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第一章 増岡隆二
気が付くとオフィスに残っているのは増岡隆二と泉原沙弥の二人だけだった。
出版社に勤めていながら文章力の無い増岡には、二年前に初めて泉原沙弥を見た時のことをなんと表現していいか分からない。おそらく下衆な男が女性を好色の眼で見る反応だったのだろうと思われる。それまで増岡には、そうした目で女性を見る習慣がなかった。増岡は自他ともに認める真面目で誠実な男なのだ。
泉原沙弥と出会ったことは、そんな増岡に突然の変貌を引き起こした。美しいとか、色っぽいとか、女性を装飾する言葉は数あれど、戸惑うばかりでその思いに収拾がつかない。出てきたのは平凡に「なんて綺麗な人なんだろう」というくらいである。
二七歳の泉原沙弥はいつも清楚で、隙が無く身だしなみがきちっとしている。いつもシュッとしたレディス・スーツを着て、肩までの髪は綺麗に整えられている。ナチュラルメイクより少し鮮やかな化粧をほどこした顔は目鼻立ちがクッキリして、決してキツイ感じではなく、包み込まれてしまいそうな美しさだ。
泉原沙弥は二年前この会社に中途採用で入社してきた。専務の向井満が他所から引き抜いてきたともいわれているが、実は向井専務の姪子であるという噂もある。誰も表立って口にはしない。専務の姪だということが知れると仕事上甘い扱いになることを避ける為、他の者には秘密にしているというのだ。だが本人には甘えた様子など微塵も無く、真剣に仕事をこなす優秀な女性という印象である。
増岡は今、泉原沙弥と二人で新規に取り掛かっている保健体育の教科書の編集作業に追われている。各項目ごとの本文中に挿入する画像やグラフの大きさやレイアウトを決めたり、各項目のページ数の割り振りや表紙の装丁など、やることは山ほどある。
増岡が勤めている学育出版株式会社は都内の神保町にある。小学校、中学校、高校の学校用教科書を製作して販売することが主な事業だ。これまで国語・算数・理科・社会など、各教科でほぼ四年おきに行われる文部科学省の検定に合格し、その教科書は多くの学校に採用されている。
五四歳の増岡は課長職で泉原沙弥は平社員なので、役職からすると増岡の方が上司に当たるのだが、保健体育という教科を担当するのは増岡にとって初めての為、泉原沙弥とも上下なく対等な立場で協力しようと話し合っている。
増岡は長年国語や算数を担当していたのだが、この度今まで会社で手を付けていなかった保健体育を製作することになり、責任者として任命されたのだ。その時一緒に作るスタッフの人選において、医療系の国立大学を出ていることと、前職が看護師で産婦人科に勤務していたという経歴により泉原沙弥が選ばれた。
協力スタッフが泉原沙弥だと決まった時のことは未だに忘れられない。それまでの人生にはなかった精神の動揺を感じた。
製作している保健体育の教科書は、来年四月に文科省で行われる検定に間に合わせなければならない。作業は急ピッチで進められており、連日残業が続いている。
仕事熱心な泉原沙弥は、毎日当然の様に残って作業を続けている。仕事帰りに飲みに行くこともなく、残業をしない日は定時に仕事を切り上げるとタイムカードを押してサッとオフィスを出る。そこはかとなく品の良さと教養を感じさせ、また常に冷静で真面目に仕事に取り組んでいる。
彼女は勤勉で真面目な女性なのだと思う。ただ、少し鮮やか過ぎるメイクをしてセンスの良い洋服を着ている姿を見ると、ただ仕事が出来るという他に、激しく魅かれる気持ちが起きてしまう。どうにも増岡は泉原沙弥の佇まいに、ふと真面目で勤勉というのとはそぐわないギャップを感じてしまうのだ。
「ここの画像はどちらにしましょうか課長」
と泉原沙弥が教科書に載せる柔軟体操の図解イラストをモニターに映して増岡に見せる。
それは「長座位体前屈」という両脚を伸ばして座り、前屈みにつま先まで手を伸ばす体操で、左のイラストでは座っている男子の背中を男子が押しており、右のイラストでは座った男子の背中を女子が押している。
泉原沙弥は微笑みながら「私は男子同士でやってるよりも、女子が男子の背中を押してる絵の方が良いと思います」という。
「そりゃまたどうしてかな?」と聞くと「今は何をするにも男女がフラットに扱われるべきですから、仲良く一緒にという感じが良いと思います」
「でもこれだと男女が仲良くすることを奨励してる様な印象にならないかなぁ」
「それなら尚更ですよ。今はジェンダーフリーで同性間の恋愛が珍しくない風潮ですけれど、男の子同士で身体に触れ合っているというのは世間的にはまだまだ好ましく無いのではないでしょうか」
「そこまで深読みするかな」
「はい、私はそう思います。同性の恋愛を思わせるくらいなら、異性間の恋愛を奨励する方が正しいのではないでしょうか」
「うん、まぁねぇ」
泉原沙弥の明確でテキパキとした物言いには、増岡が凌駕されてしまう程説得力がある。
「課長、私もまだまだ古い人間なのかもしれませんけれど、やっぱり恋愛は男女間の方が素敵だと思っています」
と髪を揺らして笑った顔が眩しく、それは彼女が使っている化粧水か何かの香りなのか、眼に見えないフェロモンが飛散して増岡の顔が覆われていく様だった。
製作している保健体育の教科書の本文の執筆は、平明福祉大学の伊藤教授という人に依頼している。平明福祉大学は増岡の妻である則子が通っていた大学で、もう三十年近く前のことだがゼミで伊藤教授に指導を受けていた。大学を卒業後則子は増岡と同じこの会社に入社したのだが、結婚して子供が出来たのを機に退職した。
伊藤教授は則子が在学していた頃まだ准教授だったのだが、則子が卒業した後に教育方法に関する著作を出版し、今ではそれが評判になって地方の大学から講演を頼まれる程になっている。現在七十歳の伊藤教授に、かつての教え子である則子を介して執筆を依頼したのだ。
だが今、伊藤教授と編集部との間に意見の齟齬ができてしまい、作業が難航している。というのは保健体育で一番デリケートな箇所である性教育に関するページについてである。
伊藤教授があまりに切り込み過ぎた記述をしてきたので、増岡が留意したところ教授がいうには、その箇所については前もって泉原沙弥に提案したところ、了解との返事があったのでそのまま書いたというのだ。
ところがその件に関して増岡には確認が取れていなかった。つまり泉原沙弥は増岡に確認せずに独断で返答してしまったということなのだ。
