お母さんは私を産んでくれない

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 小説が書けなくてもよかった。  漫画原作が書けなくてもよかった。  商業デビュー出来なくてもよかった。 ベストセラー作家になって大金持ちになれるなら話はまた別だけどね。  普通のお母さんになりたかった。でも、その夢は永遠に叶わない。ときどき私は夢想する。口唇口蓋裂の赤ちゃんに母乳を与える。唇の端から白い乳を垂らして、その子は上手く乳を飲めない。唇が割れて鼻にくっついたその顔立ちを誰が何と言おうと世界一、いや宇宙一可愛い。母乳を直接与えるのを諦めて、口唇口蓋裂の赤ちゃん専用の哺乳瓶に移し替える。専用の哺乳瓶は唇が割れて吸う力が弱くても飲みやすく出来ている。ときどき気まぐれで子どもがいない癖に、哺乳瓶のメーカーのサイトで見つけたその母乳器セットの画像を見にいく。透明な哺乳瓶を搾乳した自分の乳で満たして、哺乳瓶片手に我が子を抱き、ゲップをさせ、オムツを替える自分の姿を思い浮かべる。  私の子は、口唇口蓋裂だけでなく心臓に奇形があって心配が尽きない。心臓の奇形は間違いなく私が服用している持病の薬のせいだ。この子の口唇口蓋裂も別の持病の薬の副作用として書かれていた。でも、私の子だから、「儚く」て「可哀想」でも、きっと「芯だけは強い」のだろう。エレキギターのソロのようにギュインギュインとうるさくても綺麗な音程で泣くし、ドーナツを沢山重ねたようなふっくらした小さな掌を動かす。その指は見えないピアノを弾いているようだ。短い足をバタバタさせるリズムはバスドラを踏んでるよう。きっとこの子は音楽の才野がある。お腹にいるときから蹴るリズムが8ビートだったから。  旦那とは名付けで揉めた。「類素(ルイス)」だの「理愛留(りある)」だの個性的な名前を考えてくる。個性的な名前で苦労した私は断固反対して、男の子なら「幸成(ゆきなり)」、女の子なら「幸花(さちか)」だと押し切った。1982年生まれの私に「萌奈実(もなみ)」なんて小洒落た名前をつけた両親。もしもタイムスリップ出来るなら、お前ら二人して鏡をよく見ろと名付けを止める。目鼻立ちがのっぺりした両親から、目鼻立ちがくっきりした洋風の名前が似合う娘が産まれてくる訳がない。旦那は「和行(かずゆき)」というまともな名前を付けて貰えたから、個性的な名前に憧れていた。名付けに関しては舅姑を完全に味方につけて個性的な名前を排除した。  産まれてきた私の子は女の子だった。重い生理痛がタンスの角に小指をぶつけたレベルに軽く感じるほど陣痛は苦しかった。このまま我が子の顔を見ること無く死ぬと確信するほどに。妻から母になった実感があまり湧かないまま、私は産まれてきた幸花を見て後悔した。もう逃れられないんだ、母であることから。やっぱり小説を書くことを諦めなければよかった。もう少し粘って頑張れば売れるチャンスがあったかもしれない。  人間は無い物ねだりが止められない。  そこにあるものより違うものが欲しい。  幸せを手に入れても欲望に際限がない。      自分の事は全部後回し。子ども中心の忙しくて慌ただしい、目が回るような日常。トイレの中ですら30秒も一人になれないママになった私。恐ろしく多忙で不幸な、素晴らしく充実した幸せな生活がそこにはあるはずだ。だけどきっとその世界線の私は小説を書く時間がない事を嘆いたに違いない。  YouTubeで適当に音楽を聴きながら、普通のお母さんになった自分をたまに想像する。  私の持病の薬の副作用には妊婦には投与しないこと、授乳中服用しないことと注意書きがあり、副作用と胎児への影響がはっきりと書かれている。胎児への催奇形性。産まれてくる子は「普通の子」ではない確率が上がる。それならばその薬を飲まない方法があるのではないか。そうは問屋が卸さないのがメンタルの病の煩わしい所だ。他の薬に変える方法も上手くいかず、やれることはやって妊娠や出産を諦めた。夫も納得してくれている。結婚するときに子どもは無理だと伝えたら、二人で生きていこうと言ってくれた。  姑は丁寧に持病を説明しても理解しようとしない癖に、 「病院変えたら?セカンド・オピニオンは?子どもを諦める必は要ないんじゃない?」 事あるごとに口うるさい。お正月の帰省で姑の小言のマシンガンが響く義実家の台所。 「黙れ、ババア。唇をミシンで縫い付けんぞ」  酔った勢いでついついグレていた昔に戻り、低い声で言い放ってしまった。