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女が眉間にシワを寄せて言う。
「落ちないって分かっていても、ここに乗るのは怖いわね」
「そうだな」
「やっぱり、聡さんも怖いのね」
いたずらっ子みたいに女が笑う。
真顔で俺は聞いた。
「そう思うの? もう子供じゃないんだ」
俺は辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、ガラスの上にジャンプする。
大柄な俺が、大ジャンプしてガラス床に着地する。
ドスンとあり得ない大きさの音が辺りに響く。
女が小さく叫ぶ。
「あ、ぁ、あぁ……。ひぃぃ…………」
女の顔は青を通り越して、紙の様に白くなる。
痛快とはこの事だろう。俺は女の驚いた表情に満足して笑う。
「あはは、もう何回か飛び跳ねたらガラス板が割れて、俺はそのまま地上に叩きつけられるかもな」
俺は再びジャンプしようと、ガラス床の上で腰を落とし、そして大袈裟に腕を前後に振る。
ニヤつきながら俺は聞く。
「なぁ、もう1回ジャンプしてみようか?」
女の表情は引きつっていた。
「やめて……」
女が俺に抱きつく。杖が女の手から離れて床に落ち、カランカランと音がした。
「やめて……、怖い。本当にガラスが抜けたりしたら……」
俺は笑いながら答える。
「抜けるわけがないだ……」
そこまで言って、俺は笑うのを止めた。
俺が飛ぶのを止めさせるために、俺の身体にのしかかってきた女が、木の葉みたいに軽かったからだ。人の重さではなかった。女の体だけ重力を失ったみたいだった。そして体が異常に細かった。
思わず俺は言う。
「母さん……」
女が俺を見る。
「……あっ。母さん……って呼んでくれてありがとう」
俺は我に返る。
「でも、もう呼ばないから」
女は噛みしめるように言う。
「1度でも良いの。嬉しい」
俺は女を離す。
「それにしても、アンタぁ、ずいぶん軽いな」
女は杖を拾おうと、よろけながらしゃがむ。
「これってバツなんだと思う」
俺は答えを知っていて質問した。
「バツって何のバツよ」
俺がした質問は残酷で……。
「うふふ」
「なんで笑うの」
――今の俺はとてつもなく意地悪だ。
「うふふ」
「笑うなよ」
女はしゃがんだまま俯いて身動きしなくなった。
俺は何も反応がなくなった女を見下ろし、どうしたものかと身体を曲げて、顔を覗きこんだ。そして見なければ良かったと俺は思う。
「笑うなって言っただけなのに、今度は泣くのか……。参ったな」
女は俺から顔をそむけ、手で涙を拭い、杖の力を借りて立ちあがる。まるで産まれたての子鹿のように見えた。
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