教授は小学四年生の少年少女について、ただ身体に変化が訪れる……という間接的な表現ではなく、おしべとめしべを例に出して、妊娠の仕組みを示唆する表現をした。
教授の考えでは「今時は小学四年生にもなればネットやSNS等で情報を得るツールがたくさんあるのだから、我々が思っているよりもずっと先を行って知識を得ている。それは悪戯に興味を助長するだけで、間違った方向へ導いてしまう傾向が強い。だから性への正しい認識を早い時期から示しておくべきではないか」という考えであり、それに泉原沙弥も同意したのだ。
しかし小学四年生で何処までの記述が必要なのかは、文部科学省のガイドラインに沿って考えなければならない。文科省の基準から考えれば小学四年生の教科書には、まだ精子と卵子が受精するという仕組みまでは書かないというのが通例なのだ。男子と女子の各々に精通と月経が訪れるという記述のみに留めておくべきなのである。
この件については伊藤教授から、泉原沙弥と見解を一致してから改めて連絡してくるように、と言われてしまった。
泉原沙弥は仕事が出来る。なんでも自分で判断する能力はあるし、増岡も信頼して任せられると思っていた。そんな高学歴で切れ者な彼女に引け目さえも感じていたのだが、今回ばかりは独断で誤った判断をしたといわざるを得ない。
今まで一度も彼女に否定的な物言いをしたことはなかったのだが、しっかり話をしなければならない。今なら他に社員もいないので、いい頃合いだと思い切り出した。
「いいですか泉原さん。僕たちがしていることは仕事なんですよ。文科省の検定に合格したとしても、行き過ぎた表現があると教育委員会や学校に採用を避けられてしまうんです。学校に売れなければ意味がないんです。僕たちの目的は教科書を売ることなんですから」
と要点を一気に言ってしまう。
「すいません。私の認識が甘かったのだと思います。まだ未熟でした」
意外にも泉原沙弥はさっと頭を下げて、改まった口調でそう言った。増岡の前で泉原沙弥の顔を隠して艶のある黒髪が揺れている。増岡にはまるで自分が悪いことをした様な罪悪感が沸いてくる。
「いいんですよ。僕がいいすぎました。ごめんなさい。あまり気にしないで下さい。さ、切り替えて頑張りましょうよ」
教科書の完成にはまだ先が長い。今後も気持ちをひとつにして作業を続けていかなければならないのだ、と考えて優しい言葉を重ねる。
「これからも泉原さんの力が必要なんですから、僕を助けて下さいよ。これからもお願いしますよ」
泉原沙弥は「はい」と言って顔を上げると、目元に手を当てて涙を拭いた。そして「ありがとうございます」と微笑んで見せた顔に、胸の奥がさっと熱くなるのを感じる。
増岡が今回の件とこれからの方針について話をしてしまうと、泉原沙弥は元気を取り戻し、またいつもの自己主張な物言いを始めるのだった。
「今回のことはすみません課長。でもやっぱり私は個人的には日本では性教育は遅れていると思うんです」
まだそんなことをいうのかと思いながらも、顔を見るとやはり美しいと思ってしまい、話を聞いてしまう。
「私は、もっと日本でもセックスに対してオープンにするべきだと思うんです」
泉原沙弥が前職で勤めていた産婦人科医は、不妊治療を専門にした医院だったのだという。このテーマに熱くなるのはそのせいなのかもしれない。
「日本では性的なことを口にするのははしたないという風潮があって、夫婦の間でもあまり話題にしないじゃないですか。そのことで親の世代が見方を変えないから、若い世代の意識も欲望的な方向へ暴走してしまうのではないでしょうか。つまり、大人が性的なことへの確固たる価値観を若者に示していく必要があると思うんです」
「あ、ああ、まぁ分かるよ」
「子供たちにとって、エッチなことではなくて、男女の愛情から起こる崇高な物だという印象にすればいいと思うんです。その為にはもっと親子にも性に関する会話があるべきです」
「ああ、まぁねぇ」
「日本人の夫婦がセックスをしない割合は世界でダントツ一位だといわれています。夫婦の間のセックスは死ぬまであるべきです。スキンシップだけでも。性的な接触は生涯あるべきだと思うんです。私の言っていることはおかしいでしょうか」
こうなると増岡はたじたじになってしまい、彼女がまくしたてる話に合の手を入れて見とれるだけになってしまう。美しい彼女の顔から発する生命力に魅かれる気持ちもある。普段の清楚なイメージからは意外な程の物言いと、当然の様に口にする「セックス」といった言葉にドギマギした感覚も覚える。しかし増岡は役職も上で歳も親子ほど年長なのだから、少しは反論しなければならない。
「いや、僕はおかしいとは思わないけど、日本ではあまりそうしたことを家庭で口にしないのが習慣だからね」
「そんな課長、そもそもセックスがなければ誰もこの世に誕生しないのだから、話題にするのをタブーにすること自体おかしいですよ」
「けどね泉原さん、年齢と共にそうした能力も衰えていくもんだし、日本人はむしろそれを美徳と捉えてるんじゃないかな」
「課長のご家庭でもそうですか?」
急にそんな生々しいことを振られて動揺してしまう。
「僕の家は、こないだ娘が嫁に行ってしまって、また女房と二人きりになったんだけど、今更またそういうのって不潔というか」
「そんな、不潔だなんて。夫婦のセックスは二人が生きてる限りあるべきです」
そんなことを恥じらいもなく口にする泉原沙弥は、何か特別に性に対する執着があるのではないかと勘繰ってしまうほどだ。
「というか僕の場合はね、恥ずかしながらもう二十年くらいそういったことがないし、もう不能者といってもいいくらいなので」
という増岡の言葉に泉原沙弥はきょとんとした顔をする。
「そんな、何か重い疾患などをお持ちなんですか?」
「いや、特に何か原因があるという訳でもないんだけど、もう歳だからね」
と侘しく笑う増岡の声が聞こえなかった様に泉原沙弥はたたみかける。
「それならもしよろしければ私がお力になります。私、前職ではその治療の専門でしたから」
「専門って?」
「不妊治療を専門に看ていた産婦人科の医院で、男性の勃起不全の施術をしていたんです」
「えっ」
「私は治療にいらした方から精液を採取する施術をしていたんですけど、中には採取の必要が無いのに勃起不全の施術だけを求めてくる患者さんがいまして、お断りしてもしつこく頼まれて、それが問題になって辞めざるを得なかったんです」
「そんな、泉原さんがそんなお仕事されてたなんて、驚きですね」
実は彼女が前職でそうした仕事をしていたらしいということを社内に流れた噂で聞いていたのだが、初めて知ったフリをした。
