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神戸港に臨む高級ホテルのスイートルームで愛を交わした後、巽はダブルベッドに横たわり、真っ白い掛布の中に埋もれながら双遇に背を向けて、スマートフォンをいじっていた。暗闇に白い光が浮かびあがり、だだっ広いスイートルームをほのかに照らしている。
巽は兄、成市郎にメールを打っていた。
「お兄ちゃん、ごはんは食べましたか。おれは双遇様と、ホテルのレストランでフレンチのコースをいただきました。おれにはもったいないです。そろそろ眠るところです」
スマートフォンの画面で時刻を確認する。午後十一時十八分だった。巽はさらにメールを打ちこむ。
「お兄ちゃんは、どんな一日だった? お仕事大変だと思うけど、早く寝てね。おやすみ」
送信をタップし、スマートフォンを伏せてベッドに置く。白い光は遮られ、辺りにまた静かな暗闇が訪れた。
「……巽? 成市郎さんにメールを打ってたの?」
寝返りを打った双遇が、巽の体を背中から腕に抱く。巽は肌のぬくもりに顔を赤くし、ぶつぶつつぶやいた。
「は、はい。お兄ちゃん、おれがいないとお仕事、頑張りすぎちゃうから」
「巽は優しいね」
「たった一人の家族ですから。お兄ちゃんは、おれに優しくしてくれるし」
巽のスマートフォンが振動した。手を伸ばし、巽はメール画面を開く。兄からだ。
「美味しいものが食べられてよかったな。おれは、今夜はなめこ蕎麦と豚キムチ、それに温野菜のサラダを食べたよ。変な組み合わせだな。たんぱく質を摂らないとと思うと、いつもおかしなメニューになってしまう」
巽は兄の姿を思い描いた。一九〇センチの長身に、筋肉の鎧を纏う鍛え抜かれた逞しい体躯。鋭い灰色の目と太い鼻梁、がっしりした口元。眉上の、黒い短髪。意志が強そうで、強面の兄はよく初対面の人間から「カタギじゃない」と陰口を叩かれ、怯えられる。
でも、本当はとても優しい。巽にとって、自慢の兄だ。
メールはさらに、こう綴られている。
「話は変わるが、双遇さんと遊び歩くことには、おれは賛成できないな。だが、君を非難しているとは思わないでくれ。双遇さんは本気じゃないと、おれは思う。すべてが明らかになったとき、君が傷つくのが、おれはつらいんだ」
そこでメールは終わっていた。
双遇は後ろから裸の腕を伸ばした。背中に鍛えた胸を押しつけられ、巽は双遇の鼓動の音が背中越しに伝わってくる気がした。おずおずと、年上の男に尋ねる。
「双遇様、お兄ちゃんのメール、読みましたか?」
「読んでないよ。人のメールを勝手に読むのは、失礼だからね」
巽はほっと息を吐き、言うか言うまいか迷って、結局自分から言ってしまった。
「お兄ちゃんは、双遇様が本気じゃないって言うんです」
双遇が回した腕に力を込める。ぽつりと囁く。
「君がいなければ、ぼくにはなにもない。なにもないんだ」
「……双遇様は、いろんなものを持っていらっしゃいます。おれには手の届かないものばかり。地位も、名声も、お金も、人だって。お兄ちゃんは、言っていました。双遇様みたいな人と住む場所を同じくする人は、雲の上にいる。双遇様が本気で相手にするのはそういう人たちで、おれたち南條家のような者に対しては、本気で相手にする価値はないと思ってるよ、って。双遇様は支配する必要があるから、巽みたいなオメガを選んだんだ、って」
「成市郎さんは誤解しているよ。……君はわかってくれているんだろう、巽?」
巽は振り向いて、自分のほうを一心に見つめてくる灰色の瞳に向き直った。灰色の瞳は、アルファに特有の色だ。すなわちオメガを支配できるという証だった。
巽は沈んだ口調で、気がなさそうにつぶやいた。
「おれは、最初は舞い上がっていました。双遇様みたいな素晴らしい方が、おれなんかを相手にしてくださって。双遇様は優しい言葉を掛けてくださいますし、おれのことを大事にしてくださいます。するときも、必ず避妊してくださるし。でも、お兄ちゃんに説得されて気がつきました。双遇様みたいな素晴らしい方が、やっぱりおれなんかを本気で好きになるわけないって」
「……成市郎さんが日本に帰ってきてからだ。すべてが変わってしまったのは」
「お兄ちゃんのことは悪く言わないでください」
目に涙を溜める巽に、双遇は困った顔で彼の華奢な体を抱きしめた。耳元に唇を寄せ、
「どうしたら信じてくれる?」
囁く。巽は身じろぎし、目を伏せた。
そのとき、スマートフォンが再び振動した。巽が画面を見ると、兄からメールがあった。そこにはこう書かれていた。
「もう寝たか? 双遇さんと、一度話がしたい。今度の日曜日、おれたちの家を訪ねてくるように頼んでもらえるか?」
巽がそのことを話すと、双遇はふたつ返事で「もちろん」と言った。兄を味方につけるためにはなんでもするつもりだったのだろう。
眠りに落ちる前、双遇は巽の体を抱いて、こう言った。
「君は成市郎さんの気持ちを大事にしすぎると、ぼくは思う。君の気持ちはどうなんだ?」
巽はわからないと言った。
「お兄ちゃんの言うことは、いつだって正しいです。おれも、お兄ちゃんの言う通りだと思います。でも、おれ……双遇様のことも、好きです」
「双遇様のこと『も』」と言われたとしても、双遇は動じた様子を見せなかった。むしろ喜んだ。彼は柔和に微笑んで、ありがとうと言った。そのまま眠りに落ちていった。
巽は眠る男の美しい顔を暗闇の中、いつまでも眺めていた。こんな美しい男を一人占めにできるとは、とうてい思えなかった。おれはそこまで愚かじゃないです、と巽は思う。そして、彼も眠った。
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