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火鉢の傍へ腰を下ろすなり、先ほど見舞っていた村田の具合が感染ったかの如く、富野は何度か咳をする。しとつく雨へ閉じ込められた茶の間に、その耳障りな響きが籠るのを聞きながら、松里は紫煙を吐き出した。
富野はこの家に来ている時、煙管へ触れもしない。村田が伏せっている部屋だけではなく、屋根の下にいる時はずっとだから、全くらしい忠義立てだった。
尤も、奴はそれ位の奉公をするべき立場にある。村田に二代目の跡目を任され、実質的に一家を采配している男だ。もはや名目すらも彼のものになるのは目前だし──この前松里が顔を出した十日前に比べても、村田の衰えは激しく、口をきくのもままならない。
小さく黄色く萎み痩せ細った彼を見るのは、何とも複雑な気分になる。例えそりが合わないとしても、親は親。しかも産みの父母と違い、あの男を選んだのは己自身だった。
そりが合わないと言えば、血も繋がっていないのに村田の気質を受け継いだ富野だって、松里にとって今の天気ほど、どんよりと鬱陶しい。
兄弟分である奴が村田の代紋を継ぐのは構わない。自らはそんな七面倒臭い立場など向いていない。だが焼夷弾で全てが燃え尽きたこのご時世に、侠気だ何だと喚かれるのは、心底うんざりする。彼が全く見上げた、非の打ち所がない男だと知っているから尚のこと、阿呆らしく思えてしまう。
「ああ柘植かい。噂には聞いていたが、まさか本当だったとは」
「さてはお前、知ってて放ってたな」
呆れた様子を隠しもしない松里と違い、富野は苦々しい顔で小千谷紬の袂に手を差し込んだ。
「あいつも色々思うことがあるんだろう」
「随分優しいこと言うじゃないの、鬼の富野が」
尤も、一体どう言う風の吹き回しだと誰よりも驚いているのは、富野に他ならないはずだ。奴は柘植を可愛がっていた。召集に応じた時も引き止めたが、丁度あの頃はシマへ居座っていた愚連隊とのいざこざで間が悪かった。いつも通り先陣切って殴り込みを掛けた柘植のほとぼりを覚まさせる為、外地は丁度良かろうと判断を下したのは村田だったが、富野は最後まで納得して居なかったに違いない。何だかんだと似た者同士の性質を持つ柘植が、やたらと泥を被る様子は、見るに堪えないのだろう。
正直なところ、あの手の石頭は、松里にとって最も疎ましい存在だった。だからこそ揶揄の中に、少し嘲りと言う名の本音も混ぜ込んでしまう。
「お国の為に戦った兵隊さんがどうとか、そんな戯言を抜かすつもりはないだろう。それを言うなら、英霊になって帰ってきた脇橋なんか」
「奴の妹に構ってるのはお前だろう」
「いい子だよ。兄貴よりもしっかりしてる」
「昔からカツはあの子を気にかけてたんじゃないのか」
「昔はな。今じゃ鼻も引っ掛けないって話だ」
対して絵に描いたかの如く鯔背な顔立ちの中、眉間に一筋皺を立て、富野は暫く考え込んでいた。やがて伏せられていた眼が松里のまなこを見つめ返す時も、顰めっ面は解けない。
「真意は分らんが、とにかく奴を探して、様子を見て来てくれないか」
「あの柘植に限って、筋を違える真似はしないだろうよ」
「それはそうだが、組を離れたと知れれば、狙う奴も大勢出て来る。とにかく恨まれやすいもんだ、ああいう男は」
「いや、お前は優しい男だよ、富野」
爪の先程に溜まった煙草の灰を火鉢へはたき落とし、松里はもう一度言った。
「まあ、そうでなくてもここの所、戦地帰りの食い詰めどもが徒党を組んじゃ、どこでもここでものさばろうと目をぎらつかせてやがるからな。一つ貸しだぞ」
「分かってる。新橋の市場だって、涌井の連中が下手を踏んだから、奴らが仕切ってた分もお前のところに回って来るだろう。その時カツは存分に働いてくれるはずだ」
「だがね、富野。お前さんは一つデカい思い違いをしてるぜ」
襖の向こうから漏れ聞こえる、弱々しげな咳へ耳を傾けながら、松里は目を眇めた。
「俺はお前や親父と違って、柘植みたく話の通じない野郎は、どうにも虫が好かないんだよ。えこひいきは、ちょいとしてやれないかもしれないな」
「馬鹿野郎、誰がえこひいきだ」
自らのがなり立てで、益々隣のむせ返りが強くなったと気付いたのだろう。富野はさもばつが悪そうな体で腰を上げ、村田の伏せる部屋へと向かった。
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