「何もいやらしいことではなくて、医学的な施術なんです。恥ずかしがることはないんです。私は何十人も男性の治療に当たってきましたから。七十歳の方でもしっかり勃起をして射精することが出来たんですよ」
「七十歳でも?」
「男性でも女性でも、生きている限りセックスが出来た方がいいと思います。ましてや夫婦なんですから。奥様だってその方が幸せだと思いますよ。ずっとご主人に愛されてることが確認出来るんですから」
そんな泉原沙弥の勢いにたじたじになってしまう。
「今ここで出来ますから、課長すいませんあちらのソファにいらして頂けますか」
といって席を立つと増岡を促して、奥にある応接スペースへと歩いて行く。
今ここで? そんなに簡単な物なのかと思いながら、パーティションで仕切られたスペースへやってくる。ローテーブルを挟んで両側に長椅子のソファと一人掛けのソファが二つならんで置かれている。
「下ばきをお脱ぎになって、お尻をこちらへ向けてソファに乗って頂けますか」
「下ばき?」
「はい」
泉原沙弥は応接セットの中央にあるローテーブルを両手で持ってずらしている。
下ばきというのはズボンを脱げということなのだろうが、さすがに躊躇する。
既に泉原沙弥は腕まくりをして至極当然の様に準備している。
観念して増岡もベルトを外してズボンをずり下げる。
「あ、邪魔になりますので全部脱いじゃって下さいね」
「パンツもですか」
「はい」
辺りを見回す。時計は夜の九時半を差している。この時間になれば誰も社へ戻ってくる心配はないだろうと思う。言われたとおり靴を脱ぎ、応接セットのエリアに敷かれた絨毯の上でズボンを脱ぎ、パンツを降ろして股間を隠した。
目の前でくたびれた中年男が下半身裸になっているというのに、泉原沙弥は至極当然の様に作業を進めている態度である。
「膝立ちでソファに乗って背もたれに両手をついて下さい」
仕方なく股間を隠していた手を放して長椅子のソファに膝立ちで乗り、背もたれに両手をつく。太腿の間に情けない陰茎がぶらりと垂れ下がった。
泉原沙弥はまるでそんな物は視界に入っていないかの様に事務的に話す。
「出来るだけ脚を開いて、お尻をこちらへ突き出す様な感じになれますか」
頭がカッとなり、自分は何をしているのだろうという考えが過る。
「それでは始めますので、リラックスなさって下さいね」
泉原沙弥は増岡の尻の後ろに座ると、いつ持ってきたのかウェットティッシュで拭き始めた。左右の太腿の外側から始まり、内側の付け根の周辺をゴシゴシと拭いていく。ぶら下がっている陰茎と睾丸の周囲を拭くと今度は陰茎を手に持ち、本体を拭く。性的な刺激というよりはただ単に拭いているという感じだ。あまりにも事務的にするので増岡の途惑いは冷める。本当にこれは只の医学的な施術であり、普通に肩こりのマッサージを受ける様な物なのかもしれない。
「恥ずかしがらないで下さい。仕事でいつも患者さんにしてたことですから」
とまるで医師にいわれている様な命令口調で言うので、こちらも素直に従わなければという意識になってくる。
丹念に拭いている冷たい感覚がしばらく続き、作業を終えた。
「では始めますね、リラックスなさっていて下さい」というので「はい」と返事をする。
前を向いてなるべく身体に力が入らない様に気を付けていると、泉原沙弥は両手で太腿を下から尻へ向かって摩り上げる様に上下させていく。
暫く続いたと思うと両手を腿の内側から脚の付け根の部分へ差し入れては手のひらと甲を使って外から中へ、また外へと抜き差しする様に擦っていく。
「この辺り、太ももの付け根のVラインのことを鼠径部っていうんですけど、ここに体の中に張り巡らされてるリンパ管が集まるリンパ節があるんです。リンパ管にはリンパ液という体内の老廃物を集めるための液体が流れていて、リンパ液に集められた老廃物はリンパ節でろ過され、体外へ排出されます。リンパの流れが悪くなると老廃物が排出されなくなり、水分もたまってしまうので、いろんな体の不調の原因になるんです。鼠径部のリンパの流れに沿ってリンパ液を押し流します。これでリンパ節周辺の流れが良くなって、全身のリンパの循環がスムーズになるんです。鼠径部には精力を増強する為の五枢(ごすう)気衝(きしょう)陰廉(いんれん)などの精力が強くなるツボがたくさんあって、血行も良くなって勃起力が向上するんです」
と専門的な説明をしながら泉原沙弥は両手を後ろから前へ、また後ろへ引いて腿の付け根を摩っていく。
「リンパ、リンパねぇ……」と増岡はつぶやきながらされるがままになっている。
「鼠径部は下半身から上半身へつながるリンパ管がたくさん通過しているんです。私たちの様にイスに座っている時間が長い仕事をしてると、鼠径部の筋肉が動かないのでリンパの流れが滞ってしまいがちなんです」
今度は手の平を尖らせてドリルのように裏返したりグリグリさせながら、揉みほぐしてくる。
「ペニスが勃起するには、ペニス周辺の動脈が広がり、海綿体組織に一気に血液が流れ込む必要があります。だからペニス周辺の血流が悪いと、勃起に必要な血液が集まりにくくなって、勃起不全になってしまうんです」
普通にマッサージをされている心地良さがあり、心なしか身体が軽くなった様な気がしてきた。
「すみません課長、今度は片脚をしゃがんでるみたいにお腹の方にたたんで貰っていいですか?」
「あ、はい」
と四つん這い状態から右脚だけを折り曲げてしゃがんでいる状態にする。
どうするんだろうと思っていると、右脚の浮いている太ももの下に手を入れ、睾丸の脇をグリグリと集中的に揉み込んでくる。確かに陰茎に血液が集まってくる感じがするが、やはりまだ力なく垂れ下がったままだ。
右脚を戻して左脚も同じ様に繰り返す。鼠径部のマッサージを終えると今度は陰茎の後ろにある睾丸を両手でそれぞれに持ち、やわやわと揉みほぐす様に握ったり開いたりする。その次は少し強く握りしめて下へ引っ張ったり、上へ持ち上げたり。
「これは男性ホルモンを活性化させるマッサージです」
気持ちの良い感触に思わず眼を閉じて溜め息が出る。次に両手で陰茎を包む様に持ち、先へ向けて絞ったり、擦ったりする。だが陰茎はまったく反応をみせる様子はない。こんなにして貰っているのに期待に応えられないという、申し訳ない感情が芽生えてくる。
「では、何か性的なイメージを膨らませてみて貰っていいですか」
性的なイメージと言われてもどうしようと思い、誰もいないオフィスに向けていた顔を後に振り向けてみた。そこには増岡の尻の間にぶら下がる陰茎を一心に揉んでいる泉原沙弥の美しい顔があった。
