Track.5. 星に願いを

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count.20.  あの日以来、涼はギターを奏でる機会が減った。  大学で音楽サークルにも入ってみたが、なんとなく周りに馴染めず、ギターを弾いても楽しくなくて、すぐに辞めてしまった。  それからギターに触れることはなくなっていった。  からん、と涼やかなベルが鳴る。  濃い茶色の重たいドアを開けた先には、八席のカウンターがあるだけの、小さなスナックがある。 「あら、いらっしゃい」  入り口に立つ涼に、スナックのママが艶やかに笑いかける。 「こんばんは、夏希さん」  会社の近くにあるこのスナックに、初めて来たのは新人時代。  会社の先輩に連れてこられた。  その後も何度か先輩と通ううちに、一人でも訪れるようになった。  ここでなら、蓋をしていた自分の気持ちに、正直になれるから。 「いつものでいいかしら?」 「ええ、お願いします」  涼が席につくと、目の前にモスコミュールが差し出される。  一口飲むと、カウンターの奥にある、古いアコースティックギターに目を止める。  ボディやネックは年季がこもっているが、丁寧に磨かれてつややかに光っている。  弦も綺麗に張ってあり、日頃の手入れを怠っていないことがよくわかる。 「借りていいですか?」 「もちろん」  以前、夏希から聞いた話では、ギターは死別した恋人の持ち物だったらしい。  使う人はいなくなったが、今でも捨てられず、手入れだけは続けてしまっているそうだ。  夏希はカウンターの奥に立てかけていたギターを涼に渡す。  涼は受け取ると、胸ポケットからピックを出し、軽く構える。  うねるようなリズムで始まったのは、flumpoolの『星に願いを』だった。  一度、止めたギターを再び手に取るようになったのは、この店がきっかけだ。  夏希の話やギターに触れる手に、悪いことばかりではなかったと思い出した。  そのタイミングで、会社の先輩にギターを弾いていたことが知られ、演奏をせがむ先輩を断りきれずに弾いたのが、この曲だった。 『……あなたも、忘れられない人がいるのね』  当時、ぽつりと夏希からこぼされた言葉を思い出す。  あの時は、よく聴いていた曲を演奏しただけのつもりだったけれど、別れた人を想うこの歌に、どこか圭の姿を重ねていたのかもしれない。  静かなスナックに、アコースティックギターの優しい音が響く。  おだやかに弦を震わせて、少し悲しく色づく。  久しぶりに弾いたギターは、それでも圭といた頃と同じ音色を響かせる。  耳の奥に染み付いた、圭の声が蘇る。  すごい、かっこいい、と真っ直ぐな声が聞こえた気がした。  圭と離れてからも、彼を忘れることは一時もなかった。  流れ星が振りまく粒子のように、見えなくても静かに心に降り積り、後悔と会いたい気持ちだけが募っていく。  陽だまりのような明るい笑顔は、思い出そうとなくても、すぐに頭に浮かぶ。  最後のコードを奏で、曲が終わる。  ゆっくりと涼はギターを下ろす。 「それで、今日はどうしたの?」  あえて平坦な調子で夏希が聞く。  夏希の優しさに、涼はにこりと笑う。 「東京に、行くことにしました。やっぱり、諦めきれなくて。だから、今日は、最後の挨拶に」 「あら。やっと決心がついたのね」  涼の言葉に、夏希はたおやかに微笑む。 「色々と、相談に乗っていただき、ありがとうございました」 「アタシはただ、好き勝手言ってただけよ」  涼からギターを受け取ると、優しく表面を撫でる。  ギターを元の位置に置き、涼に視線を戻す。  しとやかな笑みを作る。 「いいんじゃない? あなたは、もっとわがままになるべきだわ」  そう言うと夏希は東京に古い知人がいる、と一軒のライブハウスを紹介してくれた。  涼は、モスコミュールを飲み干すと、改めてお礼を告げる。  代金を置いて店を出た。 + + + + +  最近できたばかりのバスターミナルを出るとすぐに、夏希から紹介されたライブハウスに向かった。  面接とは名ばかりの顔合わせを済ませ、涼が東京についたばかりだと知ったオーナーの響は早々に家に帰らせた。  急に空いた時間に戸惑いつつも、涼は契約した賃貸物件に向かう。  外はいつの間にか、雨が降り出していた。  傘を持っていなかった涼は、帰りがけにコンビニでビニール傘を買うと、甲州街道をゆっくりと歩いて行く。  金曜日の夜となると、通りを歩く人が多い。  南口の改札に近づくにつれて、人の数も増えてくる。  