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神様は見限ったはずだった
ここに、セシリア・ワーグナーという神に祈ることを止めた一人の女がいる。
それは彼女が十五歳を迎えた日から、受難と呼ぶには酷すぎる目に遭って来たからである。
まず最初が、家族の死だ。
それなりに裕福だった家の娘であるセシリアは、誕生日を迎える三日前に家族が死病に罹ったとの知らせを受け、無理矢理に寄宿舎を出て実家に向かった。
そこで彼女が目の当たりにしたものは、すでに家屋内で死亡している家族の遺体である。
セシリアが村に到着してすぐに村長自らによって家族の死を伝えられ、実家には近づくなと戒められたが、そこで言う事を聞く彼女ではない。翌朝には役人の遺体検分のあとに家が燃やされると聞いていれば尚更だ。
彼女は人目を盗んで実家に忍び込んだ。
そこで彼女が見て知った事は、病にかかった家族の死は病死では無かったという残酷なものであった。
翌朝、彼女の実家は燃やし尽される。
全てを失い無一文となった彼女が女学院に戻れるはずもなく、彼女は裁縫という淑女の嗜みとして仕込まれた技術にて小さなドレスショップの針子となる。
彼女を雇った店主の名は、ガブリエラ・ユゼル。
美しいが中年に差し掛かっていたガブリエラは、愛人に店を持たせるという風潮によって店主となれただけの人であった。
ドレスショップであるのに、ドレスデザインの才がほとんどないのである。
しかし、セシリアが雇われたことで、ユゼルの店は人気店に変貌を遂げる。
セシリアのドレスデザインが人気となったのだ。
だがセシリアには、騙されて搾取されただけの記憶でしかない。
店を持たせると約束してくれたガブリエラを信じてセシリアは尽くしたが、ガブリエラはセシリアを単なる役に立つ使用人としか見ていなかったのだ。
ガブリエラの愛人に襲われた事でセシリアは理解し、決別を決断した。
夜逃げしたのだ。
もちろん、十五歳では無くなっていた彼女は、ガブリエラ店から自分の八年分の奉公代と言えるものを盗んでいる。
生きるためには先立つものが必要なのだ。
その後の彼女は、牢獄どころか王宮という素晴らしい場所にいる。
皮肉ね、とセシリアは自分の身の上ではなく自分の浅はかさばかりを呪った。
神さまなどいないのだから、自分はもっと考えて行動せねばならなかったのよ。
「カードで負けてさ。彼等にカード代を払わなきゃなんだ」
セシリアは自分を温室に連れ込んだ男を見返した。
デ二スピエル商会で有名なアロンゾ・デ二スピエル伯爵だ。
セシリアの現在雇い人であるマダムデボンヌの秘密の顧客でパトロンだ。
何が秘密の顧客なのかと言えば、ドレス屋のデボンヌはドレスで店の売り上げを上げているのではなく、自店の針子を金持ちの男に貸し出す商売をしていると聞けば誰もが理解するだろう。
つまり、デ二スピエル伯爵は売春の斡旋をしているだけでなく、自分の性欲のはけ口に利用もしていると言う事なのだ。
セシリアは自分の人を見る目の無さを悔しく思った。
ガブリエラのもとから逃げ出したセシリアであるが、女一人では宿にも泊まれず家など借りられるはずもない。結局は住み込みの仕事を探さねばならず、推薦状も出せないセシリアは、いくつも目の前でドアを閉ざされるばかりだった。
けれどもマダムデボンヌは、セシリアのデザイン帳のドレスデザインを評価し、推薦状も無いのに住み込みで雇ってくれたのである。
純粋にセシリアはマダムデボンヌに感謝するばかりであったが、雇われてしばらくして、彼女は店の裏側を知ってしまったのだ。
さあどうすると彼女は考えたが、同時期の偶然の出来事からマダムデボンヌが繋がっている相手がデ二スピエル伯爵だけではない事も知り、逃げる事が出来なくなった。そこでせめて不特定多数の相手の相手をしないで済むようにと、彼女を気に入ったらしいデ二スピエル伯爵の相手をして身を守ってきたつもりだった。
「お前は何でも俺の言う事を聞いてくれるんだろ?三人とやってるお前を見せてくれ。嫌ならいいよ。お前の可愛がっている、あれを使う」
デ二スピエルはセシリアに嫌らしい笑みを見せつけた。
彼が連れて来た男達三人も、涎をたらさんばかりににやけた顔を作る。
そして、三人の一人が、セシリアに声にならない悲鳴を上げさせた。
彼女が一番恐れている台詞を言い放ったのである。
「俺は最初からそっちの方がいいですよ」
「そうかい?あの茶色もそろそろ出荷時期だしなあ。そうしようか」
セシリアは声にならない声をあげて、一番近くにいた男を突き飛ばした。
逃げる。
餓死したって、逃げるのよ!!
彼女は逃げ出せるどころか、頬を殴られて転がされた。
その次には、胸元の布地が破られた。
セシリアは奥歯を噛みしめ、ぎゅっと瞼を瞑って覚悟を決めた。
抵抗を止めれば怪我を負わない。
動けるならば、あの子を連れて逃げ出すことができるわ。
数秒後、セシリアの身に起こった事は、剥き出しとなった胸を揉まれる事でもさらに服を破かれる事でも無かった。
がしゃん。
陶器の割れる音にセシリアは瞼をあける。
セシリアのドレスを破いた男が、飛んできた植木鉢を頭に受けて倒れこんだ、そんな場面が彼女の両目に映った。
彼女は神に見切りをつけたはずだった。
それなのに、今、彼女の前には天使がいる。
背が凄く高いが、岩みたいに大きいなんて印象など無い。
光沢のある漆黒のドレススーツを着込む彼は、しなやかで美しい黒豹をセシリアにイメージさせるばかりなのだ。
黒豹なのに天使とは、滑稽だわ。
彼女は自分がイメージした事を自嘲したが、彼女は目の前の男性が天使にしか見えないのがなぜかは自分でわかっていた。
彼が自分の助け手となったからではない。
焦げ茶色の髪に彩られた顔は整った甘い顔立ちで、彼女が幼い頃に物語を読んで連想した王子様そのものに見えるのだ。
つまり、セシリアの目の前に出現した男は、十代の頃の彼女が恋の相手として夢見た理想そのものの存在なのである。
「神様。今さら助けて下さるの?」
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