途端に全身の熱が下半身に集まっていく痺れを感じると、揉まれている陰茎の形が頭にくっきりと浮かんでくる。性的なイメージなど必要なかった。美しい泉原沙弥に素手で陰茎を触られているという。その事実が認識された瞬間にスイッチが入った。
「あ、海綿体が充血してきたようです」
「うっ……」
そうなった時、増岡は我に返った様に自分のしているこの状態を客観的に見た。
「しかしこれは、これはまずいだろう」
「機能回復の治療ですから大丈夫ですよ」
増岡の途惑いを気にも留めない様に泉原沙弥は施術を続けていく。
「あっ……」
「お世話になってるからご恩返しがしたいんです。それにどちらかというと私は課長の奥様の為にという気持ちですから」
さわさわと十本の指が陰茎を包む様になぞっていく。増岡の脳裏に電流が走り。白目を剥いてのけ反った。
「はぁ~」と声を上げてしまう。
「陰茎が膨張してきたら血管の茎目を読んで、それに沿ってなぞる様に摩っていくと血流が促進されて、より一層勃起を促すことが出来るんです」
良く手入れされた美しい爪の先で、陰茎をつつーと引っかく様になぞっていく。全身に電流の様に刺激が走る。
「こうなると陰茎小帯と亀頭の接合部分に神経が集中していますので、感覚が鋭くなっています。だからそこに刺激を与えていくと」
指先でピンポイントにツンツンとそこを突かれると、あたかもそれが何かのスイッチの様に全身が痙攣する。驚くべきことに陰茎ははち切れんばかりに膨らみきって、亀頭の重さを感じるまでになった。
「で、でも……さん、まずいだろ、いず……さん」
あまりのことに言葉が上ずってしまい、泉原沙弥の名前さえ上手くいうことができない。
「よかった、これで大丈夫ですよ課長、まだまだ男性機能は充分に残されています」
「しかし、いや、コレは……しかし、まずいだろう、コレは、まずいだろ……」
といいつつも陰茎を握られたままで、身体中が痙攣で小刻みに震えているので逃れることは出来ない。
「課長、良かったですね、完全に回復しましたよ。こんなに力強く。これで勃起の改善は出来ましたから、後は奥様とあっ」
「ヒョえー!」と裏声を発して増岡は盛大に射精した。
「ああ、大変ですね」と泉原沙弥が慌ててティッシュで下から受ける。
オフィスのドアがガチャリと開く音がして足音が近づいてくる。見ると以前に増岡の部下として同じ課で働いていた若手社員の田所正平が、恐ろしい無表情でこの光景を見つめている。
「何やってんですか課長」
これで人生は終わった。こんなところを見られたのではどうにも言い訳のしようがない。
「あ、違うんだこれは、違うんだよ、でもこれは……」
これは治療だなどと説明をしても、他人の眼から見れば淫行以外の何ものでもないだろう。まさかこの歳で職を失うことになろうとは、家のローンがまだあと一年残っているのに。老後の生活は退職金をあてにしようと思っていたのだが、これではきっと懲戒免職になってしまう。
はっと眼を開けるとそこは暗い自宅の寝室だった。増岡は毛布を跳ね除けて起き上がった。隣のベッドで妻の則子が眠っている。
夢を見ていたのだ。股間が冷たい。夢の中で射精したのだ。冷静さを取り戻すと、まだ胸がドキドキしている。全ては夢の中での出来事だったのだと理解できた。良かった。増岡は何もしていないのだ。冷や汗をかきながらほっとするのだった。
隣で寝ている則子に見つからない様にそっとベッドを降りて、暗がりの中、足音をひそめて部屋を出る。
階段を下りて一階の脱衣所へ行き、パンツを脱いでティッシュで拭く。それにしても、もう男性としての元気はすっかり失われていると思っていたのに、自分にもまだこんなに精液が出るのだ。と驚きつつ、パンツは洗濯に出すと則子に見つかってしまうので、ビニール袋に入れてゴミ箱の下の方へねじこんだ。パジャマにも染みがついているのでティッシュでごしごしと拭いてみたが湿り気が取れない。ドライヤーで乾かせばすぐだと思うが、音がして則子が起きてしまうだろう。見た目にはそれ程分からないので、その部分だけは冷たいのを我慢して、パンツを履かないままパジャマを上げる。股間がすーすーとするけれど、そのまま二階に戻る。
寝室に戻り、見ると則子は何事も無い様に眠っている。パンツは明日の朝パジャマから背広に着替える時にタンスからこっそり出して履けばいいのだ、と思いベッドに入る。
そうだ、まさかあの清楚な泉原沙弥があんなことをする訳が無い。近頃の仕事の疲労からあんな夢を見たのだ。教科書の執筆が伊藤教授と揉めて、教授との関係を元の様に修復できるかが心配だし、昨夜泉原沙弥と交わした議論の内容や彼女が前職の産婦人科医で患者の男性から精液を採取するのを手伝っていたという噂話、あれは誰かが創作した作り話かもしれないのだが、それらがない交ぜになって精神状態もおかしくなっていたのだ。それ等のことが巡ってあんな夢になって現れたのだ。
しかしさっき体験した夢精は、この世の物とも思われない快感だった。夢だというのにまるで本当に性器を握られたり擦られたりした感触が今も残っている。何より自分にもまだこんなに性的な能力が残されていたということに驚かされた。
夢の中とはいえやはり導いてくれた泉原沙弥には感謝しなければならないと思う。物凄い射精感で、まさに昇天する感覚だった。毛布にくるまって反芻していると、また股間が熱くなるのを感じるのだった。
そのうちにうとうととし、夜が明けて目覚めると、いつもの様に階下から則子が朝食の用意をする音が聞こえている。そっとベッドを降りてパジャマを脱ぐと、タンスからパンツを出して履いた。
身支度を整えると階段を下り「お早う」と声を掛けてリビングへ入り、目玉焼きが用意されたテーブルに着く。
則子は「はい」と返事をしたまま振り向くでもなくジャーからご飯をよそい、鍋から味噌汁をすくってテーブルへ持ってくる。テレビのニュースを見ながらいつもの様に食べ始める。
遥がいなくなってしまい、二人きりの生活になってから、則子も何だか気が抜けた様になってしまった。
増岡は地方にある中堅の私立大学を出て、都内の神保町にある学育出版株式会社へ就職した。就職して三年目の二五歳の時に三十年のローンを組んでこの家を購入した。その時はまだ交際している女性もいなかったのだが、将来結婚して子供を育てることを見越して、どうせ長いローンを組んで家を買うのなら早くローンを払い始めておいた方がいいと思ったのだ。
家を購入してさぁ次はお嫁さん探し、と思っていたところで四年後に入社してきた則子に眼をつけ、誠実で地道なアプローチを続けて結婚にまで漕ぎ付けたのだった。
