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②②
「美香先輩!」
何か叫んでいるような声に被さるようにけたたましくインターホンが鳴り続けていた。
美香はうるさいなぁと思いながら、糸が付いてない指を鍵にかけた。
施錠を外し、同じように指でドアノブを下げる。
「来てくれてありがとう!助かった!」
そう発しながら美香はドアを押し開けようとした。
だがドアを開ける前に気づくべきだった。
このドアは既に糸に絡み取られていて完全に開ける事は出来ないのだ。
内側から無理なら外から引っ張ってもらえば、ひょっとしたら、抜け出せる隙間くらい出来るかも知れない。
そこまで考えて自分の考えが浅はかだった事に美香は気づいた。
隙間があるなら最初の時に逃げ出せた筈。
開けた隙間の部分は全て糸で覆われているのだから、そもそもこの部屋から出られる筈がない。
でも、もし後輩が外からその糸を棒か何かで絡め取ればドアについた糸はその棒について、上手くすれば糸はドアから取れるかも知れない。
美香は思い、後輩に向かって叫んだ。
「ドアの隙間に糸が張られてあるでしょ!それには絶対、手では触れないで!棒か何かを使ってその糸を取り払って頂戴!」
美香が悲痛な声を上げると、分厚く縫われたような粘ついた糸の向こうに人影が見えた。
その人影は恐らく後輩だろうが、後輩はドアの隙間に立ち尽くし動こうとしなかった。
「澤岸、聞いてんの!」
美香が言うが澤岸は全く反応しなかった。
ただ茫然と立ち尽くしているような、そんな印象を受けた。
「美香…先輩?」
「詳しい話は後から!早く糸を取っ払って!」
「本当に…先輩で、すか?」
「澤岸、あんた何言っ…」
美香は突然、怒鳴る事をやめた。
そうだ。澤岸には私の声が、まともに聞こえていない可能性があるという事を美香は今更、思い出した。
三越さんが私に電話して来た時のように、
今の澤岸に私が話す言葉は、恐らく
「キレキレキレキレキレキレキレキレイ」
と聞こえているのかも知れない。
そう考えれば、澤岸が言った言葉、
「本当に先輩ですか?」も理解できる。
要するに私は既に人ではなくなって来ているのかも知れない。
そして糸によって人ならざるものへと、変貌を来たしているのだろうか。
人の言葉が話せなくなるなんて、終わってるわ。
美香は握っていたドアノブから指を離した。
もうどうでもよくなった。
私は助からないのだ。
話す言葉もほとんど人間のものではなくなって来ているのだから、間もなく肉体もそのようになるのは想像に容易い。
「澤岸、気持ちは嬉しいけど、私はどうにもならないからさ。家まで来てくれただけで充分だよ。な?だから気にしないでもう、帰んな」
自分の気持ちが後輩の澤岸に伝わっていないことを思うと胸の奥の隅が、チクッと痛んだ。
美香は玄関から離れるようにそのまま後退りした。
やはり今更生きたいなんて甘い考えだったのだ。
私は他人の命を蔑ろにし、偶然にも罰を受けなくて済んだ。
あの日からこうなる事は決まっていたのかも知れない。
自分がした事を棚に上げて砂漠の中の一滴を啜るような下卑な心が私を玄関まで連れて来させた。
もういい。良いのよ。
私はここで死ぬ。
ひょっとしたら、不気味な生物に変貌してこの部屋でいつか死ぬまで生きる目に遭うのかも知れない。
美香は受け入れようと思った。私が死に抗おうなんておこがましい。
リビングへ戻りかけた時、再び澤岸の声が聞こえて来た。
誰かと話しているようだ。
敬語を使っているから、相手はあのクソな上司か。
その者に向かって澤岸は説明している。
美香先輩の意味不明な言葉と嗄れた声は聞こえるが、ドアに鍵がかかっていて部屋に入れない事。
管理会社に連絡してみます、とか何とか言った後、
澤岸とは違う声が耳に飛び込んで来た。
その声は上司だった。今、確かに澤岸と話している上司の声がやけにはっきりと聞こえて来たのだ。私は異常なまでの聴覚を手に入れたのかも知れない。
「もう良いから帰って来い」
「いや、でも、美香先輩はドアを少し開けてくれてはいるんです。けど、理由はわからないのですがそれ以上、開かなくて…」
「いいから放っておけ。あいつは何日も無断欠勤してんだ。会社としてもこれ以上、守ってやる義理はないからな。懲戒解雇にするから、それだけ伝えて帰って来い」
その言葉を聞いた瞬間、美香の身体は玄関へと飛び跳ねた。
数メートルは跳躍しただろう。美香はドアにぶつかりながら、その隙間に片腕を突っ込んだ。
澤岸からスマホを奪って上司に文句を言いたかったのだ。
だが美香の腕が捕えたのは澤岸の手首だった。
やってしまった、という意識より先に美香は全力で澤岸を引き寄せた。
ドアに澤岸がぶつかる音とスマホが廊下に落ちる音を聞き取った。
美香は無理矢理に澤岸を糸の中へ、ドアに張られてある糸の中へ引きずり混む。
澤岸の悲鳴と同時に、美香の腹をつきやびり無数の鉤爪のような棘が飛び出した。
玄関口は血や内臓が飛び散り、辺りを赤黒く染める。
無数の棘は糸を突き破って澤岸の全身を貫いた。
澤岸は阿鼻叫喚の叫びを上げるが、美香は構わず、澤岸の身体を引き裂いた。
肉片や腕、眼球や皮膚などを室内へと引き込んだ。
棘は素早く、美香の腹の中へ戻り、再び、澤岸の身体へ向かって飛んで行った。
何度かそれが繰り返されると、美香は空腹が満たされたかのように、ゲップを吐いた。
廊下に残ったのは澤岸の頭部だけだった。
それを手繰り寄せ、部屋に入れると美香は激しくドアを閉めた。
澤岸の頭部は裸の美香の性器の下敷きにされている。
長く垂れた舌は渇き、性器を舐めてくれる事もない。
けど、それがザラザラした舌ざわりが、美香を興奮させた。でも、と美香は思った。
眼球を抉ったのは失敗だった。だって澤岸には私の全てを見せられないからだ。
でもそのような気持ちも徐々に曖昧になっていった。
再び腹部から鉤爪の棘が飛び出し愛おしい澤岸の頭部をズタボロに切り裂き、貫き、食した。
その頃には美香には人としての思考力を完全に失っていた。
その事にすら美香は理解出来なかった。
澤岸の全てを平らげると美香は再び玄関のドアを開いておいた。
その後で、美香は腹部から出た鉤爪の棘を起用に使い、あらゆる人へ電話をかけた。
美香は、何故この行為だけ忘れる事がなかったのか…
それはもう、美香自身さえわからない事だった。
「キレキレキレキレキレキレキレキレ…イ」
スマホの通話口から声が聞こえた。
美香はここへ招き寄せるよう、話しかけた。
1人でいい。たった1人でいい。私に近づいて…
終わり
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