神様を観察した話

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神様を観察した話

 今から10年前の話。つまり、追ノ地(おいのち)(だん)さまがまだ高校生だったころの話です。  私はありがたいことに、追ノ地断さまと同じクラスにいました。ああ、私ですか。私のことは何とでもお呼びください。注目する必要のない日陰者ですから。  今はあのお方、小説家をやってらして、追ノ地断というのもペンネームで、きらびやかな本名があるのですが、やはりこのお名前で呼ばせていただきます。  断さまは高校のころから存在感がありました。大金持ちで、頭もずば抜けてよくて、人望があって。金持ちと言っても、日本一のお家の息子さまですから、それだけで特異なのですが、数学における、50年間誰も解くことができなかった難問を、高校1年生のときにほとんど完璧に証明してしまわれる天才でもありました。あの方の影響力はすさまじく、あの方が機嫌を損ねれば、大物政治家だろうとひたいを床にこすりつけて謝るほどで、生徒はおろか教師陣まであの方に逆らうことなどできませんでした。  でも、断さまは奇妙なほどに謙虚でした。自分の意見を言うことなどほとんどなくて、周囲にあわせて「それでいいんじゃないか」とニッコリ笑うばかりで、あのお方が自己主張をしたことはほとんどないんです。周囲はあのお方のご機嫌を絶えず伺っている、断さまは周囲の人の意見にあわせる、このちぐはぐな状態を学校全体で維持していて、それが当たり前になっていました。  断さまが命じればすべての人が何でも言うことを聞きました。でもその彼がどうして自分を抑えていたのか、その理由は断さまの生まれにあると思います。あのお方、大金持ち一家に生まれましたが、上から7番目の男子だったので、お兄さま方に気を遣ってらしたんです。兄たちの機嫌を損ねるくらいなら、自分の願望は押しころそう、それがあのお方の考えでした。  孤独。  彼を包む環境をひと言で言うのであれば、それが適切だったでしょう。  学校内外、ほとんどすべての人が、あのお方を崇拝していました。でもあのお方は、特別扱いをひどく嫌う方でした。きっと居場所がほしかったのでしょう。友だち同士でワイワイやっているのを見て、寂しそうにしているのを、よく見ました。  私は彼を誰よりも観察しておりましたから、彼が一瞬だけ憂いを帯びた表情をする姿、見ることができました。私は、そんな断さまが好きでした。その表情を、美しいと思っておりました。  私は影が薄いので、誰かと打ち解けることがありません。忘れられた存在なのです。だから、断さまの孤独が、自分のことのように感じられるのです。  私は断さまに話しかけられたことが、ない。でも私は断さまのことを、誰よりも知っています、歯を磨くときはまず右上の奥歯に歯ブラシを当てること、服を着るときは左の袖にまず腕を通すこと。それから木曜日の昼食時におはぎを食べる場合が多いこと――、木曜日である理由は、その直前にパソコンを触る授業があるからなんです。あのお方、ものすごく頭がいいのですが、電子機器は笑ってしまうほど苦手なんです。でもこの弱点も、もしかしたら彼の、周囲から嫌われないための演技かもしれません。誰もが彼の愛を求める一方、彼は誰からも嫌われないよう努力する、不思議な構図ですよね。ああ、話がそれました、要するに、苦手なパソコンの授業の後、糖分補給に甘い物を食べるんです。可愛いですよね。  私、彼のことなら何でも知っています。私なら、彼を理解できる。世界で私だけが、断さまの理解者になれる。  はい。  そう思っていました。  あのときまでは。  あるとき、断さまに変化が起きました。断さまは、別のクラスの男子生徒と、ある日、遊ぶことになったんです。忘れもしません。相手の男子生徒は、入江(いりえ)燈次(とうじ)という名前でした。私、断さま以外の人はどうでもいいので、そんな人、まったく知りませんでした。  その男子生徒と遊んだ翌日、学校に来た断さまが……。断さま、最初はいつも通りでした。気遣いに満ちた笑い方で、同じクラスの人と話していました。