思えば平凡だが幸せな日々を過ごしてきたと思う。当たり前の様に出会い、当たり前の結婚をして、娘を育て、嫁に出した。増岡の人生はそんな当たり前のプロセスを踏んでいくことに喜びがあった。
平凡とはいえそれぞれのターニングポイントとなる出来事には、忘れられない思い出がある。結婚式はもちろんのこと、則子と初めて男女の契りを交わした夜のこと。仕事の方でも、決してバリバリのやり手という訳では無かったが、実直で地道な姿勢が認められて係長、課長と昇進してきた。そして遥の誕生と成長、小学校、中学、高校、大学と育っていく節ごとに感じた喜びは何物にも代えがたかった。
そうして大事に育て上げた娘が嫁に行ってしまった。それは寂しいと思うが、でもこれも一般的なことなのだと思う。子供が巣立ち、夫婦が残されるのは当たり前のことなのだ。一般的がいい、一般的であることが何よりだ。
そんな増岡にとって、泉原沙弥との出会いは青天の霹靂だった。増岡は今までに出会った女性を、まだ交際もしていないうちから性的な対象として考えたことなど一度もない。
今まで風俗はおろかアダルトビデオと呼ばれる物でさえ、遠い昔高校時代に悪友の家でこっそり見せられた以外に見たこともない。セックスとは男女が子供を作る為に行う神聖な行為であり、それを自分の遊びや邪な欲望で考えるという思考は無いのだ。
そんな免疫の無い増岡だからこそ、泉原沙弥よって呼び覚まされた激しい欲情をどうしていいか解らず、ただ途惑い持て余していることしか出来ないのだ。
この歳になって性的な衝動が復活してしまうなんて。泉原沙弥は「夫婦のセックスは死ぬまであるべき」というけれど、今もし則子に向って性的なことなど口にしようものなら、汚らわしいと思われてしまうに違いない。則子とはかれこれ二十年くらいは夜の夫婦生活をしていない。歳が五つ離れているので、今年四九歳になる。長年「お母さん」と呼んでいた則子を性的な対象として見ることは全くなくなっている。則子の方もきっともう増岡に遥の父親ということ以外の感情を抱くことは無いだろう。
泉原沙弥の言う様に世間には中高年の夫婦でも性生活がある夫婦もいるというが、うちの場合それは皆無だ。日本の夫婦は往年になるとセックスしないのが一般的なのだ。そもそももし今求められたとしても、もう要求に応えてやれる体力もない……と思っていたのだが、そこだけは予想外だった。まだやれば出来るのだ。
「貴方お茶置きますね」
「おっ」
テレビに視線を向けたまま返事をして、また残りの目玉焼きに眼をやると、則子は流しでフライパンやまな板を洗っている。もう二十年以上も見慣れた後姿に、ふと憐れみの様な物を感じる。
「今日もパートに行くのかい?」
「いえ、今日はちょっと」
と背を向けたまま答える。
「何処かへ行くの?」
「ええ、ちょっと病院に」
「病院? どこか悪いの?」
「ちょっと前から具合が悪くて、この前初めて行ったんですけど、どうも更年期らしくって」
「そうか、どんな症状なんだ?」
増岡は心配になって話を聞く。長年連れ添った夫婦としての愛情は勿論ある。
「顔が火照るとか動悸、息切れとか、そんなよく聞く症状はないんですけど、夜よく眠れないのと。何にも意欲が沸かないし、食欲も無いんです」
「そうかい、きっと遥がいなくなって張り合いがなくなったせいかもしれないね。お医者さんは何ていってるの?」
「はい、なにかホルモンのバランスが悪くなってるとかって、お薬を貰って飲んで、ホルモン治療をしています」
ちょっと驚きはあったが、考えてみれば年齢的にそうなっても不思議はないことだ。いやむしろ極めて平均的で、我が家としては相応しいじゃないか、という思いもある。
「それじゃ弁当屋のパートはもうやめた方がいいんじゃないかな?」
そういうと則子はちょっと不満そうな顔をして「まだそこまで酷くはないと思うんだけど」と言葉を濁した。
来年で家のローンも払い終わるのだし、これまで家計の足しにと頑張ってくれていたパートの仕事を辞めても経済的にはやっていける。増岡の仕事も若い頃はまだ出世することを目指して頑張っていた頃もあるが、きっともう生涯課長職で定年を迎えるのだと思う。定年まで早くもあと六年。二人とも仕事をやめて、家でのんびりと老後を過ごしていく段階に来たのだ。
「じゃ、行ってくるよ」といって家を出る。玄関を出てほんの申し訳程度のアプローチを歩き、アルミ製の門を開いて道へ出る。歩いて七分程のバス亭へ向かう。季節はこれから暑くなる七月の初旬である。ふと振り返って自分の家を見た。郊外の住宅地に建つ、二九年前に新築で買った一軒家。
遥の結婚式が終わって数日が過ぎ、ここで新居へ向けて荷物を積んだトラックが走って行くのを見送ったのは、つい二週間前のことだった。その時一緒に見送っていた則子が不意によろけて、増岡は慌てて腕を持って支えたのだ。
「おいおい、大丈夫かい」
「はい、ちょっと疲れただけですから。大丈夫です」
「これからはまた二人の生活なんだから、しっかりしてくれよ」
あの時は何でもなさそうだったので、増岡は則子の腕を放してさっさと家に入ってしまった。思えばあれは既に更年期障害の症状だったのだろう。
増岡の家がある通りには同じような一軒家がズラリと並んでおり、注意して見ないとどれが自分の家なのか区別がつかない。遠くから見ればちっぽけだが、自分の人生はこの家を買う為にあったのかなと思う。
バスで最寄の東久留米駅まで行く。そこから西武池袋線の各駅停車に乗り、隣のひばりケ丘駅で急行に乗換える。いつもの様に凄い混み具合で揉みくちゃにされながら、苦労して文庫本を読む。
返す返すも昨夜の夢には驚いた。自分にもまだあんなに勢いよく射精する力が残っていたとは。まるで小便小僧みたいに迸り出た。 そういえば、最近は夕食のオカズに鰻やニンニク等、則子は勢力を増強する物ばかりを出している気がする。特に遥が出て行ってからかもしれない「僕に今更こんなに精力つけさてどうするんだい。まだそんなに働かせたいのかい」と冗談をいった覚えがある。精力が戻ってきたのはそのことが影響してるのだろうか。
そんな考えを巡らせているうちに、読書が進まないまま池袋駅に到着した。有楽町線に乗り換えて走り始めても、まだ昨夜の夢の再生が繰り返されている。出来るものならまたあの快感を体験してみたいものだと思う。
「課長、お早うございます」
ハッとして声を掛けられた方を見ると、揉みくちゃになっている人の間から、以前増岡の担当部署で部下だった田所正平が笑顔を覗かせている。
あっと思った。昨夜泉原沙弥と残業で残ったオフィスで、あられもない姿をしているところをこの男に見られてしまったのだ。という夢を見たのだ。夢の中の出来事だったというのに、思わず動悸が激しくなる。
