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Track.1. 大切なもの
count.4.
ぷしゅー
何度目かの発車を知らせるチャイムのあとにドアが閉まり、ゆっくりと電車がホームを発つ。
混み合ったドアの前を避けた、電車の中程。
圭は手に持っていたリュックを網棚の上に置き、つり革を掴む。
ぼんやりと外を眺めた。
上司に話を聞いたのは先週の金曜日。
そして今日といい、予想外のことが立て続けに起きている。
それとも今まで逃げてきたツケが回ってきたのだろうか。
車窓には圭の気持ちとは裏腹に、きらびやかなネオンと街並みが流れていく。
きらきらした眩しさに思わず目を細める。
ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出す。
ロック画面に表示されたメッセージにわずかに眉をひそめ、唇をかむ。
ポケットに戻すと顔を上げる。
いつもは耳元で流れるイヤホン越しの音楽も、今は聞きたくなかった。
外されたイヤホンは所在なげに肩にかかって揺れている。
圭は乱雑にイヤホンのコードを引っ張ると、ぐるぐると音楽プレイヤーに巻きつける。
そのまま、スマートフォンとは反対のポケットに突っこむ。
耳の奥ではまだ、さっき聞いていたあの曲が流れている。
たん、たん、たん、たん。
車窓を流れる街明かりは、少しずつ色を落としては、また夜空を侵食していく。
鏡のように車内を映す窓に映るのは、どこか疲れたような、高揚したような圭の顔。
その向こう。
黒い風景に、都会の星空のようなまばらな光が灯る。
圭はそっと、目を閉じる。
たどる記憶に、ギターの音色が重なる。
頭の中ではずっと、あの時聞いたメロディーが響いていた。
***
「お先に失礼します」
雑然と物が積まれた狭い室内を黄ばんだ蛍光灯が照らす。
事務所に残っていた作業中のメンバーに声をかけると、圭は外階段に続くドアを押し開ける。
その途端。
ひんやりとした夜の空気がジャケット越しの肌を刺す。
「さむっ」
思いがけない肌寒さに反射的に声が出る。
十月も下旬にさしかかり、冬の気配が一気に近づいてきた。
圭の会社は葵通り沿いにある雑居ビルの一、二階にある。
全面ガラス張りの一階は、ショールーム兼店舗になっている。
閉店時間を過ぎた店内には間接照明だけがともり、外に向けてディスプレイされたギターを照らしている。
だだ、と階段を駆け下りると、リュックから取り出したイヤホンをセットする。
音楽プレイヤーの再生マークをタップした。
少し歩いて見えてきた路肩のバイク置き場を横目にドトールの前を通りすぎ、葵通りを道なりに進んでいく。
新宿の夜は明るい。
表通りからひとつ外れたこの道でさえ、立ち並ぶ街灯や店明かりがこうこうと夜道にともる。
日が沈んで久しい空は暗く、ビルの合間にのぞく歪な夜空には星ひとつ見えない。
じゃっ
不意に、かすかな音が聞こえてきた。
風に乗って届いたのは、やわらかなギターの音色。
耳によくなじむその音に、自然と足が止まる。
「いや、そんなわけ……」
コーヒーショップの手前で立ち止まった圭は、浮かんだ考えに小さく首をふる。
このまま丁字路の突き当たりまで行って、そこの角を曲がれば答えがわかる。
でも、すぐには足を踏み出せなかった。
脳裏に一瞬浮かんだのは、今は京都にいるはずの旧友の姿。
優しくて、おだやかで、少し悲しいアコースティックギターの音色が耳奥に残響のように響く。
「いや、でも、あいつがここに、いるわけないし……」
つぶやくと、ひとつ深呼吸をする。
音楽プレイヤーの停止マークをタップして、曲を止める。
外したイヤホンは首元に垂らしておく。
突き当たりを左に行って、その先にある四谷角筈線と甲州街道の交差点では、時々路上ライブが行われている。
彼らの演奏を聞くのが、圭のひそやかな楽しみだった。
「今日は、誰だろう」
歌声が聞こえてこないということは、まだそれほど場数をこなしていない歌い手か、ギターの演奏だけなのかもしれない。
予感めいたものを頭のすみに追いやり歩き出す。
ギターの音色をたどって、突き当たりを左に折れる。
ぼん、
先ほどと違い、身体のふちまで響くその音に、自然とまた、足が止まる。
甲州街道との交差点はすぐそこだ。
それでもその先が進まなかった。
今日のライブは、ギターのインストゥルメンタルだった。
