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――ポルトガルに行きてぇなぁ。
ごくごく唐突に加那多が呟いた。
いいだろう、別に。言うのは自由だ。
ポルトガルでも南極でも、アルファケンタウリにでも行けばいい。
「それはそれとして」
淡々と、俺は応じてやる。
「とりあえずシゴトだ、『リコシェ』」と。
カナタが、手首のデバイスの音量を、軽いタップでグッと落とした。
喧騒の中、普通の人間には、ほとんど聞き取れないほどの俺の声。
それを更に小さくするなんて、ほぼ「ミュート」したのと同じだろう。
普通なら。そう。
だが、カナタは「センチネル」だ。
それも部分能力者ではなく、五感すべてが発達した、完全な覚醒者。
非常に稀有で、この国の管理局でも、片手で数えられるほどしか管理下に置いていない。
俺は、そんなセンチネルに必要不可欠な「ガイド」。
ヤツらの銜であり、ヤツらの手綱。
センチネルとの任務時、ガイドが着る防弾ギア。
「 ricochet」と、内部用語でそう呼ばれている。そして――
カナタのコードネームも「リコシェ」。
――跳弾。
跳ね返り、どこに飛んでいくか分からない跳弾のような危うさ。
そして、あらゆる弾丸を跳ね返す無敵。
防弾ギアのような男。たぶん、そんな意味だ。
任務の開始時に、俺はカナタを「リコシェ」と呼び、終わった瞬間「カナタ」に戻す。
ただの習慣。ルーティン。
「ガイダンスを始めるぞ、リコシェ。このところ、新宿で立て続けに起きている通り魔事件についてだ」
「通り魔? 新宿? あの掃き溜めで? それがどうしたよ。別段めずらしくもねぇだろ」と、カナタが吐き捨てる。
加那多・ジャン=ジャック・関口=メルシエ。二十九歳、男性。
身長、百八十三センチメートル。瞳色、ダークグレー。
スピリットアニマルは猛禽類。
それはアメリカンホークの一種のように、俺の目には見えた。
「あんな『ゴミ箱』で、誰がどうなろうと、お上が気にするとも思えねぇけど?」
カナタが悪態をつく。
俺のセンチネルは、基本的に愉快な人間とはいいがたいが、今日はとりわけ不機嫌のようだ。
「メンスか?」
そう「おちょくって」やれば、
「なんだ? その前時代的なセクハラ発言」と舌打ちが返って来た。
「リコシェ、お前に月経があるのか? ないだろう? 女じゃないからな。だからこれは、セクハラでもなんでもない」
「屁理屈だ」
カナタが即レスしてきた。
「ハラスメントは、受けた側がそう思えば成立すんだよ、オッサン」
「だが、お前は『そう思ってない』だろう? リコシェ」
カナタは両肩をすくめて、口の端を歪めて見せた。
さて、「活動」前の世間話は終わりだ。
俺は話の続きを再開する。
「もちろん、歌舞伎町やら三丁目やらで、通り魔だろうがなんだろうが、何が起きていたって無問題なのだが」
「お上は」な――
「このところ、ソイツが西の方にも出没し始めているらしい」
「ああ、高層ビル街か」
そう、外資系のホテルに都庁、「クリーンな側」の「シンジュク」だ。
「だがよ、その『新宿の通り魔』、たしか擦傷や裂傷を負わせる程度で、人はそんなに殺しちゃいなかっただろ?」
「そうだ、だが、遂に死者が出た。よりにもよって『西側』で」
そして俺は、カナタのデバイスに資料を送信する。
しばらくの沈黙。
カナタは、これまでの「東側」での事件にも、ひととおり目を通しているらしい。
「ってよ、これ、結局、何がどうやって襲われたのか、まるで分かってねぇのかよ?」
「そうだな、ちまたでは『かまいたち』だなんて説もあったくらいで……だが」
「ああ」
皆まで言うな、とでもいう風に、カナタが俺を遮った。
「東側での事件。この手口で『分かった』ってワケか。犯人がおそらく……」
「野生化したセンチネルのスピリットアニマルのしわざだと」
そう俺が引き取れば、かすかな嘲笑が聴こえる。
低くくぐもって、さざなみのような――カナタの声。
「出番だ。リコシェ」
俺は通信を終えた。
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