黒猫

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 秋田駅に到着し、せめて個体と液体の米を研究室の土産に買うか、と思っていると、楓を呼ぶ声が聞こえた。 「え?」  ここで? 誰が? と振り向けば、 「かえで!」  と、柔らかに笑うのは。 「ほたか」 「うん。お疲れ」 「なんで……?」  呆然とする楓に、穂高が小首を傾げて言う。 「なんか、大変そうにゃから。電話の声も元気ないし……東京から5時間半いうから、事務所と相談して。ちょっとお休みもろうた」 「はあ」  いいのか、そんなフレキシブルで、と思ったが、まだプレシーズンで、彼は長年球団に貢献しているベテラン選手だ。相応に信用もあるのだろう。  とは思ったが、穂高はほとんどジョグに来たかのような軽装である。気軽に雪国に来るリスク管理はどうかと思いつつ、楓は自分のマフラーを取り、せめてこれでも巻けと差し出そうと、 「ん? 待て、なんでおまえ、汗だくなんだ?」  いくらなんでも、バスケの街とそんなに気候の差はない。汗をかく気温では到底ない。何なら朝は雪がちらついていたのだ。 「ああ、それが、秋田新幹線、ひとつ手前の駅で、なんや電気系統の異常ゆうて止まっててん」 「はい?!」  ひとつ手間といえば大曲で、先日、秋田入りしたときにスイッチバックで驚いたばかりだ。 「それで、代替バス出してくれて途中まで来たにゃけど、渋滞にはまってもうて。市街地まであと10kmやいうんで、走ってきた」 「ちょっと待て」  相変わらず距離感がおかしい。卵を買い忘れたから近所のコンビニに行く、ぐらいの気軽さで言われても。  開いた口がふさがらない楓に、彼はにっこりと笑った。 「ちょうどいい運動やんな」 「意味が解らない」  素で言い切ると、とにかく汗をふけ、風邪をひくと慌てる楓の一方で、穂高はあくまでいつものペースを崩さず、リュックから出したタオルで首の後ろを拭いながら、あっと声を上げた。 「でも、俺の他にも、降りたヒトがいててん」 「そんな物好きが他にも?!」  どうなっているのか秋田、と県民性を疑いかけた楓に、あっさりと穂高は言う。 「同い年くらいかなあ。なんやすごく……鍛えてはったなあ」  きたえていた?  彼もプロのアスリートだ、そのあたりの感覚は外れようもないだろう。そういう素地があるなら10km……いや、物好きにも程がある。 「なんかの競技はやってはると思う。サッカー、よりは、もうちょい高さが要る感じしたけど」  考え考え云う彼の言葉に、楓もさすがに勘付いた。 「バスケじゃないか」 「えっ?! バスケ? あー、せやな、そうかも」 「N市はバスケの街なんだそうだ」  楓の言葉に、へえ、と穂高は目を丸くする。 「そっかあ。運転手さんに、ごのーせん?のダイヤはどうなってるか、とか、聞いてはったけど」 「五能線、なら間違いないな」  楓とは逆に、これからあの街に行くのだろう。やはり深町の高校の関係者だろうか。 「バスケ選手も持久力、大事やねんな。久しぶりに、一度もペース緩めないで走ったなあ」 「……は?」  なんだって?  衝撃的な発言である。なにせ、彼は”小林穂高”で、プロ野球界よりむしろ陸上長距離界で有名な「小林家の長兄」だった。甲子園優勝投手であるのに、だ。  一時期、女子中距離の日本記録保持者だった母を持ち、弟の旭と剣は双子ランナーとして都大路、伊勢路、出雲路、箱根路の襷を繋いだ。今でもオリンピック強化選手の候補になるランナーだが、その弟たちがライバルとして挙げるのは、お互いではなく兄の穂高なのは界隈ではよく知られている。なぜ野球なんかやっているのか、と言われる始末だ。  オリンピアン候補の弟たちがペースメーカにする彼と走って遜色がない……オフのエマージェンシーのランニングとしても、なかなかにインパクトがある。本物のアスリートか、と反芻して、楓は深町の手のひらを思い出す。 「あっちで知り合ったバスケ部の深町先生、後輩にNBAの選手がいるらしい。他のプロ選手もいるだろうな」 「えええっ、そんなすごいの?」  バスケの街だからな、と軽く答えて、さて、と楓は相方と向き合った。  新幹線のダイヤが乱れているなら、対策も立てなければならないが…… 「とりあえず飯を食うか。とにかく米が美味いから、どこでもいいな」 「そんな雑な。でも、まあ、うん、どこでもええけど」  せっかくならきりたんぽ鍋が食べたい、と無茶を言いだした彼と連れ立って歩くうち、楓は心が解けていくのを感じていた。そうして、彼女の最期の挨拶を思い出す。    大家さんに、どうぞよろしく、と。
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