お嬢様育ちの姑は怯えて固まっている。精神科の薬にお酒は厳禁なのに、ビールを勧めた舅のせいだ。旦那は私の迫力に気圧されて、自分の唇がミシンで縫い付けられてないのを確かめるように、唇を舌で舐めて確かめている。  お酒を飲まない事は私にとっては簡単だ。ただ煙草だけは止められない。喫煙は緩慢なる自殺であり、母になるつもりは微塵もないという意思表示の行為だった。そして、火を点けた煙草を吸うと、まるで自分が泣く事しか出来ない赤ん坊に戻ったような錯覚を起こす。煙草の煙は大人になった私の母乳であり、貪るように吸い、溜め息と嘆きとやるせなさと共に白い煙を吐き出す。正月の義実家というアウェーから現実逃避するために、義実家の裏庭でスマホを開く。義実家は誰も喫煙者がいないので、裏庭に追い出されるのには慣れた。  SNSでは両親共に障害のある人の子育ての話が炎上していた。心ない言葉が並ぶ。 「遺伝したら子ども可哀想」 「遺伝しなくてもヤングケアラー確定じゃん」 「自分たちのことしか考えてないエゴイスト」 それらの言葉は私に向けられた訳ではない。それなのに、なぜこんなにも悲しくなるのだろう。涙が溢れ出す。普通の人と同じように結婚して子どもを育てる事がなぜこんなに責められるのか。きっと煙草の煙が目に染みただけだ。           私がもっと勇気を出して、姑の助言通りにセカンド・オピニオンを求めて別の病院に行ったり、病院を変えてもっと沢山違う薬を試していたら、このご夫婦のように子どもを産み育てる道を選んでいたはずだ。ただ…。ネットを自分の意思で遮断出来たとしても世間は何かと小うるさい。  小うるさい癖に狭量で排他的な世間から我が子を守れる程、私は強くない。私が弱いから幸花は産まれて来られなかった。ときどき夢想する我が子に心の中で謝った。 「ごめんね、産んであげられなくて」 私に似て皮肉屋な幸花は11歳になっていた。 「どうしても叶えたい夢なら諦めるはずはないよ、お母さんなら。お母さんは小説を取って私を産み育てる道を消した。それでいいんだよ」 私が出産を諦めたのが30歳。その頃にもう幸花は産まれていたのか。 「可愛い洋服を着せたいから勝手に私を女の子だと決めつけて、親子連れに親切にする度に自己満足してさ。でも親切にしたその後に『私はこんな苦労をしなくて良かった』と胸を撫で下ろしてる。楽しそうに歩く家族連れを見ては落ち込み、疲れてヘトヘトになったパパやママを見て溜飲を下げる。こんなに性格が悪い人が母親にならないで済んだのは世の中の為にイイコトだと思うよ」  幸花の毒舌は私にそっくり。こんな小生意気な娘を産まなくて良かった。憎たらしい程生き写しの鏡のような幻の娘。でも憎めない、頬ずりしたいほど愛おしい。 「そうね、世の中のためよね?」 もう一本煙草に火を点けて煙を吐き出す。ベビーピンクのワンピースに白いカーデガンを羽織り、編み込みを後ろでまとめている。ハーフアップの髪を結ってあげたのは私。幸花が背伸びして私の背を擦る。 「私がいなくても185人の子どもがエブリスタにいる。よくまあ、こんなつまらない話を185個も書けるよね。呆れるけど好きならとことんやりなよ。それがお母さんの人生で何も間違ってない。少しは自信持ちな、まったくもう。本当に豆乳メンタルなんだから」 豆腐メンタルを通り越して豆乳メンタルって…。最早固形物ですらない、液状化してる。 「うん…そうだね。ずっと幸花の話を書こうと思ってた。私の娘の話を。でも辛くて書けなかった。やっと書けた、待たせてごめんね」 「書けたからきっと次に進める。お母さんは私を産む道を消した事をもう振り返らないで。後悔しないで。違う、私はここに産まれた。お母さんの小説の中でちゃんと生きてるからさ」  ―令和6年元日― 私の幻の娘の幸花は、たった1日で11年の人生を生き抜いていた。もう哺乳瓶メーカーのサイトを開くことは無くなった。だってこの子はもう11歳だからミルクは要らない。私は幸花と一緒に前に進む。 「あなたは消えたんじゃない、今日産まれたのよ」 幸花が去る後ろ姿に声を掛けてから煙草を携帯灰皿で消す。お正月の台所仕事に戻る。さっきの私の口の悪さと柄の悪さを姑は怖がり、借りてきた猫のように無言を貫いている。溜まった洗い物をテキパキと片付けながら、私は鼻歌を歌って上機嫌だった。曲は『Happy Birthday to you 』、1月1日は娘の幸花の誕生日祝い。 (了)
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