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Track.0. イントロダクション
count.1
「すみません、これ弾かせてもらってもいいですか」
「どうぞ」
自社ブースで待機していると、二人組の男子校生が話しかけてきた。
展示していたギターを手にとって、そのまま二人で楽しそうに話す姿を目細めて眺める。
楽器フェア初日の十八時過ぎ。
客入りも落ち着いてきて、展示ブースを行き交う人もまばらになってきた。
それでも、ギターや管楽器、試し弾きをする楽器の音、イベントブースから届く電子ピアノの音、ざわざわと響く人の声で会場内はにぎやかな空気に包まれている。
「すみません、ちょっと聞いてもいいですか?」
「はい、何でしょう——」
先ほどの二人組が話しかけてきたところで、胸元のポケットの携帯電話が低くうなる。
「はーい、何かありましたか?」
一緒に案内に来ていた後輩に目配せすれば、対応を変わってくれた。
それに内心ほっとしつつ、ネックストラップを持ち上げて携帯電話を取る。
会社から支給されている、二つ折りの携帯電話。
かぱ、と開けば待ち受け画面には上司の名前と番号が表示されている。
一度、後輩と男子校生の方を見る。
二人組の質問に、後輩はつたないながらもちゃんと答えられているようだ。
今のところ、ほかに客も来そうにない。
そこまで確認すると、自社ブースから少し離れて通話ボタンを押す。
「お疲れ様です。秋津です」
『ああ、繋がってよかったよ、秋津君』
電話に出ると、上司はほっとしたように息をつく。
「何かありましたか?」
『うん、ちょっと困ったことになってね。折り入って、秋津君に相談があるんだ』
困り果てたような上司の声に首をかしげる。
この会場では、とくにトラブルは発生していない。自身や後輩、会社まで苦情がくるような対応もしていないはずだ。
それ以外で何かあったのだろうか。
『直帰の予定のところ悪いんだけど、帰りに会社に寄ってもらってもいいかな?』
そういえば、少し前に新しく大阪にできた事業所に転勤になった先輩が、人手が足りないとなげいていた。
そちらの問題がこっちに飛び火した可能性もある。
紺のジャケットの袖から腕時計をのぞかせる。
時刻は十八時二十五分を少し過ぎたあたり。
楽器フェアは十九時まで開催しているが、人の入りをみてもあとの対応は後輩だけでも大丈夫だろう。
「わかりました。早めに切り上げて、会社に向かいます」
『悪いね、よろしく頼むよ』
上司との電話を切ると、携帯電話を胸ポケットに戻す。
荷物もあるため、一旦自社ブースに引き返す。
あの男子校生たちの姿は見えなかった。
「お疲れさまでーす。電話、大丈夫でしたか?」
「部長から、会社に来てくれってさ。悪いけど、この後の対応まかせてもいいか?」
「もうあんまり、人も来ないでしょうし、大丈夫ですよー」
声をかけてきた後輩に返せば、のんびりとした返答が戻ってくる。
「悪い、ありがとう」
そのままこの後の対応と引き継ぎを軽くすませると、長机の下に置いてあったリュックを取る。
後輩に一声かけて、自社ブースを後にする。
リュックの前ポケットからイヤホン、スラックスの右ポケットから音楽プレイヤーを取る。
ブースの間を通り抜けながら、からまったイヤホンのコードをほどく。イヤホンジャックにプラグをさす。
アンリウムに出るとイベントブースを横目にエレベーターに向かう。
長いエレベーターを上りながら、イヤホンを耳につける。iTunesを立ち上げ、再生ボタンをタップする。
ジャジャッ
不意に飛び込んだギターのカット音に、一瞬動きが止まりかける。
視線を落として、音楽プレイヤーのディスプレイを見る。
そこに表示されている曲名にまゆを寄せると、次の曲に飛ばす。
たどり着いたエントランスを足早に抜けて、自動ドアから外に出る。
その途端。
ひんやりとした空気がジャケット越しの肌を包む。
上を見れば、ガラス張りの屋根を静かに雨のしずくが伝っていく。
その向こうに広がるのは、赤灰色にかすむ空。
屋根が途切れた先、乾いた地面に音もなく雨が吸い込まれていく。
小さく唇をかむと、下を向く。
屋根のある道を選んで駅に向かう。
雨は、あまり好きじゃない。
あの日のことを、思い出してしまうから。
駅に向かう途中、まばらな人波の中に学生服姿の二人組を見つけた。
その一人が背負う、真新しい黒いギターカバーに目が止まる。
じゃじゃっ
耳元で流れる曲に、聞こえないはずのあの音が、聞こえた気がした。
忘れられない、音がある。
耳の奥に染み付いて、心の深いところでずっと鳴り響いている。
記憶の中の六弦は優しくて、おだやかで、どこか悲しくて。
刻まれたレコードのように、今でも曲を奏で続けている。
思い出はいつも、苦い後悔と、ギターの音色とともにある。
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