■序章■ 慶応三年、深川

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■序章■ 慶応三年、深川

降り注ぐ雨は、わずかに潮の香りがした。 大川(隅田川)の河口も近い、深川佐賀町。 海を埋め立て拓かれた、小舟行き交う運河の町だ。 勇み肌の江戸っ子たちが躍動する、賑やかな水の都。 けれども今日は、その歯切れのいいやりとりが聞こえない。 代わりに町を包むのは、鬱々と町を濡らす陰気な雨音ばかり。 すれ違う人は皆背中を丸め、足早に通り過ぎて行った。 運河沿いの道を歩く若侍、武崎冬儀(たけざきとうぎ)は、高下駄を履いた足に力を込める。 良くない予感が、友の元へ向かう冬儀の心を急かしていた。 唯一無二の友、松波秋司(まつなみしゅうじ)は、同じ主君の元に仕える同胞だ。 だが秋司の住まいは今、この町の裏長屋にある。 うらぶれたその一角を目指し、切れ長の目で真っ直ぐ前を見据えながら、冬儀はただ足早に歩を進めた。 強く握りしめた番傘が梅雨寒の雨に打たれ、ぱらぱら音を立てる。 雨はまだ当分、止みそうも無い。 低い空、見えない光。 目に映る灰色の光景はまるで、己と秋司の心模様だ。 ざわつく心を抑えようと、冬儀は薄い唇の端を噛みしめて、鼻からふうっ、とため息をついた。 冬儀は羽織の襟元に、ふと目を落とす。 以前は秋司も日々まとっていた揃いの黒い羽織。 その襟元には左右にひとつずつ、白い家紋が染め抜かれている。 斜め十字に交差する、二本の鷹の羽。 それは自分と秋司を繋ぐ、大切な証。 旗本、遠邊家(とおなべけ)に仕える同志の、揺るがぬ証のはずだった。 通りに面した裏木戸を、冬儀はくぐる。 裏長屋の敷地を走り回る子どもたちの姿が、今日は見えない。 物干し場の隅に置かれた小さな稲荷の祠も、冷たい雨に濡れていた。 奥まった一軒の戸の前で、冬儀は遠慮がちに声をかける。 「…秋司、邪魔するぞ」 返事が無いのはいつものことだ。 閉じた番傘を軒下の外壁に立てかけて、冬儀は引き戸をからりと開く。 小さな部屋に身を縮めるようにして、こちらに背を向け寝転がる、秋司の姿が見えた。 規則的に上下する大柄な体。 その傍らには酒瓶が一本、打ち捨てられている。 それはあまりにも、予想通りの光景だった。 屋根を叩く雨音。しん、と冷えた部屋。 窮屈そうに丸められた背中は、寒さに震えているようにも、痛みをこらえているようにも見える。 壁に掛けられた夜着を静かに下ろし、寝入った体にそっと掛けてやりながら、眉根にしわを寄せた友の寝顔を、冬儀は見つめた。 ――笑う顔を最後に見たのは、いつだったろう。 散らかった部屋は、まるで秋司の荒れた心そのもののように見える。 冬儀は床に転がる酒瓶をそっと拾い上げると、自らの胸に強く押し当てた。 寝返りを打った秋司が、かすかに目を開く。 「ん…」 「秋司」 「冬儀…」 「今、来たところだ。良く眠っていたから、起こさなかった」 秋司はまだ酔いが抜けていないのか、大儀そうに体を起こす。 気怠げに額を右手で押さえたまま、ひとつ大きな欠伸(あくび)をした。 「秋司。昼間から飲むのは…正直あまり、賛成できないな」 「…言うな冬儀。雨の日は傷が痛むし…気分も滅入る。紛らわせるには…酒が一番、手っ取り早い」 見渡せば、部屋に陣取る季節外れの長火鉢。 まるでここに住み始めた真冬のまま、時が止まってしまったかのようだ。 「何も掛けずに眠ってはいけないぞ。体が冷えれば、なおさら痛むだろう? 所詮(しょせん)、長火鉢で部屋は温まらないし…第一付け放しで寝ていては、火の元だって不用心だ」 くどくど言葉を並べる冬儀を、手を挙げ秋司は制止した。 「分かった、分かったから…小言は止めてくれ。お前の小言は…頭に響く」 「…」 微かに眉根を上げながら、冬儀は長火鉢の脇に腰を下ろす。 鉄瓶から湯呑みに白湯を注ぐと、雑に胡坐(あぐら)をかいた秋司の前に、そっと置いた。 「秋司。まずは体を温めよう」 秋司は湯呑みに手を付けず、右手で左肩をぞんざいに揉む。 「…まともに動かないってのに、痛みだけはいっぱしに感じるなんて…苛々するよ」 「状況は…変わらずか?」 「ああ。左腕はどうしたって、肩より上には上がらない。もう、慣れたが…でも手先に力が入らないのは…利き手じゃないにしろ、正直参る」 「秋司…」 「つい忘れて使おうとするから、馬鹿みたいに物を落とすんだ。…はは、情けなくってな。毎回自分が嫌になる」 秋司は己を嘲笑うかのように、ふっと息を漏らした。 「まあ…だらだら生き永らえてる俺だ。手が動こうが動かまいが、どうでもいいか」 冬儀は眉をしかめ、苦しげに呟く。 「…そのように、捨て鉢になるな、秋司」 療養生活の中、突如出現したその症状。 診察した薬師は首を傾げ、帰り際、冬儀に小声で告げた。 『松波様のお暮らしの乱れ、何よりもお心の乱れが…招いたことやもしれませぬ』 己を責め、日々絶望を深めて行く秋司。 動かぬ手先はまさに、秋司の暮らしそのものだった。
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