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count.20.
あの日以来、涼はギターを奏でる機会が減った。
大学で音楽サークルにも入ってみたが、なんとなく周りに馴染めず、ギターを弾いても楽しくなくて、すぐに辞めてしまった。
それからギターに触れることはなくなっていった。
からん、と涼やかなベルが鳴る。
濃い茶色の重たいドアを開けた先には、八席のカウンターがあるだけの、小さなスナックがある。
「あら、いらっしゃい」
入り口に立つ涼に、スナックのママが艶やかに笑いかける。
「こんばんは、夏希さん」
会社の近くにあるこのスナックに、初めて来たのは新人時代。
会社の先輩に連れてこられた。
その後も何度か先輩と通ううちに、一人でも訪れるようになった。
ここでなら、蓋をしていた自分の気持ちに、正直になれるから。
「いつものでいいかしら?」
「ええ、お願いします」
涼が席につくと、目の前にモスコミュールが差し出される。
一口飲むと、カウンターの奥にある、古いアコースティックギターに目を止める。
ボディやネックは年季がこもっているが、丁寧に磨かれてつややかに光っている。
弦も綺麗に張ってあり、日頃の手入れを怠っていないことがよくわかる。
「借りていいですか?」
「もちろん」
以前、夏希から聞いた話では、ギターは死別した恋人の持ち物だったらしい。
使う人はいなくなったが、今でも捨てられず、手入れだけは続けてしまっているそうだ。
夏希はカウンターの奥に立てかけていたギターを涼に渡す。
涼は受け取ると、胸ポケットからピックを出し、軽く構える。
うねるようなリズムで始まったのは、flumpoolの『星に願いを』だった。
一度、止めたギターを再び手に取るようになったのは、この店がきっかけだ。
夏希の話やギターに触れる手に、悪いことばかりではなかったと思い出した。
そのタイミングで、会社の先輩にギターを弾いていたことが知られ、演奏をせがむ先輩を断りきれずに弾いたのが、この曲だった。
『……あなたも、忘れられない人がいるのね』
当時、ぽつりと夏希からこぼされた言葉を思い出す。
あの時は、よく聴いていた曲を演奏しただけのつもりだったけれど、別れた人を想うこの歌に、どこか圭の姿を重ねていたのかもしれない。
静かなスナックに、アコースティックギターの優しい音が響く。
おだやかに弦を震わせて、少し悲しく色づく。
久しぶりに弾いたギターは、それでも圭といた頃と同じ音色を響かせる。
耳の奥に染み付いた、圭の声が蘇る。
すごい、かっこいい、と真っ直ぐな声が聞こえた気がした。
圭と離れてからも、彼を忘れることは一時もなかった。
流れ星が振りまく粒子のように、見えなくても静かに心に降り積り、後悔と会いたい気持ちだけが募っていく。
陽だまりのような明るい笑顔は、思い出そうとなくても、すぐに頭に浮かぶ。
最後のコードを奏で、曲が終わる。
ゆっくりと涼はギターを下ろす。
「それで、今日はどうしたの?」
あえて平坦な調子で夏希が聞く。
夏希の優しさに、涼はにこりと笑う。
「東京に、行くことにしました。やっぱり、諦めきれなくて。だから、今日は、最後の挨拶に」
「あら。やっと決心がついたのね」
涼の言葉に、夏希はたおやかに微笑む。
「色々と、相談に乗っていただき、ありがとうございました」
「アタシはただ、好き勝手言ってただけよ」
涼からギターを受け取ると、優しく表面を撫でる。
ギターを元の位置に置き、涼に視線を戻す。
しとやかな笑みを作る。
「いいんじゃない? あなたは、もっとわがままになるべきだわ」
そう言うと夏希は東京に古い知人がいる、と一軒のライブハウスを紹介してくれた。
涼は、モスコミュールを飲み干すと、改めてお礼を告げる。
代金を置いて店を出た。
+ + + + +
最近できたばかりのバスターミナルを出るとすぐに、夏希から紹介されたライブハウスに向かった。
面接とは名ばかりの顔合わせを済ませ、涼が東京についたばかりだと知ったオーナーの響は早々に家に帰らせた。
急に空いた時間に戸惑いつつも、涼は契約した賃貸物件に向かう。
外はいつの間にか、雨が降り出していた。
傘を持っていなかった涼は、帰りがけにコンビニでビニール傘を買うと、甲州街道をゆっくりと歩いて行く。
金曜日の夜となると、通りを歩く人が多い。
南口の改札に近づくにつれて、人の数も増えてくる。
