2.彼

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2.彼

 足の裏を受け止めるのは冷え切った白砂。  満月なのか、少し痛みを覚えるほどに鋭く降り注ぐ月光が、砂をひんやりとした青い光で覆っている。  青白く輝く白砂を踏み、私はまっすぐに歩いていた。  茫洋と広がる、夜の海へと。  目的はわからない。ただ行かなければ、その思いだけが私の足を前に前に出す。  空と海の境目が見えない真っ暗な海を、白々とした月がじんわりと照らす。その海へ私はゆっくりと足を進める。  黒い布を縁取るような白く尖った波が、じわり、と爪先を濡らした。  痛みを感じるほどの冷えた水温に身をすくませた瞬間だった。私の肘を誰かが掴んだ。  ひんやりとした滑らかな手の感触が、海に向かっていた意識を引き戻す。目線を手の先にそろそろと添わせると、そこには一人の青年が立っていた。  私とそれほど年は変わらないように見えるその人は、上下共に白い服を着ていて、月の光に照らされ、妖精かなにかのように柔らかく微笑んでいた。 「行かない方がいい。ここから先は」 「どうして?」  問い返す私に、彼は白い指で海の中を指さす。私は彼が指をさすほうを見つめた。  ただどこまでも平らかに続いているとばかり思っていた海の一角が、不自然にえぐれていた。透き通った月光に照らされたそこにあるのは、海の底に深く続く階段。 「なんで、あんなところに階段が……」 「あれができた理由はわからない。でもね、あそこへ行ってしまったらもう戻れない。見て」  彼にさらに促され、私は視線を下向ける。波打ち際、白く粟立った波に削られ、白砂が海へ徐々に徐々に吸い込まれていく。削られた砂の下から現れたのは、漆黒のまるで夜の闇のようなぬらりとした地の色。 「この砂は削られ、削られ、やがてあの階段の奧へと吸い込まれていく。飲み込まれた砂は戻らない。削られれば削られるほど、虚無が広がる。そして、最後の一粒の白砂までも飲み込んだその後、最後に君を飲み込む」 「私を?」  私は今もぽっかりと空いたままの海の穴を、その奥へと伸びる階段を見つめたまま尋ねた。 「あの階段の下には、なにがあるの」  ざざん、ざざん、静かな波の音の中、彼が私の顔を見つめる。白々とした月光の下でゆらり、と彼は首を振った。 「なにも。あそこにはなにもない。誰もいない。広がるのはこの白砂の下に見えるのと同じ、虚無の闇。どこまでも続く孤独の世界」  がらんとした乾いた声で彼が答える。その声に私は思わず笑みを漏らす。怪訝そうに彼が首を傾げた。 「どうして笑うの?」 「だって別に怖くはないから。あの階段の下へ吸い込まれたとしてもそれだけ。いる場所が変わるだけ。私は変われない。人を写すばかりの私なだけ」  波の音がざざん、と私の耳をなぞる。今も砂を削り続ける波を見下ろし、私は囁いた。 「今だってずっと私は寂しい。誰とも違っていて誰とも分かり合えない。それは周りに人がいないのと同じ。あそこに飲まれようと飲まれまいと、一緒」  吐き出した声に返る声はない。反応を期待していたわけではないけれど、なにも言われないことに痛みを覚え、ゆるゆると彼の方へと視線を投げた私に、唐突に彼が問う。 「寂しいって思う心はどうして生まれるのか、知ってる?」  彼が細い手を伸ばし、胸の下まで垂れていた私の髪の先にそっと触れた。 「ひとりでいいと思っているくせに、他者に焦がれてしまっているからだよ」
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