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第64話 大丈夫よ、寂しくないわ
かつて、神々の心に敏感に反応する巫女がいた。あまりに繊細過ぎて、接触を躊躇うほどに。その巫女に寄り添いたいと願ったのが、狗神だった。撫でる優しい手、歌う心地よい音、彼女が紡ぐ吐息まで。すべてが愛しかった。
だが巫女は敏感過ぎた。神々が穢れと嫌う黒い闇すら、受け止めようと手を伸ばす。過去に人が吐き捨てた不満は燻り、やがて凝って穢れとなった。浄化できる範囲は構わない。手を伸ばすのも巫女の職責の範囲内だろう。だが、彼女は嘆きの声を無視できなかった。
己の体を蝕む瘴気を受け入れ、浄化しきれずにまた手を伸ばす。純粋過ぎて、敏感だったが故の悲劇だ。狗神が気づいた時にはもう、遅かった。彼女の美しい魂の隅々にまで、瘴気が入り込んでいる。それでも自我を保つ彼女は微笑んで、残酷な願いを口にした。
――この体と魂を、穢れと共に浄化してほしいと。
もし実行したなら、愛する巫女は二度と生まれ変われない。人の脆弱な魂など、瘴気より先に吹き飛んでしまうから。嫌だと拒む狗神の前で、巫女は徐々に変貌し始めた。穢れで形を失うより、浄化で消滅した方が……そんな意識が生まれる。
結局、狗神はどちらも選ばなかった。穢れに蝕まれる巫女を見守ることも、浄化で消失させることも拒んだ。代わりに己の身に瘴気を招く。神の一柱なら、人の巫女が抱えた穢れを呑み込める。そう考えた。正しい方法ではないと知りながら、狗神は己で選んだ。
『本当に、変な子だよね』
隣で眠るアイリーンを見ながら、伏せた姿勢で狗神は鼻を鳴らす。欠伸をしながら、半分寝ぼけたアイリーンが起き上がった。ごろんと寝返りを打ち、器用に神狐の籠を避ける。まだ硬い狗神の毛皮に触れると、ぽんぽんと叩き始めた。
幼子をあやす母親のような仕草で、愛すべき家族を守る父親に似た温かさを与える。口元が何やら呟いた。その声なき音を聴き、狗神はぺたりと耳を垂らす。
大丈夫よ、寂しくないわ。
一緒にいると約束した巫女フヨウに似ている。顔かたちではなく、一族の血筋や力でもない。この大きく包む優しさは、この子の持つ最大の宝だった。きっと周囲も気づいているのだろう。末妹を見つめる姉巫女達の眼差しがそれを物語っていた。
愛し愛されて育った魂は、無邪気に穢れさえ受け入れる。その姿に、失った巫女フヨウを思い出す。恐ろしい反面、この子なら? と期待する部分もあった。
『僕は間違っている』
この子を巻き込んではいけない。勝手に僕が消滅すればいいんだ。狗神の寂しい呟きに、ぼそっと白い狐は答えた。
『それをやったら、リンは一生の傷を負う。そんなことになったら、絶対に許さないからな。大人しく祓われちゃえ』
以前なら祓われて消滅しろと受け取ったが、今の不器用な発言の真意は違う。瘴気を祓われて元の狗神に戻れ、そうでなければ彼女が気にすると。契約して神の位を預けたココは、もぞもぞと丸まった毛皮に顔を隠してしまった。
契約した巫女と同様、不器用な契約獣だ。くすくす笑って、狗神は目を閉じた。尻尾がゆったりと左右に揺れる。再び眠ったアイリーンの手は止まったけれど、温もりは伝わっていた。
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