Track.0. イントロダクション

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count.2.  がらら、と音楽室のドアを開けて真っ先に飛び込んだのは、窓の向こうに白くかすむ景色。  雨にくもるガラスに白灰色の空と色のない校庭がにじむ。  視線を手前に動かせば、黒い布がかかったグランドピアノと、その前の席に置かれたスクールバッグが目に入る。  三年間使ってきたとは思えないほどキレイなままのバッグは、それだけで誰のものかすぐにわかる。  ただ、今はその持ち主の姿はどこにも見えない。 「いない……?」  入り口から教室を見回して、秋津圭はほっと息をつく。  その胸元には赤と白のリボンで縁どられた、バラの胸章が飾られている。  少しのためらいの後、ゆっくり音楽室に足を踏み入れる。  一歩踏み込んだその途端、ゆるやかな放課後の空気が、ぴん、と張り詰める。  雨音も響かない教室は静かで、どこか停滞しているようにも感じた。  そう思うのは、どことなく感じる気まずさからだろうか。  ばたん、とドアが閉まるとそこだけが世界から遮断される。  置きっぱなしにしていた教科書や参考書を詰め込んで、ずっしりと重くなったスクールバッグを背負い直す。  カバンの置かれた席を横切り、窓際までくると机に寄りかかる。  そのままなんとなく窓の向こうの景色を眺めた。  こんな日くらい、晴れてくれてもいいのに。  でも、こんな日だからこそ、これくらいの空のほうがいいのだろうか。  肩にかかるカバンの重みに、別の重さがのしかかる。  白い景色の中に映り込む教室は、おぼろげにゆがんで現実感がない。  圭の存在さえも希薄になり、消えてしまいそうだ。  ただ、時計の秒針が進む音だけがここが現実だと教えてくれる。  ふ、と息を吐き出す。  そこではじめて自分が緊張していたことに気づく。 「……まあ、そうか」  ぽつりとこぼし、目を細めてくもりガラスの中の音楽室を見る。  圭が毎週のようにここに通っていたのは、一年以上も前のことだ。  天井近くの壁を囲む音楽家たちも、整然と並ぶ机も、見慣れたものであったはずなのに今日はどこかよそよそしい。  彼と過ごした、心地良かったはずの空間はもう存在していない。  あの日以来、ずっと避けていた彼と二人で会うのも久しぶりだ。  はあ、と大きく息をつく。  携帯電話を取り出して、メールの受信フォルダを開く。  クラスメイトの名前が並ぶ中、その名前だけが妙に浮いていて、目が止まる。  メール画面を閉じて、制服のポケットにしまいこむ。  自然と落ちる視線は、きい、と小さく聞こえた音に止められる。  顔を向ければ、準備室に続くドアが細く開いている。  ドア越しに目があうと、一瞬だけうれしそうにはにかみ、遠慮がちに笑いかけてくる。 「ごめんね、急に呼び出して。待たせちゃったかな?」  未成熟なバリトンボイスでそう言って音楽室に入ってきたのは、友人の冬島涼だった。  あいた手にはアコースティックギターを抱えこんでいる。 「いや、別に……」  圭はとっさにそれだけ返すと窓を見る。 「それに、まあ、まだ、クラスの打ち上げまでには、時間、あるし」  もごもごと言葉を続けると、ほっと表情をゆるめる涼が窓の中に映り込む。  その姿にとっさに、視線を落とす。  直後、かた、がた、とイスを引く音がする。  そのすぐ後に、すっと涼が息を吸う気配。  ぼん、  不意に響いた音に、瞬間的に空気が変わる。  はっとして顔を上げ、涼を見た。  ぼーん、  ピアノのイスに浅く座った涼が、ゆるく構えたギターの弦を一音ずつ弾いていく。  ぼん、  雨音さえもしなかった室内に、柔らかな低音が波紋のように広がっていく。  ぼーん、  押し流される空気は優しくおだやかで、どこか悲しい音色をしている。  涼のほっそりとした指先から紡がれるのは、耳によくなじんだ音。  ただチューニングをしている、それだけの音なのに、どこか懐かしくて胸がつまる。  ギターを弾く涼は、やっぱりかっこいい。 「——っ」  鼻の奥がつんとなり、圭はきゅっと唇をかむ。  むくむくとふくれ上がる感情を押し込めるように、背負ったままのバッグの持ち手をぎゅっと強く握りこむ。  しばらく調弦していた涼が顔を上げる。  涼と目があい、圭は反射的に視線をそらす。 「……それで、話ってなんだよ」  ごまかすようにそれだけ聞くと、ふふ、と小さく笑う声が聞こえる。 「まあ、とりあえず一曲聞いてよ。