紀皇女(きのひめみこ)

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紀皇女(きのひめみこ)

私の名は、紀皇女(きのひめみこ)。 私の事を知る人は、 恐らくほとんどおりますまい。 天皇の娘、皇女でありながら、 国の正式な歴史書からも、また 人々の記憶からも、 消し去られた人間だから…  🍀🍀🍀 私は、大海人皇子(天武天皇)を父とし 蘇我氏の一族、蘇我赤兄娘大蕤娘 (そがのあかえのむすめ おおぬのいらつめ)を母として生まれた皇女です。 しかし、天武天皇の娘としては、他の皇女のように詳しい記録がなく、謎に包まれた、若しくはその存在をあえて消されたかもしれない皇女と言えるのかもしれません。 その理由は、祖父蘇我赤兄が壬申の乱において、父大海人皇子さまに敵対する近江朝廷側の重臣として働いたことも無関係ではないのでしょう。 686年9月9日 天武天皇崩御 殯(もがり)の期間は長くとられました。 2年3ヶ月にわたり、皇太子草壁皇子さまが皇族・臣下百官を率いてを何度も儀式を行った後、688年11月大内陵に葬られました。 この長い殯の期間は、草壁皇子さまを皇位継承者(皇太子)であることを人々に印象付ける意図があったのかもしれません。 未だ、直系長子(嫡子)継承が確立されたとはいえない状況であったからです。 父の葬儀とはいえ、逆賊の孫である私は、参列することも許されず、その儀式の賑々しさを伝え聞くばかりでした。 ところが、皇位継承者である草壁皇子さまが、689年4月病気により薨去されてしまいました。 草壁皇子さまのご子息軽皇子さまは、その時まだわずか7歳。 やむなく、皇后陛下が持統天皇として即位されました。 公式の記録においても“軽皇子”と表記されてはいますが、父である草壁皇子さまが即位せず薨去されたため、本来は皇子(2世)ではなく王(3世)なのです。 しかし、持統天皇の強い意向により 皇位継承者として扱われ、軽皇子と呼ばれていた様でございます。 いつ頃から、皇太子としての扱いを受けたのか、立太子の記録もないので ハッキリとはしません。 しかし、草壁皇子さまが薨去され、 皇后陛下が持統天皇として即位した頃には、直ぐに皇太子としての待遇を受けていたのではないでしょうか。 皇子は、皇位継承者となると同時に、 将来の皇后たる正妃を決めるのが通例となっていました。 正妃は、夫に代わり皇位を継ぐ可能性があるため、皇女から選ばれることになっていました。 どなたが軽皇子さまの正妃となられるのだろうと、人々は様々に噂していたに違いありません。 しかし、私には関係のないことと気にもとめずに居りました。 ところがある日、私の元に宮廷からの使いがやって来ました。 「天皇の思し召しにより、紀皇女さまを、軽皇子さまの正妃とする事になりました。 まだ皇子さまは若年ゆえ、即位は先のこととなりますが、将来の皇后として身を慎まれますように。」とのお沙汰がありました。 「帝の思し召し大変ありがたくお受け申し上げます。 しかし、大変申し上げにくいことながら、邸は古びており狭く、皇子さまをお迎えできるお部屋もございません。 どの様にいたしたら良いでしょうか。」 本来であれば、父や祖父、男兄弟が経済的に家を支え子を育てるのです。 しかし、壬申の乱において敗れた近江朝廷側の祖父や父、一族は処刑されており、残っているのは女子どもばかりでした。女たちが許されたのは、 私の母が蘇我一族だったからなのかもしれません。 経済的に困窮しており、皇子さまをお迎えできる邸に建て直す力などあろうはずもありません。 「軽皇子さまは、お身体があまり頑健ではございません。まだ、7歳でございますし、乳母県犬養三千代さまの夫、藤原の家に居られることがほとんどでございます。 こちらに通われることは、しばらくはないかと思います。 おいおい、準備なさればよろしかろうかと。その折は、帝からのお力添えもあろうかと思います。」 そう言って使いの者は帰っていきました。 私の生没年は公式の記録には記されておりません。 軽皇子さまと同じ年頃だったのか、 あるいは年上だったのか。 どちらにしても私は、軽皇子さま(かるのみこ、後の文武天皇)の正妃になったとはいえ、所詮それは、名ばかりのものだったのです。 子を為しても不思議ではない歳になられても、皇子さまが私の元を訪れることはありませんでした。 皇子さまとお目にかかることもなく日々は過ぎていきました。 宮廷からの沙汰もなく、邸を修繕する事も出来ず、荒れ果てる一方でした。 逆賊となった我が家を取り潰すことなく、私の母を含め女たちを許されただけで良しとしなければならないのでしょう。 残された女たちだけで肩を寄せ合い、ひっそりと京の片隅で生きていたのです。 それなのに、なぜ持統天皇は、私を 軽皇子さまの正妃に選ばれたのでしょう。 結局私は、“天武天皇の娘”という身分を利用するためだけに正妃の位置に付けられただけだったのです。 3世王で、本来は皇位継承順位が低い軽皇子の順位を上げるため、“天武天皇の娘”を正妃とすることで批判をかわそうとしたのでしょう。 最初から私は、即位するまでの飾りの正妃だったのです。
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