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撒き餌
東京都福生市、山王橋通り。
偏屈なマスターが一人で切り盛りしている行きつけのバーで、牧村がその男を見かけるようになったのは一ヶ月前、あるいはもう少し前か。
今夜もカウンターでロックグラスを傾ける男は、おそらく四十歳前後。やや彫りの深い顔立ちからすると、クォーターかもしれない。サラリーマンにしては多少崩れているが、かといって反社会的な雰囲気はない。
来店は週に三回くらい。マスターが流すジャズを聴きながら静かに一、二時間飲み、店を出る。他の客と話すことは少なく、場の雰囲気を崩すこともない。ロックのウィスキーを何杯飲んでも口調や態度は変わらず、きれいな飲み方だった。
普段は他の客を気にすることはない牧村が気に留めた理由は二つ。
一つはマスターがあっさりこの男のリクエストに応え、レコードを流したこと。マスターが客のリクエストを聞いてくれるまで、牧村の記憶では早くて半年は通う必要があった。わずか一、二ヶ月で偏屈なマスターの懐に入り込めた客はいない。
もう一つは、ごく希に、流れるジャズに合わせてピアノの運指の動作を見せることだった。
どことなく感じた好意と親近感のあと、牧村は自制するように首を振った。
此の手のバーは、カウンターの隅は常連客の指定席と相場は決まっている。あえて隅から二席空けて座り、ワイルドターキーのロックを飲む下平は、牧村が餌に食い付いてきたのを確信した。マスターがリクエストを聞いてくれてから、明らかに下平を意識し始めている。カウンターでの運指も効果を発揮しただろう。
だが、焦りは禁物だ。こちらが牧村を知っていることを今悟られたら、全ては終わる。視線が交わるのを避けるため、今夜は早めに引き上げることにした。
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