10人が本棚に入れています
本棚に追加
Track.2. スターゲイザー
count.7.
ぽろん
柔らかなギターの音色が切なげに震える。
一音ずつ紡がれるアルペジオの響きが、どこか儚く雑踏に消える。
四谷角筈線と甲州街道の交差点。
星明りを飲み込んだ街のネオンに照らされ、涼がギターを奏でる。
圭は少し離れた店の前に寄りかかり、腕を組む。
引き継ぎ業務が落ち着いた金曜日。
いつもより早く会社を出た圭は駅までの道を歩いていた。
その途中、風に乗って届いたギターの音に、迷いつつも結局はこうして来てしまった。
天の川のように人が流れていく向こう。
通りから差し込むヘッドライトを背に涼は曲を紡いでいく。
しずく型のピックがはじく弦の音は、柔らかで優しい。
眩しさに思わず目を細める。
涼と再会して以来、彼から連絡が来ることはなかった。
追加されたLINEのトークルームには、どうしたらいいか分からないまま、今でも所在なげにあの日のメッセージを残している。
ふっ、と雲の切れ間から月明かりが差し込む。
印象的なサビのメロディーが繰り返されて、次の曲が始まる。
圭は息を飲み、涼の手元を眺めていた視線をあげる。
夜の光の中で、涼はおだやかに音色を重ねていく。
その姿にそっと目を閉じた。
× × × × × ×
「なあなあ、次はこれ弾いて」
圭がそう言って差し出したのは、SMAPの『世界に一つだけの花』のCDだった。
涼は受け取りつつも、テーブルの上に放り出されたままの数学のプリントを見やる。
「宿題はいいの?」
「これ聞いたらやる!」
涼はそっと息をつくと姿勢を正す。
ギターを構え、いまだに慣れない手つきで弦をはじく。
ぽろん
印象的なサビのメロディーが繰り返され、曲が始まる。
ひとつひとつ確かめるようにコードをたどり、ピックをつまむ右手は一定のリズムを重ねる。
指使いはたどたどしくも、ゆっくりとていねいに。
柔らかな音を紡いでいく。
「やっぱ、すげー! かっけえ!」
曲が終わると圭は盛大な拍手を贈る。
「じゃあ、次はこれ!」
「ダメ。宿題ちゃんとやってから」
ジャケットを見せたCDは、ぴしりと涼に突き返される。
圭はしゅんと肩を落とす。
「……終わったら、また弾くから」
「ほんとか!」
涼の言葉に圭は嬉しそうな声をあげ、うきうきとテーブルの前に戻る。
涼はギターを下ろし、ベッド脇のスタンドに置く。
圭の向かいに座るとテーブルのプリントをのぞきこむ。
「それで、どこがわからないの?」
「ぜんぶ」
あの雨の日以来、圭は涼と過ごす時間が多くなった。
涼の家に行ってはギターの演奏をせがみ、聴かせてもらう。
優しい涼は、圭が頼むと困ったように笑いながらも、ギターを弾いてくれた。
その合間に宿題をやったり、勉強を教わったりもした。
お昼ごはんや晩ごはんに誘われれば、一緒に食べることもある。
涼も時々圭の家に来ては、ゲームをしたりマンガを読んだりして一緒の時間を過ごした。
でも、ギターを弾くのは、涼の部屋の中だけだ。
涼は圭が家に来るたびに、新しい曲を覚えて披露してくれる。
前に圭が好きだと話していた曲もひと通り弾き終わり、第二弾のリクエストをあげている。
最近流行っている曲も練習しているらしく、突発的に聴きたいと言っても弾いてくれることが多くなった。
はじめはワンフレーズ、ワンパートだけだった演奏も、今ではなんとか一曲を弾けるようにまでなった。
レパートリーも少しずつ増えてきている。
涼の家、涼の部屋、圭の前だけで開かれる演奏会。
クラスの誰にも知られていない、二人だけのコンサートは、最近では圭の密かな楽しみになっている。
なによりも涼の奏でる、優しくておだやかなギターの音色が、圭は好きだった。
× × × × × ×
ぽろん、じゃん、と弦が震える。
アルペジオの響きが、届かない星明かりのようにじんわりと夜空に広がっていく。
学生時代に一度だけ、圭もギターを弾いてみたいと思ったことがある。
ギターやピック、教則本も揃えて、実際に練習もしてみた。
でも思っていた以上に難しく、今では部屋の隅で埃をかぶっている。
涼と再会した夜、なんとなく久しぶりに弦をはじいてみた。
ずっと放置していてチューニングが狂ったギターは、ひどく乾いた音をしていた。