表面上は通常通りでも、どこか空気感が違いました。  朝、入江燈次が登校してきて、断さまに手を振りました。入江燈次は子どもっぽくて、空気が読めないので、神も同然の断さまを、無礼にも、「おはよう断!」なんて呼び捨てにして、呼びかけたんです。それに対して断さまは、何故か歯を見せて笑って、そう、歯を見せて笑いまして、手を上げ、こう言ったんです。 「よう、燈次!」  よう、なんて、荒っぽい挨拶、あの方の口から聞くとは思いませんでした。私は断さまをいつも見つめていましたから、本当はそういう、粗野な喋り方をしたいこと、私は知っていました。しかしそれを、実際に口にするなど、考えられなかったんです。  私は驚きました、彼の取り巻きたちも驚愕していました、でも断さま、気にしないで、大股でずかずかと、入江燈次のほうへ歩いていきました。そして断さま、入江燈次の肩をバシッと叩いて、彼と話しはじめました。 「よう、燈次。朝から元気だな」 「断はヌボーっとしているな」 「俺、元々寝起き悪ぃんだよ。それなのに燈次が昨日、DVD鑑賞だのトランプだのをさせるから。なおさら目覚めが悪いんだ」 「昨日は断もノリノリだっただろうが。俺が眠りそうになったら、渋い茶を飲ませて起こしてきただろ」 「ケケケ。てめぇが、俺が勝つ寸前に寝ようとするからだよ。負けをうやむやになんかさせねぇぜ」 「よく言うな、全戦全勝だった癖に」 「俺、天才だから」 「感じ悪いな」 「褒め言葉をありがとよ」  断さまはゲラゲラと笑いました。こんな断さま、見たことがありません。いつも見ていた私でも、あんな顔は、見たことありません。  悪夢。  そう考えることにしました。何かの間違いに決まっています。  しかし、放課後になっても、翌日になっても、断さまは、下品な笑い方を続けました。とはいえ彼は、すべてが変わったわけではありません。相変わらず彼は、クラスメイトには気を遣って、みんなにいい顔をしています。しかし入江燈次の前でだけ、違う表情を見せるんです。入江燈次といるときの彼は、解放感にあふれています。  次第に、断さまは、他の人に対しても、自然体で接するようになりました。気を遣わなくなりました。  断さまから、美しさが、なくなりました。特定の住処を持たぬ、渡り鳥のような魅力は、消え失せてしまいました。私が愛した、儚い断さまは、いなくなりました。  断さまが本音を見せられる相手が見つかる。それ自体は、私も望んでいたことでした。ただ、本来なら、私がその役割を担うはずだった。この世界で私だけが、断さまの孤独に共鳴できるはずだった。どうして、断さま。私、あなたに見つけてもらうことを、待っていたのに。全知全能のあなたさまも、私のことだけは知らなかった。すべてを手に入れたあなたが、唯一手にできていないもの。それが私だった。私を見つけるだけで、あなたは幸福になるはずだった。  なのに。  どうして入江燈次なんですか。  どうして彼が、あなたの居場所に、なっているんですか。  今の断さまにとっては、入江燈次の隣が、居心地がいいのでしょう、しかし、その場所にいても、あなたは堕落するだけです。綺麗な心のままで、あなたが自分自身を解放できる場所、それを提供できるのは、この私だけなんです。  どうして、断さま。私を見つけてくれないのですか。私を知ろうとしてくれないのですか。入江燈次のそばにいても、あなたの御心は穢れるだけです。  許せない。  そう思いました。  誰を。もちろん、入江燈次です。  あの男さえいなければ、断さまは私に気づいてくれる。私と一緒に正しい方向へ行ってくれる。  入江燈次を、消そう。  私は、入江燈次がひとりのときに、そうっと後をつけました。断さま以外の人を尾行するのは、私にとって、大変珍しいことでした。胸を高鳴らせながら、入江燈次の後を追います。入江燈次は何も知らず、おやつのクリームパンを頬張りながら、校舎内の階段を降りようとしています。私は手を伸ばしました。入江燈次の肩甲骨の辺りを、ちょっとだけ押してやるのです。入江燈次は身体がうんと小さいので、私の手でも彼を落とすことは簡単でしょう。私は期待に胸を高鳴らせながら、手を伸ばしました。