この素晴らしき世界

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この素晴らしき世界

 空蝉双遇(うつせみそうぐう)、というアルファの男がいる。  製薬会社、ネット銀行、自動車会社など、大手グループ企業を束ねる<空蝉製薬>の御曹司。三十二歳で一八六センチの長身を誇り、トレーニングジムで鍛えた体は細身だが、しなやかに筋肉がついている。  ウェーブがかった艶のある黒髪に、生まれながらに形のいい眉。人の心を見通すように魔力を宿す灰色の瞳と通った鼻筋、繊細な小鼻、右目の下の泣きぼくろがセクシーな印象を強める。厚めの唇も同じくセクシーだ。唇からときおり覗く歯は白く、清潔感に溢れている。  美しい、魔性の男。誰からも愛され、惚れられ、振り向かれる男。  それなのに充たされないこの男が、ある日恋をした。  十二歳年下の、あどけないオメガ青年に。 ○ 「巽、今日も仕事、ごくろうさま! 会いに来たよ」  外は大雨。それなのに、空蝉双遇はちっとも濡れていない。雨さえ彼の行く手を邪魔しないかの如くだ。さびれたラブホテルの玄関に佇む双遇に、南條巽(なんじょうたつみ)は困った顔をした。オーバーサイズの水色のブルゾンの裾をちょっと引っ張り、ゴム手袋を嵌めた手は止めず、床にモップ掛けを続ける。 「双遇様、終わったら連絡するって言ってたのに。だめですよ、内海(うつみ)さんを困らせたら」  内海さんとは、双遇の秘書だ。彼のスケジュール管理を一手に担っている。分刻みのスケジュールが当たり前の双遇は、こういうちょっとした思いつきで内海を泣かせる。  それなのに、双遇は自信満々だ。 「内海は大丈夫だよ、巽。許可をもらっている」 「ほんとですか? とにかく、もうすぐ掃除が終わるから、双遇様はそれまで待って――」 「じゃあ、そこのソファに座ってるよ。終わったら言ってくれ。巽ががんばって仕事してるところ、見ておかないとね」  そう言ってがらんとしたロビーの隅の、ガムテープで補修された黒いソファに腰を下ろす美丈夫。巽は慌ててしまい、仕事に集中できなくなった。防犯カメラがこっちを見ているのを意識して、また黒崎(くろさき)さん、困ってるだろうなと思う。ホテルのオーナーのことだ。 「邪魔しないでくださいね」とつぶやいて、巽はなんとか掃除に戻った。  巽は現在、ラブホテルで清掃のアルバイトをしながら、空蝉製薬の治験に協力している。ヒートの、抑制薬開発の治験だ。ヒートは約三か月に一度の周期で起こるため、治験はその期間がメインとなる。ただ、それ以外の間にも協力者は細かなデータの提出を求められ、協力に応じて莫大な金が支払われるのだ。  巽が双遇に初めて出会ったのは、この治験の説明会でだった。  巽はゴム手袋を嵌めた手首で額を拭った。ロビーは熱気がこもっていて、蒸し暑い。仕事の規定で着るように決まっているブルゾンも素材が分厚く、暑かった。ふっくらした唇から、はあ、と息を吐く。  さらさらの黒髪に眠そうな、夢見がちな大きな目。漆黒の睫毛に小さな鼻と、あどけない容姿の巽。不思議と透明感があり、平凡な見た目ながら人目を惹きつける。華奢な体格で、オメガにしてはまあまあ高めの身長、一七〇センチだ。  ソファに座ったまま、双遇がぽつりと漏らした。 「ねえ、巽。考えてくれたかい?」  巽は振り向いて、落ち着かなげにブルゾンの裾をいじった。 「結婚のこと、ですか?」 「そう」 「でも、おれ……。お金ないし、美人でもないし、可愛くもないし、別にいいところ、ないし」  いつの間にか双遇がそばにいて、気配に気がついた巽はのけぞった。抱きすくめられ、目を瞠る。 「巽は可愛いよ。いい子だ。優しいし、ぼくにはないものをたくさん持っている。それだけで結婚する理由は十分だろう?」  巽はたたらを踏み、後ろに倒れそうになった。しかし、結局のところ、そうはならない。双遇が支えているからだ。双遇の腕の中でおずおずと、巽は口を開く。 「でも……おれなんかが双遇様のパートナーになったら、みんなに石を投げられちゃいます」 「大丈夫だよ、巽。ぼくが守るから。君を妬むやつらの好きにはさせないよ」  静かで穏やかな双遇の口調に、巽は苦しそうに口をすぼめた。鍛えられた双遇の胸を両手で押し、やっと抱擁から脱け出す。足元の汚れた白いスニーカーを見つめ、ぽつりとこぼした。 「でも、おれ……お兄ちゃんが、許してくれないと思うし」 「成市郎(せいいちろう)さん? 確かに、成市郎さんは君のことをとても心配している。でも、ぼくが誠実さを見せれば、心を変えてくれるんじゃないかな?」  双遇の口調は熱心だ。彼を遮ることができるものは、なにもなかった。例え地獄の炎だろうと、双遇を焼く前に水に変わる。少なくとも、彼はそれを信じているかのようだった。  巽はまたモップ掛けを再開した。力を入れて床を擦りながら、兄の顔を思い浮かべる。 「お兄ちゃんは、双遇様は負けたことがない人だから、そんな人に弟を任せるのは心配だって言うんです」 「確かにぼくは負けたことがないよ。それは認める。だが、人の気持ちがわからないってわけじゃない」 「それはお兄ちゃんも言ってました。負けたことがなくても、人の気持ちがわかる人は、確かにいると。おれも、双遇様はそうだと思います」  いまいち確信が持てないような口調だった。双遇はくすっと笑って、巽が床を擦るモップの柄に片手を添えた。 「巽。ぼくは邪魔しているね。仕事が終わったら、ホテルのスイートルームを予約してある。今夜はそこで過ごそう」  巽は赤くなり、無言で床を擦りはじめた。
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