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「冬儀。お前も災難だよな。御役目とはいえ、こんな雨の日に、深川くんだりまで来なきゃならないなんて。だらしない男の顔なんか見たって…面白くも何ともないだろう」
冬儀は取り合わず、あちこちに脱ぎ捨てられた秋司の着物を畳んでいく。
「御役目だから、来ているわけじゃない。私が来たいから、ここに来ているんだ」
秋司はなおも、絡むように言い募った。
「何の道楽だよ。お前は立派な、遠邊家の用人(ようにん)様だ。俺にお手当てを渡すのなんて、下男に頼めばいい」
冬儀は手を止めて、じっと秋司を見つめる。
「そんな風に自分を卑下するな、秋司。お前は今も私と同じ、遠邊家の家臣だ」
秋司は口元をゆがめ、膝に置いた拳に視線を落とした。
左手は、かすかに震えている。
「何が家臣だ。俺は遠邊家の御子息を…誠之助(せいのすけ)様を…斬り殺した罪人だ。本来なら遠邊家にとって…許しがたい仇のはずじゃないか」
冬儀は秋司を落ち着かせようと、ゆっくり首を横に振った。
「…避けようがなかった。あれは…お前のせいじゃない。秋司を責める者など、誰もいない。お前は最初から…許されている」
固く目を閉じる、秋司。
「それは真実を隠したからだ。俺は誠之助様を斬り殺し、自分だけのうのうと生きている。償いもせず、罰されもせず…」
「違う。のうのうと生きてるわけじゃない。真相にたどり着くために、償うために…それを誠之助様の御遺志と信じ、今は生きるのだと…二人でそう決めたんだ」
秋司の呼吸が荒くなる。
声にならない叫びを絞り出すように、秋司は頭を抱えた。
「でも…っ! でも実際は、どうだ…! 半年経ったって、何の手掛かりも、一片の真実さえも…俺は掴めていない。俺は一歩も、ただの一歩も、進めていないんだ」
込み上げる涙に赤く染まった、秋司の目。
「誠之助様を、おひとりで…俺の…、俺の手で! 逝かせてしまった、あの日のまま…」
冬儀はうつむく秋司の前に膝をつくと、激しく上下する両肩に、そっと手を触れた。
「…体を治すことが、第一だったからだろう? お前は大怪我を負い、生死の淵を彷徨った。けれど苦しい鍛錬を重ね、お前が、左腕を肩まで上がるようにしたんだ。それは…お前が勝ち得た、前進じゃないか」
懸命に励ます冬儀。
だが見上げる秋司の眼差しに、力は無い。
冬儀はまるで祈りをささげるように、秋司の体へ熱い言葉を注ぎ込む。
「大丈夫だ。いつかは左手だって、自在に動くようになる。真相にたどり着く日も、必ず来る。お前はひとりじゃない、秋司。私がお前をその地獄から救い出す。必ず…必ず、だ」
冬儀はぐっと秋司を見つめた。
「だからそこに留まるな、秋司。このまま前に進み続けよう。私と共に、二人で」
しばしのあいだ、沈黙が流れる。
「…済まない、冬儀、俺…」
かすれた声と共に、大粒の涙がぽつり、ぽつりと、うつむく秋司の膝に落ちた。
「秋司。お前の苦しみは私の苦しみだ。だってそうだろう。私たちはずっと、二人でひとりなのだと…誓ったじゃないか」
けれども力強い言葉とは裏腹に、冬儀もまた、深い霧の中で彷徨っていた。
――どうしたら…私たちは真実にたどり着く。
私は何をすれば、秋司の心を救えるのだろう…。
床の一点を見つめる秋司の口から、心の内がこぼれ落ちた。
「冬儀。こうして生きることは…耐え難い。夜になると、俺はいつも願うんだ。誠之助様、俺を…どうかお側に連れて行ってくださいと。俺を…赦(ゆる)してくださいと。でも答えは返ってこない。誠之助様は何も…何も、言ってくださらない…」
思い詰めたようにつぶやく秋司。
――狂いたい、もういっそ…狂ってしまいたいのに。
「俺が悲しいほど正気なのは…何をしても狂えないのは、罰なのか、冬儀。これが俺の、償いなのか…」
秋司の目は、ここではないどこかを、すがるように見つめていた。
「…ならばこうして償い続ければ、またお会いできるのか、冬儀、俺は…俺は、お会いしたい、もう一度、もう一度お会いしたいんだ…! 誠之助様に、誠之助様に、もう一度…!」
「うああああっ!」
自らの命をえぐり出すかのように、胸元に爪を立て、秋司は慟哭した。
「死なせてくれ冬儀、謝りたいんだ、誠之助様に…どうしても、どうしても、お会いしたい…っ!」
「落ち着け、頼む、生きてくれ、私はお前に生きていてほしいんだ、秋司…、秋司…っ!」
秋司の命を、心をここに留まらせんと、泣き伏す背中を必死に包み込む冬儀。
――何故、こんなことに。
何千回、何万回と繰り返したその問い。
深い霧に向かって叫ぶようなその問いを、冬儀は再びどこかに向かい、幾度も問いかける。
屋根を叩く雨音が、強まった。
降り続く雨と同じように、秋司の目から零れ落ちる涙も、冬儀の心に積み重なる悲しみも、止まる気配を見せなかった。
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