fast music car

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 演劇、バンド、小説は厄介なモノ。大きな何かになれそうでなれない現実を叩きつけてくるから。その全部に首を突っ込んでると、人より早く喪服を着る羽目になる。いい奴は世をはかなんで死んでいく。ぶっ壊れてイカれた奴は峠をバイクで攻めて、事故なのかはたまた…という最期。20代で二回も友人の葬式に出て、40歳の大台に乗る今年もまた訃報が届いた。  パート先に頭を下げ休みを取り、夫にレンジで温めて食べられる食事を三食分用意して、私は新幹線に飛び乗って東京の池袋に向かう。夫の転勤で仙台に引越して1年。なんとか慣れてきた生活と寒さ。故郷の栃木県を走り抜けるカモノハシ型の頭の新幹線は、感傷的な気分に浸るには速すぎる。あっという間に那須塩原、宇都宮、小山を駆け抜け、大宮に着いてしまった。埼京線に乗り換えて池袋に向かう。  私が夢見て、その夢に捨てられた街、東京。  旧友のお通夜に間に合うように喪服の上から黒いシンプルなロングコートを羽織っている。その格好がいけなかったのか。マナー本通りにタイツではなく黒いストッキングに黒のパンプス。私の太ももの後ろに何かが当たっている。埼京線に乗るのは久しぶりで、どの車両が女性専用車両か確認していなかった。女性専用車両に乗らない、葬儀会館の近くまで普段着で行かずに喪服のセットアップにコート姿の私が悪いのか。いや、私は何一つ悪くない。虫の居所は最悪、旧友の死を悼むために上京した人間になんて卑劣なことをするんだ。スカートの内側に伸びてきた手に証拠が残るように針で引っ掻き傷をつけてやった。安全ピンは昔のバンギャの鉄板アクセサリー。亡くなったのは同じバンドが好きなライブ仲間の女友達。鋲や安全ピンで飾ったライブに着て行った服も何かで使うかもとキャリーバッグに詰めておいた。蓋を閉めるときにはみ出た安全ピンが邪魔で一つ外した。それをコートのポケットに適当に入れて。  その一つの安全ピンが痴漢野郎の手の甲にクリティカルヒット。鬼の形相で振り返ると、五十代後半の萎びれごぼうのような顔色の小太りの男が、なんとか逃げようと満員の車内で人を掻き分けようとしている。追い掛ける気も捕まえる気も起きない。お通夜に間に合うように、私はその汚物を無視した。  池袋駅東口から徒歩数分。そこが彼女との最期のお別れの場所だった。ライブで知り合った本名を知らない友達、昔の音楽仲間。そして、心から抜け落ちてすっかり忘れていた。同じ人脈ならいて当然か。昔やっていたバンドのギターがいた。ただのバンドメンバーならここまで動揺しないだろう。元彼という演劇やバンドや小説よりも更に厄介なモノと20年の時を経ての再会。彼女のお通夜で泣き腫らした私の目は、どこかで違う何かを予感していた。  明日の彼女の本葬にも出るつもりでいたのに、昔のビジュアル系バンドから貰ったような別の名前で呼び合う仲間の輪から外れて、彼と私は池袋から北千住へと移動していた。 「二人で飲むか?」 「うん」  会話らしい会話はそれしかなかった。昔彼が住んでいたアパートが北千住にあって、どこにどんなお店があるか、彼は知り尽くしていた。半同棲していた私もだけれど。安くて汚い居酒屋は、昔と同じ雰囲気だった。でももうあの頃のお店はない。似たり寄ったりの違う店には、夢を語る明るい若者と現実に疲れたゾンビのような中年が、色彩のコントラストを描いて綺麗なストライプ模様を描いていた。 「あいつに引きずられるなよ?」 彼は心配そうに生ビールのジョッキを私のライムサワーのジョッキに静かに当てる。音を立てない乾杯は、故人への追悼の証だ。もう二人も見送って、この誰が始めたのかよくわからない追悼の作法にも慣れた。小さく頷いて返す。 「そっちこそ。彼女が愛した音楽を伝える人がいなくなる。だから私たちは生きてそれを届け続けなきゃ…」  中年と揶揄されても言い返せない年齢になってから妙に涙脆くなった。壮年と呼ばれても言い返せなさそうな年上の彼は、座敷の座布団を私の隣に置き直して私の短い髪を撫でて、ハンカチを貸してくれる。しわくちゃで畳んだだけで、女の影も左手薬指に指輪もない。昔はあんなにモテた癖に一人?いい気味、何人もの女の怨念があんたの幸せを許さなかったんだよ。心の奥で毒づいた。 「昔の俺なら七海と同じ事を言う。でもな、この年になると一つ一つの死に別れが堪える。もう何もかも忘れて車一つで旅に出て彷徨いたい。仕事の責任も親の介護も責任逃れする兄弟も捨ててさ」  親の介護…。独り身でいい気味なんて言ってごめん。心の奥で吐いた毒をこっそり訂正した。私は何も不満はない。夫と二人の気ままな生活、申し訳程度の扶養内パート、趣味の小説書き。贅沢をしなければ暮らしていける。でも忘れた頃に夢でうなされる。結婚して5年くらい経ったときの夫の浮わついた姿と、相手の女の人を小馬鹿にしたような笑顔を。言い訳の材料はもう既に揃っていた。レンジでピピっと簡単の手抜き料理のように。上手く調理出来るか、私は彼の愚痴に誘惑の彩りを足した。 