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last dance
6
夜更けだ。
タワーの一角にある俺のオフィス。
小さな小さなその部屋のドアが、外部から開錠されて、俺は目覚める。
入ってきたのは、カナタだった。
「めずらしいな」
俺は驚いて呟く。
カナタはほとんど、ここには来ない。
この部屋に足を運んだのは、本当に片手で数えられるほどの回数に過ぎなかった。
「飲まないか? いいスコッチが手に入った」
カナタが手にした壜をかざして見せる。
グレンフィディック。二十年物だ。
「随分と、珍品を手に入れたものだな」
カナタの手首のデバイスへの通話で、俺は応じた。
カナタが、ジーンズのバックポケットからクリスタルのショットグラスを取り出して、琥珀色の液体をぞんざいに注ぎ入れる。
「おいおい、こぼすなよ。勿体ない」
半分ちゃかして、半分は本気で、俺は言った。
「Skål!」と、北方の言葉で告げてから、カナタが一気にグラスを呷る。
「美味いか?」と訊いてやれば、
「まあ、酒の味がするな」と、カナタはしょうもない返答。
そして、ひとつだけ置かれているオフィスチェアを引き寄せて、カナタが背を手前に腰を下ろした。
長すぎる脚を折り曲げて、長すぎる腕を背もたれの上に置き。
交差した手首に、シャープな輪郭の顎先を載せる。
指先で、クリスタルのショットグラスが、キラリと光った。
サングラス越しではないグレーの瞳が、室内を映して青みを帯びて――
「悪いな、ひとりで飲って」と。
ふたたび、グラスをスコッチでなみなみと満たし、カナタが、これ見よがしにかざして見せる。
自分の目の前にある黒い塊に向かって。
マグネシウム合金と耐衝撃ポリマーで作られた、二十インチ程度の「箱」に向かって――
まったく、カナタ。
何度言っても分からないヤツだな? お前は。
そこに「目」はないんだ。
この部屋の景色は、カメラ「アルファ」からカメラ「シータ」までが撮し取って、デジタル信号で「俺」に送信している。
俺には、あらゆる画角からのお前が見える。
だが、そこに「目」はない。その「箱」には。
そうだ。
「俺」はここにいる。
でも俺は、もう――
どこにもいない。
今、お前が愛おしげに、指の先で愛撫するその「容器」の中には。
俺の記憶のすべてを学習した「チップの束」が存在するだけ。
あの日、「防弾ギア」は、役に立たなかったな――
時間が足りなかっただけのコト。
間に合わなかったのは、お前のせいじゃない、「リコシェ」。
炸裂した爆弾。
飛び散るガラスの破片のすべてを、いくらお前でも、読みつくすことなんかできはしないさ。
脇の隙間から刺さったガラスが、動脈を貫いた。
流れる俺の血は止まらなかった――
あたたかかった。
自分の血液は。そしてリコシェ――
お前の涙も。
その後も「俺」は、お前を「ガイド」し続けた。
積み重なる「経験」が、かつて「お前を抱き締めていた俺」を上書きして――
なあ。お前にとって、そんな「俺」は、俺なのか? カナタ。
だが、あの頃よりも、俺はずっと上手く、お前の手綱を取れているだろう?
「……セックス、してくれなくてもいい」
スコッチにむせるようにして、カナタが声を詰まらせる。
「キスも出来なくていい、酒も飲まなくていい、だから……」
カナタ――
「だから、抱き締めろよ。オレを」
滴り落ちる、しずく。
スコッチとは違う、透明な。
「頼むから、抱き締めてくれ……オレを、一度でいいから、あと一度だけでいいから……」
繰り返すカナタの声。
漣のように。
――すまない。
そんな詫びの言葉は、伝えない。伝えられない。
だからリコシェ。俺は――
かつてお前に触れた記憶を手繰り寄せ、それをお前に流し込む。
ゆっくりと、抱擁のかわりに。
「リ・コ・シェ――ricochet」 了
Merci, “Titanium” et “Take me home”
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