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「じゃあ、俺を呼んだのは」
という楓の質問を遮って、彼女は嗤った。
「ああ、山科の方はもっと、本当にたまたまだったんだ。でも、それなら余計に、こんなチャンスは二度とないと思った。だから、今しかなかったんだよ」
いましかない、と、は。
「……どうして」
と、深町の二度目の問いに、彼女は少し、困ったような顔をした。
それでも、やはり歌うように言うのだ。
「山科なら、おそらく最短で僕を見つけてくれる」
ここに遺された、”古谷真”の最後のピース。
「そして、深町なら、きっと躊躇わない」
君たちなら、猫が居ると分かっている箱でも、きっと開けられる。
と、彼女は。
「違うだろ。それはちがう」
今度はそう深町が否定するが、彼女はちいさく首を傾げただけだった。
「古谷」
楓は、彼女を呼んだ。最後というなら、彼女に問うべきことがひとつ残っている。
真はゆっくりと瞼を上げた。
「あのとき、君は……俺に訊ねただろう。ヒトはどこまでがヒトなのか」
「……訊いたね」
あのさ、山科、ヒトはどこまでがヒトなんだと思う?
静かに息を吸い込むと、楓は猫の瞳を見て、口を開く。あの時と同じ言葉を。
「俺は答えたはずだ。ヒトの心と体は不可分だ、と。いくら大脳を電子で再現しても、肉体がなければ……もう、」
さあな。
ただ、ヒトの心と体は分けられない。
心を失っても、身体を失っても、もうヒトではないんじゃないか?
あのとき、たしかに。
自分はそう答え、彼女は、きっと微笑んだのだ。今と同じように。
短い黒髪が、さらりと流れた。その自然な動きさえも。
「……聞いたよ。そして、それはたぶん正しい」
その続きは、聞きたくなかった。
それでも。
彼女は、
「僕は、君たちが知っている”古谷真”じゃない」
仮想現実の彼女は、真っ直ぐにこちらを見た。
もう僕は、ヒトではないから。
部屋のどこかから、ブウン、と更に重い音がする。彼女の分身がゆっくりと瞬きをする。その動作だけは、やけに不自然だった。
「そろそろ時間だ」
じかん?
「これが最後のタスクだったんだよ。君たちがクラウドにアクセスすると同時に、最後のデータがすべてネットワーク上にアップロードされる。そして、この通信が切れれば、その端末から”私”の情報が削除される」
その街から、僕が消える。
「待てよ!」
「待たないよ。それに、その街からは出て行くけれど、僕は何処にでも居る」
ネットワークの海に。
彼女はニヤリと嗤った。昔のままに。だから思わず楓も言い返す。
「他人に……後始末させてんじゃねえよ」
「悪かったよ、ほんとに。それでも、君たち以外なら頼まなかった」
気が付けば、ゆるゆると彼女の輪郭がぼやけていくのがわかる。カメラのピントがあわなくなったような。「古谷!」と慌てて呼び止めるが、深町の手はモニタの向こうには届かない。
止められもせで。
どうして、と。
三度目の問いを、深町が口にする前に。
「深町、悪いんだけど、松本にごめんねって伝えてもらえるかい?」
「……イヤだ。自分で言え」
深町が低い声で答えると、彼女はちょっと俯いた。睫毛の影が頬に落ちるのさえ、はっきり分かる。
ごめんね、と、古谷真を模した”誰か”は、そっと囁いた。
もう、彼女の影はほとんど”向こう側”に消えかかっていた。もう一度、楓が彼女を呼ぶ前に。
「あと、山科は、そうだな、大家さんにどうぞよろしく」
そう、最期に彼女は華やかに笑って、
ふっつりと、すべての画面がブラックアウトした。
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