犬と兄弟

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犬と兄弟

 連れ込み宿の根腐った畳に敷かれた布団の上で、先ほどまで大股開き白目を剥いて悶絶していたとはとても思えない。例えふりだったとしても、あれだけ迫真の演技をしていたのだから、もう少し疲弊していても良さそうなものだ。せめて素振り位は見せてもばちが当たらないだろうに。  けれど松里が並べていく戦利品に輝くハナの目は、まるで綺麗事しか知らないかのように屈託ない。まん丸な瞳に映っているのは先程彼女を抱いていた男ではなく、銀シャリ三升、卵が十個、桃の缶詰、板チョコレートにアスピリン、缶入りのミルクに洋モク、晒布を差し出した時には、何に使うのだろうと思わず松里も首を傾げる。高架下へ立ち、男の体を知ってから、彼女はすっかり洋装が似合う垢抜けた女になった。同じ街頭に立っていた時でも、もんぺを履いて、やくざな兄の為の千人針に涙を染み込ませていた頃とは雲泥の様変わりだ。  さながら壊れた荒川が逞しく蘇ったように。あんまり彼女が咳をするものだから、松里は窓を開けた。広がる焼け野原へは、憚るようにぽつぽつとバラックが建ち始めているが、それでも空白が眩しい。  まぐわいに疲れた目を思わず細めた男と違い、ハナは既に服を整えている。「これはミサコちゃんに」と指でさし示して教えてくれる口調には、この部屋で何事も起きなかったように明るい。 「もうすぐ赤ん坊が生まれるの」 「父親は白いのかい、黒いのかい」 「違うわよ、近頃の特需で儲けたお偉いさんだって言ってた。でもミサコちゃんのことは、家を訪ねて行ったら足蹴にして追い返したらしいけど。酷い話よね」 「酷いねえ」  と呟く松里の口ぶりに、さして感慨が篭っていないことなど、彼女は気にもかけない。擦り切れた風呂敷で大きな包みを作り上げる手際の良さは奇術師さながらだった。  ふと松里は、まだ若衆が出征せず入れ替わり立ち替わり溜まっていた、彼らの親の家を思い出した。今はすっかり床に臥せっている村田親分は度量の大きい人物で、事あるごとに居間へ色々なものを積み上げては、懐が寂しい駆け出し者達に好きなものを持って行けと命じたものだ。我先にと掴みかかるさもしい姿を見て悦に入るなんて随分悪趣味だと、最後まで気付かなかった。  若衆の中で最も貪欲な男の一人だったハナの兄は、いつも出来る限り多くの、それも甘いものを手に入れようと取っ組み合いの喧嘩も辞さなかった。 「妹が好きなんですよ。特に虎屋の羊羹が」 「君は祐造に似ているよ。いや、あいつよりよっぽど偉い。誰かの為に何かしてやろうって、このご時世、そうそう思えるもんじゃない」 「あたしは頼まれたことをやってるだけ。助けてって言われたら、手を貸すのが当たり前じゃないの。いつあたしが助けられる側になるか分からない訳だし」  今更媚を売ろうと言うのか、ハナはまだ汗ばみを残した松里の背に触れた。彫り込まれた獅子奮迅の鬼若丸、振り被られた短刀の切先辺りを、塗られた赤色も剥げた爪先でそろりと撫で辿る。 「寧ろあたしは、助けてくれって人に頭を下げられる方が、よっぽど偉いと思うけれどね。男の人はそれが出来ないでしょう、すぐに意地だと何とか」 「最近はそうでもないさ。天皇陛下が人間だって言うような時代に、今更何を信じるんだね」  そんな真似しなくていい、寧ろ秋風に吹き戻される紫煙は咳を悪化させるだろうに。松里が手を振っても、ハナはまだ彼の肩へ寄りかかり、外を眺めていた。 「こんなこと言ったら笑うでしょうけど、松里さん、あたし信じてるのよ。兄さんが帰ってきてくれるって。例え戦死公報が来ても」  満州で早々にくたばった兄を待つ健気な妹。秋にしんみりする純粋さがまだ彼女の中に残っているのだとしたら、もしも兄が生きて帰ってそんな彼女を目にしたら……考えるだけ無駄なこと。うんざりしていることを隠しもせず、松里は手挟んでいた紙巻を一際たっぷりと肺に送り込んでは吐き出した。進駐軍から流れてきたラッキーストライクを初めて吸った時は、成程こんな美味いものを呑んでいる連中に太刀打ち出来る訳はないとしみじみ思った。