涼は茶色いギターケースを背負い直すと、人の合間を縫うように通りを横切って行く。
その途中、紺色の折り畳み傘をさした男性とすれ違った。
思わず、傘を目で追い、振り向いた。
たくさんの傘の群れの中、たったひとつを見失ってしまう。
目を凝らしてみたが、結局わからず、諦めて前を向く。
傘に隠れていて、顔はわからない。
でもすれ違った、その瞬間。
直感が彼だと告げていた。
もう一度だけ、振り返ってみる。
この先には、たしか交差点があったはずだ。
そこならば、また彼に会えるだろうか。
一度やめたギターを再開して、真っ先に浮かんだのは、彼だった。
別れ際に後悔はあるけれど、それ以上のものをたくさんもらった。
涼は前に向き直る。
小さく微笑むと、人混みを抜け、甲州街道を道なりに進んでいった。
× × × × ×
がたん、
電車が揺れて東京駅のホームに着く。
エキュートを通り、新幹線乗り場を目指す。
コートのポケットからスマートフォンを取り出す。
LINEを開き、圭からのメッセージを確認する。
切符売り場で入場券を買うと、新幹線の待合室に向かう。
目的の人物はすぐに見つかった。
「おつかれさま」
「……おつかれ」
涼が声をかけると、圭は涼を見上げて小さく笑う。
その隣の席に腰掛ける。
「……ギター、持っていくんだね」
隣のスペースに、スーツケースと一緒に置かれた、少し色褪せた黒いギターカバーを見て涼は目を細める。
「……うん。唯一の、つながりだし」
答えながら、圭は俯いていく。
「転勤先って、大阪だっけ? どれくらい、いるの?」
「さあ。とりあえず、向こうの事業部が落ち着くまでだけど、人手が全然足りないみたいだし」
「そっか」
一瞬できた間に、新幹線到着のアナウンスが流れる。
「この新幹線だっけ?」
「……うん」
涼が確認すると圭はこくりと頷く。
待合室にいた周りの人たちがばたばたと動き出す中、圭は俯いてじっとしている。
「圭?」
不思議に思って、名前を呼ぶ。
周囲の人が減ってくると、意を決したように圭が顔をあげる。
「涼、これ」
そう言って、何かを握った腕を差し出す。
驚きつつも、涼は両手を受け皿にしてそれを受け取る。
手のひらの上に乗っかっていたのは、筆記体の文字が入った、少しくすんだ青のピックだった。
ティアドロップ型のそれは、涼が圭に渡した白いピックと色違いのもの。
「涼が優しいのにつけ込んで、たくさん迷惑をかけたし、いろいろ振り回しちゃったけどさ。今度はもう、逃げないから。だから、戻ってきたら、また会おう。今度はお酒でも飲みながら、ゆっくり話そうぜ」
圭は緊張したような表情で、けれども笑顔でまっすぐ涼を見上げる。
涼は手の中のピックに視線を落とす。
ふわり、と微笑んだ。
「ありがとう」
その顔を見て、圭が一瞬、息を飲んだ。
瞬時に圭の瞳の中に灯った覚悟に、涼は目を見張る。
「涼。あのさ、おれ……」
涼は圭の口元にそっと人差し指を添えると、優しく笑う。
突然止められた言葉に、戸惑うように圭は涼を見上げる。
「その言葉はさ、再会した時に俺から言わせてよ。今聞いたら、また追いかけたくなっちゃう」
本音を言えば、すぐにでも圭についていきたい。
けれど、今お世話になっている人たちに、迷惑はかけられない。
申し訳なさそうに笑う涼に、圭はこくこくと頷く。
「そろそろ、新幹線の時間だよね。ホームまで見送るよ」
電子掲示板を指差して涼が言う。
「うわ。本当だ!」
圭は慌てて立ち上がると荷物をまとめる。
待合室を出ると、早足でホームに向かう。
新幹線に乗り込む前に、振り向いた。
「また、連絡するな」
「うん」
「大阪来るときは、連絡してよ。案内できるかはわからないけど、案内する」
「うん。楽しみにしてる。じゃあ、俺はそっち行ったら京都案内するよ。まあ、ちょっと大阪からは離れているけど」
発車のベルが鳴り、互いに言葉を切る。
「じゃあ、またね」
涼が笑いかけると、圭は明るい笑顔を見せる。
「ああ。じゃあ、またな」
そう言うと、新幹線に乗り込む。
「圭」
その背中に、涼は声をかける。
振り向いた圭と目があうと、やわらかに微笑む。
「ピック、ありがとう。大切にするね」
圭が何かを言う前に、乗車口のドアが閉まる。
ドアのガラス越しに見えたのは、目尻に涙をためて、優しく笑った圭の姿。
ゆっくりと新幹線が動き出す。
加速して去っていく新幹線を涼は黙って見送った。
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