彼のブレザーの布地が私の中指に触れた。そのときでした。  大きくてゴツゴツとした手が、背後から、私の手首を掴みました。私はその手にとても見覚えがありました、血管の浮き出た手の甲、人差し指の関節あたりについた、小さくて真新しい傷。驚くほど間近でそれを見ている間に、入江燈次は去っていきました。  手の主は、大きな身体を折りまげて、私の顔を覗きこみます。長い前髪が、彼の目を覆いかくしています。いつもなら、髪の奥の表情が手に取るように分かるのですが、今日の断さまは、何故か感情が見えません。 「……あんた、燈次に何をしようとした?」  断さまが低い声で私に聞きました。私は、初めてこの方と喋った、と思いました。その感動のせいか、私は、とんちんかんなことを言いました。 「私、断さまを慕っております」 「へぇ」 「断さまの……友人になりたい。いえ、恋人に、違う、ああ、そうです、私、あなたの使用人になりたい」 「使用人?」 「大金持ちのあなたの家には、たくさんいると聞きます。私をそのひとりにしてほしいのです」 「何で」 「断さまは何でも知っていて、何でも思いどおりにできる方です。でも、私のことは知らなかった。私、断さまをずうっと見ていました。あなたに気づかれず、あなたを観察できるのは、この世で私だけです」 「俺の何を知ってるんだ」 「すべて。趣味嗜好、癖、コンプレックス、成績、家族構成。何でも答えられます。でも断さまは知らないでしょう、私のことなんて、ひとつも」  断さまは小さく息を吐いた後、自分のこめかみを指先で少し叩きました。そして何かを読み上げるように、すらすらと喋りはじめました。 「山栄(やまえ)豊美(とよみ)。出席番号33番。3月2日生まれ、B型。右利き。浅煎りコーヒーが好物。漫画が好きで、キャラクターグッズ集めも趣味。人生で最初の記憶は、母親が舞台役者におひねりを渡すとき、嬉しそうにしていたこと」 「……え」 「切った爪を収集する癖がある。己を影が薄いと称するが、これは注目されたい願望の裏返しだと思われる」 「な、なに」 「ああ、びっくりしたか。俺さ、天才なんだ。だから全校生徒のプロフィールが全部頭に入ってんだよ。同学年なら全員、このレベルの情報を覚えてるぜ」 「……は」 「あんただけじゃない。他の生徒のだって同じだけ知っている。偉そうに踏んぞりかえる某生徒の父親の会社が、経営不振により密かに合併計画を進めていること。みんなに人気の某生徒が秘密の暗号を用いて同級生と交わしている手紙の、詳細な内容。某部活で優れた成績を残す某生徒のパスケースに、絵画のモナリザの写真が入っているのは、彼の初恋の相手がその絵に描かれた女性だから……」 「そんなに、知って」 「殺されたかねぇからな。自分の周りにいる人間が信頼できるか、チェックしねぇといけねぇのさ。こうやって身を守んなきゃ、何されるか分かんねぇよ」  大金持ちだから。天才だから。嫉妬とか、盗っ人とか、そういう物を遠ざけなければいけない。だから情報で身を固める。その理屈は、分かる。仕方ない。  でも。 「……気持ち悪い」 「ほう」  少なくとも、この人は私の愛した、儚い断さま、ではない。 「そんなに人のことを見ているなんて、気持ちが悪い」 「あんたがそれを言うのか」 「はい」 「……ま、それでもいいけどよ。でも覚えておけ。燈次に手を出すな。あいつを守るためなら俺は何でもするぜ」 「そうですか……」  それから私は、すぐに断さまのファンを辞めました。しばらくは断さまの顔を見るたびに何かの感情が動きました。でもあれから10年、もう断さまのことは何とも思いません。彼は今、小説家になり、さらなる功績を得て、その彼の親友だか悪友だかのポジションに入江燈次がいるそうです。でも私には関係ないことです。今の私の神さまは、生田陽輔という俳優で、断さまではありません。  断さまにはもう何も感じない。でも、入江燈次。彼は未だに嫌いです。もう手にかける気はないけれど、私の夢を奪う直接のきっかけとなった入江燈次、未だに嫌い。嫌いです、嫌いです。
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