「保健体育の方はどうですか? 必要とあらば手伝いますんで言って下さいよ」
田所は人懐っこい性格で、何年か前に偶然この電車で一緒になってから、増岡が乗っている車両の位置を覚えて乗ってくるのか、たまに一緒になることがある。増岡の自宅に招いたことのある唯一の部下で、その時は則子が用意してくれた料理を美味い美味いと平らげて則子を喜ばせた。
以前は他の教科を増岡と一緒に担当していたのだが、増岡が新しく保健体育の担当になったので部署違いになってしまった。教科書の製作という固い職業についている割には軽い感じの男で、でも増岡は自分にはない無いそんな田所の一面に楽しさも感じていた。
田所の話す世間話に適当に相槌を打っていると市ヶ谷駅に着き、さらに都営新宿線に乗り換えて二駅目の神保町で降り、駅を出る。歩いて七分くらいで学育出版株式会社の入ったビルに着いた。
ビルの入口を入ってエレベーターに乗り五階まで上がる。エレベーターを降りると正面の入口を入り、脇にあるタイムカードを押して自分のデスクへと向かう。
「課長お早うございます」
いつもの様に先に来て仕事の用意を整えていた泉原沙弥が挨拶してくる。
「おはよう!」
今日もきっちりと隙なく身なりとメイクを整えた、眼が覚める様に美しい笑顔だった。
やっぱり綺麗だと思う、と同時に激しい羞恥心に襲われる。こんな綺麗な人と僕は昨夜あんなことを。夢だったのに気恥ずかしさを感じてしまう。この人にあんなことをされたのだと思うと、じろじろ見てしまう。
「どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもないんだ」
と慌てて取り繕った。
そうだ、僕はしっかりしなければいけない。増岡は自分を律した。昨夜二人で残って残業していたのは事実だが、それから伊藤教授のことと保健体育の教科書にどこまで表現するのかという議論に始まり、日本人夫婦のセックス観に対する議論をしたことも事実だ。だがその後の勃起不全の施術に至っては自分で妄想した夢の中の出来事なのだ。現実とは関係ないのだ。
泉原沙弥は昨夜増岡に怒られて自信を失くしていた様子は微塵もなく、すっかり意気揚々と仕事の出来る女に戻っている。
「課長、昨日選んでおいた第三章のグラフとイラストのレイアウトをしてみましたのでお願いします」
「はい、ありがとう」
といってPCに泉原沙弥から転送されたページデータを表示してみる。いつもながら仕事が早く、増岡が頼んだことに瞬時に反応し、翌日には提案してくる。
画面に見入っているとふわっと甘い香りがする。いつの間にか泉原沙弥が横にきて一緒にモニターを除き込んでいる。
「ちょっとここの色味が実物とは違って見えると思うんですけど、本当はもう少しピンク掛かっていると思います」
その香り、体温、息遣いが伝わってくると増岡の心臓は幾ばくかの異常を生じる振動を起こすのだった。
「う、うん……そうだね」
「それからグラフの数字は今フォント十一で表示されてるんですけど、実際印刷したら十五くらいの大きさがいいかもしれません」
「あ、ああ……」
「どうですか課長」
少しぼーっとしてしまい、増岡が曖昧な受け答えをするので泉原沙弥は少し苛立った様子である。
「う、うん。よく出来てるよ、昨日の今日でよくここまで作ったね」
「いえとんでもないです。四章の方のレイアウトも進めていきますね」
「はい、お願いします」
泉原沙弥が不妊治療を専門に扱う婦人科医に勤めていたというのは事実だが、精液の採取や勃起不全の施術をしていたというのは社員たちの勝手な噂なのかもしれない。そうだ、例えそんな技術を持っていたからといって、こんなに綺麗な人があんな夢の中の様なことをする訳がないのだ。
しかし夢だったとはいえ、どうしても意識してしまう。特に彼女の手先に眼がいってしまう。細くて白い指。カチャカチャとキーボードを叩く指が昨夜の夢の中では増岡の陰茎に絡みつき、弄ばれていたのだ。自分の中にまだそんな欲望があったことに気付かされた。驚きともトキメキともつかない感情が渦巻いている。
「課長、今日お昼ご一緒にどうですか、もし宜しければ今日お弁当作ってきたんですけど、ちょっと多く作り過ぎちゃったものですから」
「あ、そうなの? どうもありがとう」
昨夜のこともあって気を遣ったのかもしれないが、泉原沙弥は仕事が出来るだけでなく、そんな気遣いの出来る女性であった。
「唐揚げにしようかとも思ったんですけど、課長はお魚の方がいいかと思って」
「えっ、でもそれじゃ」
「あ、いえいえそんな最初から課長に召し上がって頂こうと思ってた訳じゃないんですけどね、本当に」
と誤魔化す様な笑顔に言い知れぬ嬉しさを感じる。
「ほら私、お父さんがいなかったじゃないですか、ですからこんな風に自分の作った物を父親に食べて貰うのってどんな感じかなぁって」
「確かに、もしお父さんがいたとしたら僕くらいの年代だろうね」
「あ、すみませんそんなつもりじゃ」
「いいんだよ。でもまさか泉原さんのお父さんがこんな冴えない男じゃ申し訳ないけど」
「そんなとんでもないです」
泉原沙弥に差し出された割り箸を使ってサバの味噌煮を口に入れる。
「あーとっても美味しいですよ」
「あ、ありがとうございます」
泉原沙弥は幼い頃に両親が離婚して母子家庭だったそうだから、増岡のことを父親の様な存在と思ってくれているのかもしれない。 また仕事の上で万年課長の増岡を先輩として立ててくれるのも嬉しかった。だがそんな彼女に対して増岡がどういう思いを抱いているのかを、彼女は知る由もないだろう。
「泉原さんはきっと良い奥さんになれますよ」
とは言ってみた物の、彼女が他の誰かの物になってしまうと考えると、なにか物凄く残酷な仕打ちをされる様な気持ちになってくる。初めて感じるその強い感情は嫉妬という物なのだろうと思う。
「そんな日がくるといいんですけどね」
と困った様なはにかんだ様な微笑みを浮かべる。増岡は思ってしまう、本当にあの夢の中の様なことを実際にして貰ったらどんななんだろう。あの夢みたいに気持ちいいのだろうか。いや現実ならもっと凄いに違いない。こんなに美しい顔をしながら男性に狂喜をもたらす特殊技術を会得しているのだとしたら。
気が付くと股間に熱がこもり、ズボンの中で力強く反発している。自分の生命が息を吹き返した様に感じながら、恥じた。
揉めてしまっている平明福祉大学の伊藤教授との関係を修復して教科書の執筆を進めて貰う為に、泉原沙弥と話し合って統一した意向を伝え、了承を得なければならない。