何か、聞きたい曲はある?」  その時、雨が大きく揺らぎ、ざっと窓に触れた。  映り込んだ景色を淡くにじませて、雨音が遠く静かに積み重なっていく。 「別に。なんでも……」  少し間をあけて返した言葉に、涼が小さく笑う姿が映る。 「じゃあ、」  涼は制服の胸ポケットからしずく型の白いピックを取り出す。  しゃんと背筋を伸ばし、まっすぐに腕を振り下ろした。  ざっ  風にあおられ、雨が窓を打つ。  じゃじゃっ、とカット音が繰り返される。  規則的な短い旋律がリフレインして、曲がはじまる。  涼が曲をかなではじめた、その瞬間。  アコースティックギターの音色がゆるやかに共振して、和音が積み重なっていく。  力強いカット音が連なり、にわかに空気が震える。  連なる和音に、空気が震える。  振動する空気に、やわらかな音色が浸透していく。  広がる音色は波紋のように、空気を押し流して満たしていく。  ギターの音にすべてがかき消されて、音楽室は涼の音に包まれる。  圭は息を飲むと、ぐっと口を閉じる。  久しぶりに聞いたその音は、今日の雨のように優しくおだやかで、少しだけ悲しい。  そこににじませて薄めようとしていた想いに、最近ようやく気がついた。  それに、自分の気持ちにも。  圭はそっと、目を閉じる。  耳の奥から心臓へ。  血液を伝って全身に涼の音が広がっていく。  ほかの友達から聞いた話では、涼は京都にある大学へ進学するらしい。  だから、きっともう、こうして彼の演奏を聞くこともできなくなる。  ……心が震えるのはきっと、この曲のせいだ。  それは、涼が初めて、圭の前で弾いた曲だった。  あの時は、今よりもっとぎこちない指づかいで。  メロディーもあってないようなもので。  それでも、ギターを弾く姿はかっこよかった。  これはきっと、涼の覚悟だ。  それならば、圭もちゃんと答えなくてはならない。  ……彼の、友達のままで、いられるように。  背負ったバッグの持ち手をぎゅっと握り込む。  ゆっくりと、まぶたをあげる。  窓に映った涼はわずかに視線を落とし、きりっとした表情でギターの旋律を辿っていく。  その指先が最後のコードを奏でて、曲が終わる。  涼がふっと息をつき、顔を上げる。  窓越しに視線があう。  その表情は真剣だった。  圭は唇をきゅっと結ぶと、下を向く。  そっと涙をぬぐった。  ゆっくりと息を吐き、涼を見る。  涼は意を決したように切り出す。 「圭。僕さ、前から圭のことが……」 「これからもずっと!」  言いかけた涼の言葉を圭は強引にさえぎる。 「これからも、ずっと……友達で、いような」  絞り出した声がわずかに震える。  それが本心のはずなのに、ちくりと胸が痛む。  はっと息を飲んだ涼が口をつぐむ。  唐突に訪れた静けさに耐えきれず、圭はうつむく。  かたかたと、窓が揺れる。  ちく、たく、と時計の秒針が進む。  強くなり始めた雨が、壊れたラジオのように、ざああ、と耳障りな音を立てる。  張り詰めた空気に、握りしめた指先から冷えていく。  どくどくと早鐘を打つ鼓動がうるさい。 「……そ、か」  しばらくしてから、涼がぽつりと呟く。 「うん。……そう、だね」  押し殺したような涼の声に、圭はそっと顔をあげる。  目があった圭に、涼はぎこちなく笑う。  その目の端に、涙をためて。 「ギター、しまってくるね」  涙をぬぐい、涼が立ち上がる。 「まだ時間かかるから、先に帰ってもいいよ。このあと、クラスの打ち上げがあるんだよね?」 「いや、でも……」  その時、制服のポケットから着信音が聞こえてくる。  携帯電話を取り出せば、待ち受け画面にクラスメイトから届いたメールの通知がある。 「……ごめん」  圭は携帯電話をしまうと、寄りかかっていた机から離れる。 「ううん。気にしないで。みんなに、よろしくね」  笑顔で返してはいるが、涼の表情は固い。 「涼……」  なにか言おうとして、圭は結局そのまま口を閉じる。  それを見て涼が小さく笑う。 「圭。今日はありがとう」  その声はいつも以上におだやかだった。  胸がきゅっとなり、圭はあいまいな笑顔を返す。 「こっちこそ、ありがとう。また、連絡するな」 「うん。じゃあね」  笑顔で手を振る涼に、圭も手を振り返し、音楽室を出る。  ドアを閉める直前。準備室へと向かう姿が目に入る。  その後ろ姿はどこか寂しそうで、泣いているようにも見えた。
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