ほろほろと一つずつ紡がれる音が、静かに照らす星明かりのような余韻を残して曲が終わる。
圭は閉じていた目を開け、まっすぐ前を見る。
ギターを下ろした涼と視線があう。
笑顔を向ける涼に逃げるのもためらわれて、おとなしく近づく。
「今日は来てたんだね」
涼はどこか嬉しそうに言うと、ギターケースの中の小銭を拾う。
その前に圭もしゃがみこむ。
「うん、まあ。いつもより早めに仕事、終わったし」
全て拾い終わると、涼は慣れた手つきでギターケースにギターをしまう。
圭は何気なく手を伸ばすとおもむろにギターの弦をはじく。涼とは違う音がした。
ふ、と涼が笑うのが気配でわかった。
不思議に思って顔を上げる。
懐かしくも優しい笑顔に、ざわりと胸がさざめく。
「前も、こんなことあったよね」
ギターケースのふたを丁寧に閉めながら、優しい声音で涼が言う。
「そう……だっけ?」
「あの時は立てかけてあったギターだったけど」
涼は立ち上がると、ギターを背負う。
傍らに避けてあったカバンを取る。
圭はしゃがみこんだ姿勢のまま、その様子を見守る。
「圭。よかったらこの後、ご飯でも食べに行こうよ。金曜日だし、時間があれば」
「え?」
「あ、もしかして明日、予定ある?」
「いや、特にないけ、ど……」
正直に答えたあと、しまったと圭は下を向く。
ここならまだしも、今更、二人で何を話せばいいかわからない。
「じゃあ、決まりだね」
有無を言わせない笑顔にたじろぎつつも渋々圭は頷く。
立ち上がると、リュックを背負いなおす。
「それじゃあ行こうか。いいお店、知ってるんだ」
それを見届けた涼は駅とは反対方向に歩いていく。おずおずとその少し後ろに圭も続く。
しばらく歩くと見えてきた電話ボックスの先。
ビルにぽっかりと空いた入口の奥にひっそりと木枠で組まれた引き戸がある。
そこに導くように真っ直ぐ並んで照らす白い照明の中、店先に置かれた行灯看板がやわらかに灯る。
格子戸のガラスからはオレンジの優しい光が漏れる。
まるでそこだけが、外の世界から切り離されているかのようだった。
慣れない店の雰囲気に圭が戸惑っていると、涼はすっと扉を開ける。
その途端、焙煎されたコーヒーの香りがふわり、と漂ってくる。
涼に促され、圭が先に中に入る。
その後ろで、たんと扉の閉まる音がする。
店の入口にあるショーケースには、アップルパイやモンブラン、ホットケーキが鎮座する。
一枚板で作られたカウンターの向かいには少人数用に区切られたテーブル席がいくつかある。
ガラスで仕切られた店の奥には喫煙席もあるようだ。
「おお、なんかすげえな。こういう店って初めて入った」
席に案内されてもなお、圭は落ち着かない様子で背筋を伸ばす。
ベンチタイプの席の端に置いたリュックとコートもどこか萎縮するように、こじんまりとまとめられている。
天井近くにはかくかくとした梁が格子を組んでいる。
間接照明が灯る店内は、オレンジの電灯があたたかな光を落としている。
カウンター奥の棚にはたくさんのコーヒーカップがきれいに並べられ、出番を待ち構えている。
物珍しそうに店内をきょろきょろと見回す圭に涼は小さく笑い、メニューを差し出してくる。
「仕事先のオーナーが教えてくれてさ。コーヒーが美味しいんだ」
「へえ。おれの会社、この近くだけど、全然知らなかった」
メニューをめくれば、様々な種類のコーヒーが、原産国の他に香りやコクなどのチャートを添えて紹介されている。
聞いたことのない豆の名前もいくつも羅列してあった。
圭はさんざん悩んだ末にナポリタンを、涼はピザトーストを頼んだ。
セットで食後にブレンドコーヒーをお願いする。
「最近、仕事忙しいの?」
注文を終えると涼がメニューを店員に渡しながら聞いてくる。
「俺、あそこでちょくちょくギター弾いているけど、最近あまり通りかからないし」
答えに迷った圭は、コップをぎゅっと握りこむ。
薄いガラス越しの水の冷たさに、ひやりと指先から凍えていく。
「あー……えっと、おれの会社、最近大阪にも事業部ができてさ。それで、先輩? ……が、転勤で向こうに行っちゃうから、今は引き継ぎとかで、ちょっとバタバタしてる、かな」
もごもごとそれだけ言うと一口水を飲む。
「涼は? 今、何してるの?」
コップを置くと、ごまかすように話題を変える。
涼はことり、と喉仏を上下させてゆっくりと水を飲む。