増岡も保健体育の教科書を作るのは初めての作業であり、またこの分野においては泉原沙弥の方が知識や経験値もあるということから、上司と部下という関係ではなく、二人で対等な共同作業であるというスタンスで作業を進めてきた。だかここではあえて年長である増岡が上司という建前にして、上司が部下の不備を詫びる。という体裁にした方が話が通るし先方としても納得しやすいだろうという考えから、そうした話の持って行き方で伊藤教授に電話することになった。
泉原沙弥の前で伊藤教授に電話をして、こちらの意志の疎通が出来ていなかったことを詫びると共に、打ち合わせをさせて頂きたい旨を伝え、後日教授の自宅に伺う約束をすることが出来た。
トイレへ行って廊下をオフィスへ戻ってくる時、泉原沙弥と田所正平が立ち話をしているところへ出くわした。二人の話している内容が漏れ聞こえてくる。
「同期は野郎ばっかりで花が無いんですよ。泉原さん来てくれたら凄い盛り上がるんですけど」
「へぇ~いつですか」
「えっと、来週の水曜か木曜辺りで残業しない日とかありますかね」
どうも田所が同期入社たちの飲み会に泉原沙弥を誘っている様子である。田所正平は三十代前半で、泉原沙弥は二十代後半で二人とも独身。丁度いい年頃の二人が仲良くなれば付き合うことになってしまうかもしれない。
何事もなかった様に二人の脇を通り過ぎながら、胸が激しくざわついている。自分は一体何をざわついているというのだ。まさか五四歳の中年真っ只中にいて、あんなにも若く美しい二十代の女性に相手にして貰えるとでも思っているのか。それにもし万が一、泉原沙弥の方にもそうした気持ちがあるのだとしても、自分には長年連れ添い苦労を共にしてきた則子という立派な妻がいるではないか。
自分の中に渦巻いている邪な欲望があることに非常な恥を感じる。自分があるべき態度としては、もし二人がそうなったとしたら、心から祝福してやること以外にはない。
でもふと思う。泉原沙弥が今は増岡のことを父親の様に慕ってくれているのだとしても、事実親子ではないのだから、やがて年上の上司として、あるいは男性としても慕ってくれる様になるのではないか。
気のせいか時折り増岡を見て浮かべる泉原沙弥の微笑みには、ただ父親としてとか、上司としてという他に異性としての眼差しも少なからず含まれているのではないのか。果てしなく希望的観測の様な気もするが、もし増岡の方から声を掛けて誘えば、すぐに手に入りそうな気もしてしまうのだ。でもまさか自分にそんな度胸がある訳はないのだが。
田所正平という男は、増岡の部下でいた頃はよく働き、上司へのおべんちゃらも上手く、良い気分で仕事の出来る使いやすい部下だった。今は増岡が元担当していた部署において、新規の社会科の教科書で新しい企画を提案し、ばりばり頑張っている。
増岡の下にいた頃は頼もしい部下だったが、部署が変わって傍から見ていると、増岡がいなくなったことで一層伸び伸びと仕事をしている様であり、少し忌々しい感情も抱いている。
もし田所が提出した企画で社会科の教科書が製作されることになれば、田所は係長へ昇進するかもしれない。増岡が係長になったのは三六歳の時だった。それに比べればずっと早い昇進になる。増岡は田所が自分より早く昇進することに何か面白くない感情を覚えている。一方ではかつての部下が昇進するのを喜ばないなんて何と器の小さい人間なのだろうと思う。
その日は定時に作業を切り上げて家に帰った。鍵を開けて玄関に上がり「ただいま~」と声を掛けるとリビングから「おかえりなさい」と則子が答える。何か暗いな、と思いながらいつもの様に背広と鞄を持ったままリビングへ入ると、則子がソファに座ってテレビを見ている。その姿を見て驚いた。
一瞬知らない人がそこにいるのかと思った。普段の生活からはあるまじき鮮やかな化粧をしている。今までに見たこともないフリフリのついたネグリジェを着て、髪を降ろしている。
「ど、どうしたんだ?」
上ずった声で口を突いて出たのはその言葉だった。
「今日はちょっとロマンチックな映画を借りて来たもんですから、気分だけでも出そうかと思って」
頭がどうかしてしまったのか、と思い画面を見ると有名な俳優のクリント・イーストウッドと、アカデミー賞をたくさん取っている女優さんの、中年男女のメロドラマの映画が映しだされている。
「良かったら一緒にみませんか」という則子の座っている長椅子の横に空いたスペースが、さぁいらっしゃいとばかりに大きく空いて見えた。
何か頭がくらっとして、脚ががくがくと震えだすのを覚え、これも更年期障害の症状なのか、という考えが過る。また遥がいなくなったショックで精神のバランスまで崩してしまったのかもしれない。と思うと言い知れぬ恐ろしさに見舞われてしまうのだった。
「そうかい、ちょっと先に風呂に入ってくるから」
何とかそう言ってリビングを出て、脱衣所へと入っていく。
風呂から上がって出てくると、テレビは消えており、則子は化粧を落し、普通のパジャマに着替えていた。
「今食事の用意しますから」
何か怒った様な、不機嫌そうな口調でそういうと、フライパンに出来ているレバニラ炒めをじゅうじゅうと温め直し始める。
なるべく何気なさを装って新聞を開きながら、普通に話しかけようと思った。
「どうだい具合は? 立ちくらみとかするの?」
「うん、普通にしてれば大丈夫なんだけど」
「そうか、でもそれはきっと誰にでもあることだから、養生して元気になってくれよな。これから二人でまだずっと過ごすんだから」
「はい」則子はちょっと嬉しそうに微笑んだ。
「遥はちゃんとやってるんでしょうかね」
「大丈夫だよ。便りがないのが無事な証拠ってこともあるじゃないか」
「そうですね」
「僕たちの子供なんだし、真面目に波風が立たない様に暮らしてるよきっと」
そうだ、我々は真面目で品行方正な、絵に描いた様なA型夫婦で、娘の遥もA型で、娘の夫になった男もA型なのだ。また自分たちの後を継ぐ、型通りの血統書付きA型夫婦が誕生したのだ。
会社では編集作業の煩雑さの為に、また連日の残業が続いている。普段は寄り道もせずに帰る泉原沙弥に、たまには息抜きをしようと誘ってみると「ええ行きましょう」と快く応じてくれた。
年に何回かは他の社員と利用する駅前の居酒屋へ入ると、店員が案内したのは二人だけで向き合って座る小さな部屋だった。以前に来た時は三人以上で来ていたので、こんな小部屋があるとは知らなかった。
ちょっとドギマギしつつもごく普通の様に「ああ、落ち着いていい席じゃないか」と中に入る。取りあえず生ビールを二つ注文して、店員が引き戸を閉めていくと二人きりになった。
