忘却の南柯の夢、東京タワーに馳せる

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 女はなんとか自力で立ちあがると、息を切らしながら言った。  「はぁ、はぁ。参ったな……かぁ。はぁ、はぁ。お父さんと同じ口癖ね。ふぅー」    女は泣き止んでいた。  「あ……、確かに……。親父と同じ口癖か。最悪だ。参ったな……、あぁ!」  女は花のような笑顔をみせた。  「あの人は元気にしているの?」  「元気だよ」  「なによりね」    俺は思い切って聞いた。  「なんで俺と親父を捨てたんだよ」  「ごめんなさい」  「理由を聞いているんだ。謝罪を聞きたいんじゃない」  「ごめんなさい。でも(さとし)さんのこと、愛して()()のよ」  「でも長瀬さんを選んだんだろう?」  「ごめんなさい」    繰り返さえる謝罪の言葉に、理由が何だったのか浮き彫りになる。 「ごめんなさいを、オウムみたいに繰り返すなよ。もういいよ。もう理由なんて聞きたくない」    けれど女は繰り返す。  「ごめんなさい」    俺はやるせない。  「……もう降りよう」  「そうね、私、疲れたみたい」  俺は頷き思う。    ――俺も疲れた。    俺たちは降りエレベータに乗る。  もう一緒にいたくなかった。  「帰りは電車で帰るから。送らなくていいよ」  「一人で大丈夫?」  「アンタたちは、ホテルとかとってあるんだろう? ホテルに戻って、早く休んだ方が良いよ」  「……ホテルじゃなくて、都内の病院に戻るのよ。実は(さとし)さんに会うためだけに東京に来たんじゃないの」    鎧を(まと)った俺の心の僅かな隙間に、心配と言う文字が入り込んだ。  「何処の病院に入院しているの?」  「それは言わないでおくわ。もう(さとし)さんと会う事はないから」  心配と言う言葉は、呆気なく心の中から追い出される。    「勝手だな。さっきは話したくないって言ったよね? なのに、別れ際になって気になる事ことを小出しに言う。そんなに俺の気を引いたいのかよ!」  「そんなつもりじゃ。話の流れでつい……」  俺の心に火が付いてしまった。  「アンタは勝手に会いに来て、約束を果たしたらもう会うこともないと言った。俺の気だけ引いて、突き放す。折角今までアンタの事を忘れていたのに、思い出させてまたそっちの都合でサヨナラかよ」  「……そうね。ごめんなさい。私、つい……」    憎まれ口が止まらない。  「それに俺は病院の名前を聞いただけだ、会いに行くなんて一言も言ってないよ。自惚れるな!」  病人に向かって最低な事を言っていた。  ――これではまるで駄々っ子だ。    「……確かに、そうね。でも、私。(さとし)さんの記憶どころか、世の中から消えてしまうかもしれないから。お見舞いされたくなくて……」  切なげな女の表情が、余計に俺の心を刺激する。    俺は容赦なく攻め続ける。  「アンタは俺に嫌味を言っているの?」  女は悲痛な表情を浮かべた。  「嫌味じゃないの。治療の成功率は10%しかないの。これでダメなら、私は消えることになると思う」  「そんなに悪いのか……」  女の病状は俺の想像をはるかに越えていたらしい。    「治療を始めたら治療の副作用で、私は弱っていく。オムツして、点滴うたれて、管を通されて……。そんな惨めな姿を(さとし)さんに見られたくないのよ」  女の言い分に、俺は無性に腹がたった。  「何だよ。その理屈は」  「ねぇ、今はまだ、私は綺麗でしょう? 綺麗なままの私を(さとし)さんに記憶して欲しかったの」  俺の語気はまた強まってしまう。  「言っていること分からないよ。アンタの言っていることもやっていることも、全然理解出来ないよ」  「(さとし)さんの記憶の中では綺麗なママでいたいのよ。でももし治療が成功して、元気になれたら。綺麗なママに戻れたら、またこうして……」    俺は女の言葉を遮り言った。  「次の約束はしない。父さんに悪いから……。たとえアンタが病気で苦労していても、男手一つで育ててくれた父さんを裏切れない。父さんが可哀想そうすぎる。アンタと会うのはこれで最後(おしまい)だ」  俺の言葉の終わりに合わせたかのようにエレベータが止まり、ドアが開いた。  
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