圭に向けてにっこりと微笑んだ。
「こっちに来てからは、ライブハウスの仕事を手伝ってるよ。オーナーが、夏希さん……京都でお世話になった人の知り合いでさ。他のバンドのヘルプだけど、たまにステージでギターも弾いているよ」
「え、すごいじゃん」
「まあ、まだまだなんだけどね。でも、毎日いろんな音楽が聴けて楽しいよ」
涼はそう言うと、照れくさそうに笑う。
どこか充実していそうなその顔がまぶしくて、圭は目を細める。
ちびちびと水を飲んで、下を向く。
「ライブハウスかぁ。そういや昔、涼の兄ちゃんのライブで行ったなぁ」
「あったね、そんなこと」
圭がぽつりとこぼせば、涼は笑いの混じった声で返す。
そのあともしばらくぽつぽつと昔話を交わしていると、注文していた料理が届く。
「おお、うまそー」
料理を前に、圭は少しほほをゆるませて、いただきます、と手をあわせる。
自然と涼の前に動かしかけたサラダを慌てて引き寄せる。
フォークを手に取ると、シャキシャキのロメインレタスに突き立てる。
一連の動作を見守るような涼からの視線を感じ、訝しげに顔をあげる。
「何?」
「いや、何でもないよ」
ふふ、と小さく笑うと涼はピザトーストを引き寄せる。
三つに切られた厚切りトーストの上には、具沢山の野菜ととろとろのチーズがかかっている。
「野菜、食べられるようになったんだね」
ピザトーストを手に取りながら涼が言う。
圭は眉間にしわを寄せると、食べかけのサラダにフォークをさす。
「……まあ、出されたものくらいは。あんまり、好きじゃないけど」
答えながら、パプリカを口に運ぶ。
涼を見れば、ピザトーストにかぶりつくところだった。
「そのまま食べるの?」
学生時代、涼の家に行った時に何度かピザトーストをごちそうになったことがある。
その時は必ず、ナイフとフォークが添えられていて、ずいぶんと上品な食べ方をするんだな、と思っていた。
当時のことを思い出して聞けば、涼はまゆをハの字にして笑う。
「ああ、うん。今は使ってないよ」
「そうなんだ」
涼の言葉に返しながら、圭は食べ終わったサラダのガラスのボールとナポリタンの乗った皿を入れ替える。
ナポリタンの上にあるソーセージを下ろす。
何気なく涼を見た。
どろりとチーズが伸びて、隠れていた玉ねぎやパプリカが顔を出す。
チーズを器用に引き寄せて、大きく一口、三口と食べていく。
食べ終わると、指先についたトマトソースをお手拭きでぬぐう。
次の一切れに手を伸ばした涼と目があって、圭は慌ててナポリタンをフォークに絡ませる。
ちょっととりすぎたナポリタンを一口でほおばる。
口の中いっぱいに、濃厚なトマトソースの香りが広がり、ほどよい酸味にふっと表情が和らぐ。
視界の隅で、涼が優しく笑うのが見えた。
「……何?」
「ううん、なんでも。美味しいね」
「それは、うん」
涼は持っていたピザートーストの残りを食べ尽くし、一旦指を吹くと最後の一切れを取る。
涼の返答にすっきりしないものの、圭もナポリタンをフォークに巻きつける。
食べている最中も時々、涼の視線を感じたが、気にしないことにして黙々とパスタを口に運ぶ。
食後に出されたコーヒーも、すっきりとしたコクと香りでおいしかった。
コーヒーも飲み干すと、会計をすませて店を出た。
「圭、今日はありがとう」
店を出て甲州街道をまっすぐ進み、南口の改札まで来ると涼は笑顔で言う。
「いや、おれのほうこそ……」
圭はうつむきながらぽつりと返す。
駅からこぼれる明かりに、どこかほっとする。
「じゃあ、おれ帰るな」
「あ、ちょっと待って」
改札前でパスケースを取り出そうとした圭の腕を涼が掴む。
カバンの中から一枚のチケットを出して、圭の手に握らせる。
「今度、ライブやるんだ。他のバンドのサポートに入るだけだけど。良かったら、観にきてよ」
驚いて涼を見上げる。笑顔の涼と目があう。
「じゃあね」
涼はギターを背負いなおし、青に変わった横断歩道を戻っていく。
圭が言葉を返す間もなくその背中が遠ざかる。
渡った先で小さく手をふると、甲州街道を左に進む。
何も言えずに圭はそれを見送ると、手元のチケットに視線を落とす。
くしゃりと握り、ジャケットのポケットにつっこむ。
改札を抜けて、駅に入った。
最初のコメントを投稿しよう!