涼は茶色いギターケースを背負い直すと、人の合間を縫うように通りを横切って行く。  その途中、紺色の折り畳み傘をさした男性とすれ違った。  思わず、傘を目で追い、振り向いた。  たくさんの傘の群れの中、たったひとつを見失ってしまう。  目を凝らしてみたが、結局わからず、諦めて前を向く。  傘に隠れていて、顔はわからない。  でもすれ違った、その瞬間。  直感が彼だと告げていた。  もう一度だけ、振り返ってみる。  この先には、たしか交差点があったはずだ。  そこならば、また彼に会えるだろうか。  一度やめたギターを再開して、真っ先に浮かんだのは、彼だった。  別れ際に後悔はあるけれど、それ以上のものをたくさんもらった。  涼は前に向き直る。  小さく微笑むと、人混みを抜け、甲州街道を道なりに進んでいった。 × × × × ×  がたん、  電車が揺れて東京駅のホームに着く。  エキュートを通り、新幹線乗り場を目指す。  コートのポケットからスマートフォンを取り出す。  LINEを開き、圭からのメッセージを確認する。  切符売り場で入場券を買うと、新幹線の待合室に向かう。  目的の人物はすぐに見つかった。 「おつかれさま」 「……おつかれ」  涼が声をかけると、圭は涼を見上げて小さく笑う。  その隣の席に腰掛ける。 「……ギター、持っていくんだね」  隣のスペースに、スーツケースと一緒に置かれた、少し色褪せた黒いギターカバーを見て涼は目を細める。 「……うん。唯一の、つながりだし」  答えながら、圭は俯いていく。 「転勤先って、大阪だっけ? どれくらい、いるの?」 「さあ。とりあえず、向こうの事業部が落ち着くまでだけど、人手が全然足りないみたいだし」 「そっか」  一瞬できた間に、新幹線到着のアナウンスが流れる。 「この新幹線だっけ?」 「……うん」  涼が確認すると圭はこくりと頷く。  待合室にいた周りの人たちがばたばたと動き出す中、圭は俯いてじっとしている。 「圭?」  不思議に思って、名前を呼ぶ。  周囲の人が減ってくると、意を決したように圭が顔をあげる。 「涼、これ」  そう言って、何かを握った腕を差し出す。  驚きつつも、涼は両手を受け皿にしてそれを受け取る。  手のひらの上に乗っかっていたのは、筆記体の文字が入った、少しくすんだ青のピックだった。  ティアドロップ型のそれは、涼が圭に渡した白いピックと色違いのもの。 「涼が優しいのにつけ込んで、たくさん迷惑をかけたし、いろいろ振り回しちゃったけどさ。今度はもう、逃げないから。だから、戻ってきたら、また会おう。今度はお酒でも飲みながら、ゆっくり話そうぜ」  圭は緊張したような表情で、けれども笑顔でまっすぐ涼を見上げる。  涼は手の中のピックに視線を落とす。  ふわり、と微笑んだ。 「ありがとう」  その顔を見て、圭が一瞬、息を飲んだ。  瞬時に圭の瞳の中に灯った覚悟に、涼は目を見張る。 「涼。あのさ、おれ……」  涼は圭の口元にそっと人差し指を添えると、優しく笑う。  突然止められた言葉に、戸惑うように圭は涼を見上げる。 「その言葉はさ、再会した時に俺から言わせてよ。今聞いたら、また追いかけたくなっちゃう」  本音を言えば、すぐにでも圭についていきたい。  けれど、今お世話になっている人たちに、迷惑はかけられない。  申し訳なさそうに笑う涼に、圭はこくこくと頷く。 「そろそろ、新幹線の時間だよね。ホームまで見送るよ」  電子掲示板を指差して涼が言う。 「うわ。本当だ!」  圭は慌てて立ち上がると荷物をまとめる。  待合室を出ると、早足でホームに向かう。  新幹線に乗り込む前に、振り向いた。 「また、連絡するな」 「うん」 「大阪来るときは、連絡してよ。案内できるかはわからないけど、案内する」 「うん。楽しみにしてる。じゃあ、俺はそっち行ったら京都案内するよ。まあ、ちょっと大阪からは離れているけど」  発車のベルが鳴り、互いに言葉を切る。 「じゃあ、またね」  涼が笑いかけると、圭は明るい笑顔を見せる。 「ああ。じゃあ、またな」  そう言うと、新幹線に乗り込む。 「圭」  その背中に、涼は声をかける。  振り向いた圭と目があうと、やわらかに微笑む。 「ピック、ありがとう。大切にするね」  圭が何かを言う前に、乗車口のドアが閉まる。  ドアのガラス越しに見えたのは、目尻に涙をためて、優しく笑った圭の姿。  ゆっくりと新幹線が動き出す。  加速して去っていく新幹線を涼は黙って見送った。
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