指揮棒を落とす

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指揮棒を落とす

 彼女のクラスにおける立ち位置をクラシックの演奏に(たと)えるならば、バイオリン奏者だった。彼女の奏でる音楽は、あらゆる生徒を惹きつけて離さなかったし、一方で、演奏の調和を乱していると非難するひとも少なからずいた。  さらに喩えを重ねるならば、ぼくにとって彼女は指揮者だった。そしてぼくは観客のひとりだった。彼女はぼくに背を向けて、奏者たちと美麗で壮大な音楽を紡いでいる。  ここで喩えを一度(ほど)いてしまうとしたら、ぼくにとって彼女は高嶺の花であり、そして、ぼくはクラスの周縁で孤独な学生生活を送っていた。指揮棒を(ふる)って背を向けている彼女は、こちらを振り返ることなんて決してない。  と、クラシックの演奏に喩えてみたからといって、ぼくも彼女も、楽器や唱歌に打ち込んでいるわけではない。お互い、なんの部活にも入っていなかった。けれど、彼女は2年生の夏からずっと受験勉強に打ち込んでいた。  ところでぼくは、国語のテストで一位の座を手放したことがなかった。ぼくが唯一注目されるのは、テストの答案が返却され順位が掲示板に張り出されたときだけだった。ぼくは彼女より良い順位にいることによって、一瞬でも指揮棒を持つ手を止めてやろうとしていたのだ。  三学期の期末テストに向けて、ぼくは壮大な計画を立てた。すべての教科で学年一位の座を取ってやろうと思ったのだ。それはぼくの高校生活で、最初で最後のプロテストのつもりだった。むつまじく音楽を奏でているところへ、ぐちゃぐちゃに丸めたパンフレットを投げつけてやろうと考えたのだ。  教室で、図書室で、廊下で……ぼくは、ずっと勉強をしていた。そしてぼくは、わからない問題も、わかってしまえば、もう二度とミスをしない性質であることを知った。  これくらい勉強ができるなら、もしかしたら、有名国立大学を受験することができるかもしれないということが、脳裏にちらつくことはあるけれど、いまは愚直に「壮大な計画」の成功へ向けて邁進(まいしん)するだけだ。      *     *     *  図書室の閉室時間が近づいている。勉強道具をリュックに詰めて教室へと向かう。自分の席に座り、誰もいない空間で、再び勉強をはじめた。すると、いつの間にか、ぼくの目の前に彼女がいることに気づいた。ぼくを睨んでいるその目は、ほんとうに美しい。 「どうかしましたか?」 「もし……もし、次のテストで、わたしより成績がよかったら、あなたと付き合ってあげる」 「ええと……どういうことでしょう?」 「知らない」  あえて罰を設定することで、背水の陣に身を置き、よりいっそうがんばれるようにする、という目論見なのだろうか。だとしても、もし彼女と付き合うことができたとしたら、当初の計画よりも壮大なプロテストになることだろう。  それからというもの、ぼくと同じ場所で勉強をしている彼女と、どちらが先に帰途につくかを無言のうちに競い合うようになった。ぼくが負けたときは、彼女は凱歌(がいか)をあげるかのように、数十秒後に帰り支度をはじめて、玄関のところで追い越していってしまう。  いつしか、ぼくは、彼女より先に帰り支度をするようになった。「さようなら」と言うようになったし、「がんばってね」と声をかけるようにもなった。すると彼女は、「わたしも帰ろうと思っていたところだから」とか「わたしはまだ頑張るから」とか、そうした言葉を返してくれるようになった。      *     *     *  しかし、どこか無理をしてしまっていたのだろう。ぼくは、風邪をひいてしまった。  いつも通りに働いてくれない頭を、なんとか働かせようと踏ん張りながら、保健室で試験を受けた。二限目と三限目の間で、ポリ袋のなかに胃液を吐いた。昼休みは、眠っているのかそうでないのか分からないうちに過ぎ去った。そして最後のテストを受けることはできず、後日、再試験ということになった。  車に揺られながら、左手に続く冬の田んぼの寒々しさに感傷を燃やし、遠く山の向こうまで伸びていく雪曇りの空をぼんやりと眺めながら、彼女のことを考えた。車が走っているということを示す音しか流れない中に、彼女の凛とした風采と鈴とした響きが掻き消える。最後のプロテストだと意気込んでいたけれど、本当は彼女に恋をしていたのだと知る。というより、知っていた。  歯痛のような振動に、酔いを覚える。泣くまいと必死に抵抗をしながら、人生ではじめて、芯が冷え切るような失恋に()かれた。
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