交差点を曲がった先にいるのか、少し距離もあってその姿はまでは見えない。
でも、この先にいるだろう人物を、圭が間違えるはずがない。
何よりも、この音がそうだと告げていた。
弾いていたのは、最近映画も話題になっている、RADWIMPSの『前々前世』だ。
アコースティックギター用にアレンジが加えられて、原曲よりもやわらかな印象を受ける。
それでも、聞こえてくる音は、あの頃と変わらない。
届かない星明かりにも似た、優しくおだやかで、どこか悲しい、耳に焼きついたあの音色。
忘れもしない、あの音。
まぎれもない、涼の音。
「——」
それを認識した途端、圭の全身の熱が一気に上がり、急速に冷めていく。
イヤホンを耳に戻そうとして、指先がわずかに震えていることに気づく。
筋肉がこわばって、身体が硬直する。
それをほぐすように、ゆっくりと息をつく。
心臓がどくどくと早鐘を打つ。
それが緊張からなのか、懐かしさからなのかはわからない。
もしかしたら、どちらもあるのかもしれない。
思い出した感情にふたをするように、イヤホンでふさぐ。
急に重たくなった足をなんとか動かして、交差点に差しかかる。
交差点の角。
歩道にある少し空いたスペースには、信号待ちとは違うまばらな人波がある。
その向こうにのぞく、すらりと背の高い影。
記憶よりも大人びた顔をした涼が、ギターを弾いていた。
信号が赤のため、しかたなく立ち止まる。
体は進行方向に向けたまま、なんとなく横目で涼を見る。
ふ、と涼が顔を上げた。
目があったような気もしたが、すぐに視線をギターに落とす。
信号が青に変わる。
動き出した人たちと一緒に、圭も横断歩道を渡っていく。
じゃじゃっ
その時、一陣の風が駆け抜けた。
それまでかなでていた曲が終わり、次の曲がはじまる。
学生時代に何度も聞いた、聞きなじみのある短い旋律が繰り返されていく。
イントロが流れ始めた途端、圭の足がまた、ぴたりと止まる。
怪訝そうな視線を受けるものの、地面に縫いつけられたかのように、その場から動けない。
それでもどうにか足を動かし、横断歩道を渡りきる。
涼を振り返った。
その曲を聞いた瞬間。
通りを走る車の音も、行き交う人の喧騒も、すべてが消えた。
力強いギターの音だけが響き、広がる音色はゆるやかに街の景色を狭めていく。
涼から、目が離せない。
耳の奥では、遠く雨音が聞こえた気がした。
涼は真剣なまなざしで、真摯にメロディーをたどっていく。
繰り返しつつも変化していく旋律に、いつかの思い出がよみがえる。
それは、初めて涼が圭の前で弾いた曲であり、高校最後の日、雨の音楽室で聴いた曲でもある。
遠目でもわかる。
ギターを弾く涼は、相変わらずかっこいい。
このまま、何事もなかったかのように立ち去ることもできる。
前に向き直って、駅までの道を行けばいい。
でも、あの時の苦い思い出が呼び起こされて、一瞬のためらいが浮かぶ。
足はなぜか動かない。
圭は悩んだあと、信号が青に変わるのを待ってから横断歩道を戻る。
この一曲だけ聞いて、帰ろう。
そう思いながら人だかりの少し後ろ、内側に白い暖簾のかかった店の扉に寄りかかる。
イヤホンを外して、遠巻きに涼を眺める。
ばくばくと、心臓がうるさい。
それでもギターの音色はかき消さない。
そわそわと落ち着かない気持ちを落ち着かせるように、そっと深く長く息を吐く。
曲は終盤にさしかかり、繰り返し疾風が吹き抜ける。
最後のコードがかなでられ、曲が終わる。
涼は一礼をすると、ギターを下ろす。
それまで涼を囲っていた人だかりが崩れ、ぱらぱらと散っていく。
涼の足元に置かれた開けっぱなしの茶色いギターケースにお金を入れていく人を横目に、圭も信号待ちの列に向かう。
「圭!」
その時、記憶よりも少しやわらかな低音で、優しく圭の名前を呼ぶ声が聞こえた。
聞こえないふりをしようともしたが、もう一度声をかけられて、息をつく。
ゆっくりと深呼吸をしてから、涼を振り返る。
「……よう」
散々悩んで出てきた言葉は、そっけないものだった。
なんとか絞り出した声は、ひどくかすれている。
昔のこともあり気乗りはしなかったが、そのまま駅に行くのも気が引けて涼に近づく。
「久しぶり。いやー、全然変わってないね」
記憶にない、垢抜けた華やかな笑顔で涼が言う。
返答に困った圭はあいまいに笑うと、しゃがみこむ。
ギターを片付けはじめた涼の指先を見つめる。
ほっそりとしたその指から生み出される音は、やわらかであたたかい。