次こそは、勝つ側を間違えずに選びたいものだとも。  そろそろと気配を匂わせつつある夕暮れに、焼けた地面が黄ばんだ色へ染め替えられる。最後の足掻きとばかりにタイヤで白い埃を巻き上げながら、土方達を詰め込んだトラックが戻ってきた。すっかり疲弊した顔で荷台から降りてきた男達が、仕事場から持ち越してきた従順さで列を作る。待ち構えていた請負師は、この辺りを仕切る金垣組を仰ぐ愚連隊の連中だった。  ハナは益々前のめりの勢いだから、小ぶりな膝へ窓から押し出されそうになる。「やめろよ」と眉根を寄せる前に、「今日も無理だったみたいね」と彼女は首を振った。 「知ってる? 柘植さん、内地に帰って来てるって」 「柘植って、カツのことか」  思わず振り返れば、ハナはやっぱりと首を振った。 「こんな界隈で仕事を探してるなんておかしいと思ったのよ」 「上官を叩き斬って南方の軍刑務所で食らい込んでるって聞いたが、生きてたか」  わざわざ軍にまで行って臭い飯を食う必要なんざありはしないのに。話を聞いた時には心底呆れた。  呆れもしたが、同時に納得したのも事実だった。何せ奴は、あの木登りカツだ。  講談で聞く、古い博徒達が持ち合わせていた心意気を引き継ぐ者。それは誰だと問うた時、界隈の連中が真っ先に思い浮かべる男こそ柘植克雄だった。義理や人情に厚く、曲がった事は大嫌い。腕っ節の強さと誰よりも携えた度胸は村田の覚えもよく、またその忠義心と言えばさながら犬のよう。  あだ名の「木登り」も、十日の縁日でもぐりのテキ屋へ焼きを入れた時、御神木の楠へ這い上がった往生際の悪い奴を見るや、躊躇なく同じようによじ登り、突き落とした逸話に基づいている。 「この前の復員船で帰ってきたみたい」 「親へ挨拶にも来ずに、一体何してやがるんだ。まさか金垣の連中のところへ転がり込んだ訳じゃないだろう」 「噂じゃ堅気になるそうよ」 「へえ。こりゃ面白いや。あいつがフケるなんて」  そう口にしておきながら、松里は己の言葉へ全く賛同出来ないでいた。この世界からきっと足を洗うことが出来ない者。その名を挙げよと言われた時、見知った者なら誰もが真っ先に、柘植の顔を思い出すだろう。  ましてや、あんな覇気のない人足の群れにその身を投げ入れる姿なんて、想像すらつかない。松里の渋面へ重ねるようにして、薄汚れた男達を眺め渡すハナの貌を横目にして、ふと煙草を口から離す。 「ところでハナちゃん、その言い草じゃ、柘植とは直接会ってないのかい」 「道で一度立ち話をしたきりよ」  あんなに嫌がっていた癖、煙草頂戴、とハナは長い爪で男の肩を抓った。差し出された箱から一本抜き取り、マッチの火を受け取る可愛らしい面立ちが、苦そうに顰められるのは、ゆらゆら立ち上る煙のせい。お互いが燻らせる同じ匂いに、ハナの肌から微かに漂っていた腋臭を消されたと、初めて意識した。 「柘植さんは案外純情だから、パン助なんて汚らしいと思ったのかもね」 「あいつはそんなケツの穴の小さい男じゃないよ」  そう擁護した理由が分からない。本当は、「純情だから、世慣れた女に尻込みしたんだろう」位の慰めで止めておこうと思ったのに。 「でも、惚れてた女にそんな素っ気ない素振りっていうのは、確かにらしくないな」 「惚れた腫れたなんて馬鹿みたい。もう何年前の話よ……もしそんなことが、ほんとにあったとしても」  ふっと蓮っ葉な仕草で吐き出された紫煙から、何故だろう。さっきまで嗅いでいた、あの懐かしく酸っぱい臭いがする。すっかり汗も冷え、シャツを羽織る松里へまだ腕を絡めながら、ハナは今にも笑い出しそうな声音で耳打ちした。 「ねえ、拓殖さんって、ほんとにあたしへ惚れてたのかしら」  見下ろす瞳は無邪気な希望に満ち溢れている。思わず浮かべた薄笑いと共に顔を逸らした事すら、彼女は暗黙の了承と受け取ってしまったようなのだから、全く手に負えなかった。  愚かな人間は、希望が生まれることと、希望が残っていることを、こうも簡単に混同してしまう。
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