが私をからかいにくる。
「でも、浅井くんって社内でもかなり人気じゃない? だから、もし秋野さんが少しでもいいなって思うならチャンスだと思うけどなあ」
真山さんの言うとおり、浅井さんは営業部のエースであり、その整った容姿も相まって社内でもトップクラスに人気がある人だ。
甘いマスクから放たれる営業スマイルは数々の女性を虜にしているらしく、秘書課の女性社員たちが密かに狙っているらしいという噂も聞くし、取引先の女性からもよく声がかかると聞く。
私は今までかっこいいとは思うことはあったけど、だからといって必要以上に恋愛対象として意識したことはなかった。
常に浅井さんの周りには女性がいる印象だし、こういう些細な気遣いも抜かりない。
ものすごくモテる人だから、私のことなんて眼中にないのはわかっている。
「もう、そんなんじゃないって言ってるじゃないですか。ほら、仕事しましょ」
「私はいいと思うんだけどなあ? ま、いっか」
真山さんとは向かいのデスクに座って、仕事を始めた。
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