けれども、どこかさみしい音色は、涼の持つアコースティックギターにもよくなじむ。
記憶と違わない音に、きゅっと胸が締めつけられる。
「……こっちに、来てたんだな」
「うん。まあ、て言っても、二、三日前くらいに帰ってきたばかりだけど」
涼もしゃがみこむとギターケースに貼られていた紙を取る。
中の小銭をひとつひとつ拾っていく指先を圭はじっと眺める。
「そうなんだ。旅行?」
そのまま黙って見ているのも気まずくて、会話を絞りだす。
ふ、と涼が笑う気配がした。
「いや、こっちに戻ってきた。向こうの仕事も辞めてきたし」
「え、そうなの? なんで?」
驚いた圭が、思わず顔をあげる。
ギターをしまう手を止めた涼が、真剣な表情でまっすぐ圭を見ていた。
「圭に会うため、だよ」
その言葉に圭は息を飲む。
圭の反応を見た涼は一気に表情を崩す。
「なんてね」
そう言うとギターケースのふたをばたん、と閉める。
「いや、一度ちゃんとギターについて、勉強したいなって思ってさ。京都で知り合ったバーのママさんが、こっちに元バンドマンの知り合いがいるらしくて紹介してもらったんだ」
「そうなの?」
「うん。……離れていた時期もあったんだけど、やっぱりギターを弾くのは好きだし、やめられなくて。背中も押してもらえたし、改めて、ちゃんと向き合ってみようかな、って思ってさ。今お世話になっている人のところで、作曲やアレンジの仕方も教えてもらっているんだ」
愛おしそうにギターケースの表面を撫でたあと、すっくと涼が立ち上がる。
近くに置いてあったカバンを手に取る。
「そういえば、圭。この後って、時間ある? 久しぶりに会ったし、飲みにでも行こうよ」
「あー……、明日も、仕事だし。厳しい、かな」
「あ、そうか。そういえば、まだ月曜日だったね」
圭の返答に苦笑しつつ、涼は茶色いギターケースを背負う。
それを見て、圭ものっそりと立ち上がる。
「駅、行くんだよね。改札まで送るよ」
「え、いいよ。すぐそこだし」
「いいから、いいから」
にこやかに笑う涼に押し切られて、二人で駅に向かう。
いつの間にか、大きな身長差がついてしまった涼を見上げて、すぐに足元に視線を落とす。
少しだけ距離をあけて道を進む圭に合わせて、涼はゆっくりと歩いていく。
「圭って今、何の仕事をしているの?」
のんびりと歩きながら涼が聞いてくる。
「あー、楽器の製造から販売まで一本化している会社で、営業してる。自社製品で、ギターもあるよ」
「本当? じゃあ、今度見させてもらおうかな」
その後もぽつぽつと言葉を交わしているうちに、駅の南口にたどり着く。
最近できたばかりのバスターミナルを背に、横断歩道を渡っていく。
「わざわざ、ここまで来てもらって悪いな」
「大丈夫、気にしないで。俺の家、この道を向こうに行った先だし、帰り道だしね」
「そうなの?」
「うん。ギターも弾けるところ探してたら、そこを紹介されて。あ、そうだ、圭」
そこまで言うと涼はカバンからスマートフォンを出す。
「LINE、やってる? ID教えてよ」
「まあ、やっては、いる、けど……」
圭もとりあえず、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出す。
ロックを解除したところで、ためらって手を止める。
それを涼がすっと取る。
慣れた仕草でLINEのQRコードを読み取った。
手元に戻ってきたスマートフォンでは、『ともだち』に涼の名前が追加されている。
ぴこん、とメッセージが送られてきた。
「また、連絡するよ」
戸惑う圭に、涼は笑顔を見せる。
「……おう」
言いかけた言葉を飲みこみ、圭はそれだけ言うと軽く手をあげる。
「じゃあな」
涼に背を向けると、改札を抜けて駅の構内に入る。
振り返れば、改札の向こうの涼と目があう。
とっさに軽く会釈して、ホームに向かう。
耳の奥にはまだ、先ほど聞いたギターの音色が残っている。
記憶の中の音と混ざりあい、揺らぐ旋律が静かに深く沈んでいく。
カフェの前で立ち止まる。
もう一度だけ、振り向いてみた。
行き交う人に隠されて、改札も涼も、もう見えない。
それにほっとしながらも、どこか残念にも思う。
ひとつ、息をつく。
前に向き直る。
足早に通路を直進して、ホームへと続く階段を駆け下りた。
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