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女は茉莉奈と名乗った。過保護な親に外出をほとんど禁じられ、日々通信制大学の講義と趣味の料理だけで生きているという彼女は「親以外との会話なんて久しぶりです」と嬉しそうに言った。
なるほど、この浮世離れした警戒心の無さはそうした特殊な事情からきているらしい。もしいつか自分の子供が生まれたら干渉はほどほどにしようと俊樹は思う。
「もう少しでできるので、ちょっと待っててくださいね」
返事の代わりにまた腹が鳴る。恥ずかしくなって俯くと、茉莉奈の優しげな声が降ってきた。
「待ってる間に何かつまみますか? 昨日の残り物でも良ければ」
「え!? い、良いんですか?」
「はい。とてもお腹が空いてらっしゃるようなので」
魅力的な提案に俊樹は恥も忘れて目を輝かせた。実のところ、もう三日ほどまともな食事をとっていないのだ。
茉莉奈が冷蔵庫から皿を取り出し、電子レンジで温め始める。
残り物って言っていたけれど、何が出てくるんだろう?
無難に炒め物とか? それともカレーライスあたり? 汁物ってのもいいな。
まるで永遠かのような待ち時間(実際には二、三分だろうが俊樹的にはそれぐらいに感じた)の後、茉莉奈が湯気の立つ皿を手に戻ってきた。
「どうぞ、残り物のアッシ・パルマンティエです」
呪文のような言葉とともに皿がテーブルに置かれる。グラタンのような見た目の、それでいて俊樹が知るどのグラタンとも違う繊細で複雑な香りを放つ料理がそこにはあった。
少しの間の後俊樹は尋ねた。
「え? ……な、なんて?」
「残り物のアッシ・パルマンティエです」
「あっし?」
「アッシ・パルマンティエです」
「……え? そんな名前の食べ物が、この世にあるんですか?」
「はい。フランス料理です」
俊樹の脳は「残り物のあっしぱるまんてぃえ」とかいうパワーワードの理解を拒んでいた。さながら、水と油が混ざり合えないように。
だってそうだろう? 普通あっし〜なんてオシャレな名前の料理が家庭で出てくるはずがない。出てきたとして、残り物なんて絶対おかしい。普段からこんなものばかり食べてるのか? 全く、カッコつけやがって! これだからブルジョワは!
こんなものどうせ、名前負けした微妙な味に決まっている。こんなもの……ゴクリ。
貧乏人としての矜持は金持ちの悪意無い驕傲に反発している。
しかし一方、目の前のあっし〜の「私を食べてぇん」と言わんばかりの匂い攻撃に、飢えた身体の方は速攻で降伏しかかっていた。
と、とにかく一口。話はそれからだ。
俊樹は用意されたスプーンであっし〜の表層を掬い、おそるおそる口に運ぶ。
「うっま!!! なんじゃこれ!!!」
あっという間に、貧乏人の矜持が白旗を上げた。
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