「二人でどっか行こうか?お金が尽きるまで」 彼は生ビールを一口飲み、ジョッキをコトリと安い合板のテーブルに置いた。 「たどり着いた最果ての地で、死ぬかもう一度旅を始めるか決めるのか?」 私もライムサワーのジョッキを置く。彼の肩にもたれて歌うのは矢井田瞳がカバーした、『fast car』の日本語訳バージョン。彼は私の肩をしっかり抱いてハモる。 「車とギターが要る、後は退廃的な愛も」  こうして、嘘みたいな逃避行は本当に始まった。安いコンパクトカーをレンタルして気ままな根なし草の旅が。旧友の葬儀をきっかけに行方を眩ました私を、夫は自殺しているのではないかと心配して探し回っていた。留守電やLINEは夫や家族や職場関係や友人のメッセージで埋まる。スマホはときどき逃避行の邪魔をする。でも、全てがガラス越しの遠くの出来事のように感じて現実味がない。今ここにある許されない愛の炎の灯火だけが私の現実。  それでもきっと、走り抜ける速い車でたどり着く、最果ての地で私が選ぶのは死でも新しい旅でもない。大抵の女はリアリスト。万が一の葬式代として貯めてある結婚後の貯金200万と独身時代に貯めた120万。全財産合計320万を不倫の代償として支払ってでも、この人と一時でも甘い時間を過ごせるなら「安い旅行」だ。  全財産を捨てて賭ける相手は、最近推してるフィギュアスケーターでも、ピアノにのめり込んだきっかけのシンセサイザー奏者でも、同郷の悪ぶってるけど優しくてカッコいい憧れのバンドマンでもない。一緒にバンドを組んでいた、この最愛の人だからこそ。彼が作った曲に私が歌詞をつける。ギターだけだと寂しいから、ショルダーキーボードも中古ショップで買い足した。車のバッテリーから電気を取れるように機材も買って、行く先、行く先で客のいないライブをして。海では夏の曲を山では冬の曲を。一年がこんなに短く感じたのは何年ぶりだろう、子供のときの夏休み以来だ。そろそろお金がかなり減って心許なくなってきた。そう遠くない日に彼は言うだろう。 「ここで一緒に死のうか?それともあの男と別れて俺と結婚してくれる?」 心にもないことを心を込めて、20年前と一言一句違わない同じ台詞で私を困らせる。そして、私はまた同じ事を言う。 「どちらも選らばない。愛はここで終わり、私たちは地に足のついた生活に戻るだけ」  結末はわかっているのに、  最後は都合良く逃げるのに、  一番悲しい言葉は私に言わせる癖に。 幾つになっても、17歳年上の癖に子供みたい。さらさらの猫っ毛の天然茶髪のボブ、日に焼けた健康的な小麦色の肌、鋭い鷹のような目。私といるときだけその目はヒヨコのようにあどけなくなる。20年前に別れたときの彼の最後の捨て台詞はよく覚えている。 「たぶん音楽より文学の方が向いてる。書けよ、これからもずっと何があっても」 あの捨て台詞をただの捨て台詞にさせてたまるかと、死に物狂いで頑張った。同じ台詞を別れで使い回したら言ってやる。 「たぶんじゃなく、音楽より文学が本当に向いてた、ありがとう。今度こそ、さよなら」  私は秘密にしていたペンネームと短編集に収録された「女の友情は生ハムより薄い」のURLを彼に見せつけてから去る。 「いつか、いつかきっと、学の話を書く。この恋が思い出になる頃に。愛してる、ううん、愛してた、誰よりも」  速い車で走り抜けた、二人だけのライブツアーは終わりに近づく。矢井田瞳のカバーする『fast car』がカーステレオから流れる。結末は予想していたよりはマシだった。私の秘密にしていたペンネームと短編集の話をすると、 「振り回してごめんな。忘れなれなかった、好きでずっと。だから一緒に…少しでも一緒にいたかった。あの時と同じようにまるで母親みたいに言われたくない。生活に日常の暮らしに戻ろう、愛はここで結実して空へ昇華した」  あまり本を読まない学が、この車の旅で文庫本を読んでいるのには気がついていた。私はまたしても最後の最後はこいつに泣かされる。 「学は音楽も向いてるけど文学も向いてる、絶対に。何か書いたら読ませてよ、私が一番先の読者になりたい。それまで…さよなら。次はもう会わない。作品の感想だけ言わせて」  手を振って私は広島を走る路面電車に乗り込んだ。嗚咽を漏らす姿を学に見られたくないから座席に座って精一杯屈んだ。最低限の荷物を入れたキャリーバッグの取っ手を押さえながら。背中にしょってるショルダーキーボードが重い。ギターは車に置いてきた。鍵盤は私のパートだけど、ギターの音色はどうしても学を思い出すから。夢を見て夢に捨てられた東京のどこかでショルキーを投げつけて破壊して、私は仙台に帰る。音楽を奏でるには愛の残像が鮮やか過ぎる。楽器すら目障り。そして、不倫の高い代償を払って一から生き直す。それでいい。他の何でも埋められない「安いけど最愛の人と『暮らしていた』旅行」だから。 学と奏でた音が、二人の音楽が東京の街並みに消えていく。 (了)  
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