「泉原さんお疲れ様です。今日は慰労会ということで、これからも宜しくお願いしますね」「はい、こちらこそ」とまずは乾杯して、今までの仕事の流れの反省点と、これからの作業の展望について相談していく。
酒がすすむと泉原沙弥の顔がほんのりピンク掛かってくる。いつもの美しい大人の女から、表情が緩んでまだ若いあどけなさを感じさせる可愛らしさが顔を出した。
料理を食べてお腹が満たされ、良い加減に酔いも回ってきた。折角の酒の席なのに仕事の話ばかりでは堅苦しいと思い、最初は単に話題を変えようという意図で切り出した。
「泉原さん、その、僕はこの前泉原さんと話した内容のことで、実はずっと気になってたことがあるんだけど」
「なんですか?」
「うん、ほら、日本人は熟年になるとセックスレスになる夫婦が多いって話」
「はい」
「それで僕、実は思ってることがあって、こんなこというと、きっと引かれると思うけど」
「いえいえ、何でも仰ってみてください」
「僕はね、正直本当は妻との性生活を取り戻したいと思ってるんだ、でももう僕にはその機能が失われていてね」
酔って饒舌になり、口が勝手に喋っているのか、自分がそんなことを話し始めたことに驚いている。
泉原沙弥はそんな増岡を見て真面目に心配してくれている様子である。
「お薬はお試しになっていますか? 血流を良くするお薬とか」
「いや、特にそういうのはまだ飲んでないんだけど」
「それじゃ、血行を改善する施術療法とか」
ドキリとした、泉原沙弥の口から出た「施術」という言葉に。
「その、実はちょっと他の社員が話しているのを小耳に挟んだんだけど、泉原さんは以前勤めていた婦人科の不妊治療で、男性機能を回復する治療をしていたとかって」
「はい、それは私の専門でしたけど」
まさか本当に泉原沙弥はその様な治療をしていたというのか。
「本当なんですか? 本当に泉原さんはそういったお仕事をされてたんですか?」
「はい、担当してたのは一年くらいでしたけど、いらしていた患者さんから私のことでちょっとよくない噂が広まってしまって」
「よくない噂って?」
「いや、それが、私は全く不本意なんですけど、私の施術が何かいやらしいことみたいに言われたことがありまして、それが他の病院にも噂になってしまって、そのうちに不妊治療の目的でも何でもない方が勃起不全の治療だけを受けたいって、いらっしゃる様になったんですけど、でもその方たちは勃起不全でも何でもなくて、ただいやらしいことをして欲しいだけの目的だったんです」
「そ、そんな、それは酷いですね」
「ええ、それで一時はプライドも何も傷ついてしまって、仕事に出られなくなってしまったんです」
「そうだったのかい、真面目にお仕事をしてるだけなのに、それはお辛かったでしょうね」
「はい……」
泉原沙弥はそんな辛い過去を思い出して静かになってしまい、増岡はこれから頼もうとしていることを言いだし辛くなってしまった。でも思い切って切り出してみた。
「いやね、僕の話というのは、泉原さんにそんな昔のことを思い出させてしまってとても恐縮なんだけど」
「はい、何でしょうか」
「その、もしよかったらその機能回復の施術というのを受けてみたいんだけど」
「勿論いいですよ」スッと顔を上げてそう言った。
「お力になれるんでしたら、いつでもやらせて頂きます。ブランクがちょっとありますけど」
今でも自分の持っている専門技術に誇りを持っており、いざとなればまだ役に立てるのだということを見せたいと思っている印象だった。
「勿論ちゃんと料金は支払いますからね」
「そんなことお気になさらないで下さい。では何処か出来るところへ行きましょうか」
泉原沙弥はスマートホンを取り出すと文字を打ち込み、検索を始める。
「ホテルがいいですよね」といいながら画面をスクロールしていく。「それとも会社へ戻りましょうか」といわれ、先日の夢の光景が再現されてドキリとする。
「あ、ここだったら近いですね。ラブホですけど」
割とアッサリと普通に「ラブホ」という言葉を口にする泉原沙弥に、増岡はこれまでと違った彼女の一面を見た気がするのだった。
神保町のこんなところにラブホテルがあったのか、と驚いている増岡を他所に、泉原沙弥は躊躇いも無くロビーに入っていくと、受付けで部屋のナンバーが書かれたキーを受け取ってくる。
「行きましょう課長」といってエレベーターに乗り、部屋のある階で降りると誰もいない廊下を歩き、ドアまで来ると鍵を開けて中へ入った。
室内は八畳ほどの広さで真中に大きなダブルベッドが置かれている。初めてこういうところへ来た物珍しさできょろきょろしている増岡を尻目に、泉原沙弥は慣れた様子でベッドのかけ布団を剥がしていく。
増岡の鼓動は服の上からでも分かりそうな程にドキドキしている。「それじゃ課長、ズボンと下ばきを脱いでベッドの縁に座って頂けますか」
先日の夢と同じ様なことをいわれ、心臓がことさら大きくドキンと跳ねる。今度は夢では済まされない、現実なのだ。でも夢を叶えるにはそれなりの覚悟をしなければならないのだと思う。
飽くまでも医学的な施術なのだといっても、もしこのことが会社の誰かに知られれば大変なことになるだろう。果たして自分にはその覚悟があるのだろうか。だがこれは本当に夢の様な出来事が叶う、またとないチャンスなのだ。これまで堅物と言われる程に品行方正に生きて来た増岡の、障害に一度の大冒険、大快楽になる出来事となるであろう。
「どうしましたか課長」
逡巡していると泉原沙弥がまるで仕事中の様に事務的な口調で訊ねてくる。そう、彼女にとってはいやらしいことでも何でもない、純粋に只の医学的な治療なのだ。何もやましいことも恥じることもない、悪いことをしている訳ではないのだから。
と振り切ってズボンを脱ぎ、ささっとパンツも脱いで部屋の隅へ放り投げた。さすがに股間は片手で隠して、言われた通りにベッドの縁に腰を下ろすと、泉原沙弥は増岡の前にひざまづき、洗面台で濡らしてきたタオルで増岡の太腿の付け根から陰部を丁寧に拭き始める。
タオルで拭かれていくしっかりした感触に、やっぱり現実は夢の中とは違うんだなと思う。目の前にある泉原沙弥の美しい顔には、欲望を抱くなどとはおこがましい美しさを感じるのだった。
ほーっと息を吐き出して心を落ち着かせる。今度は本当に男性機能を回復する施術をやってもらうのだ。泉原沙弥はタオルを置くと「それでは課長、始めますのでお脚を開いて頂けますか」と言って増岡の両膝を持って左右へゆっくりと開く。股間の中央にはしょんぼりと萎んだ陰嚢が垂れ下がっている。
増岡の股間の前に表情も変えずに座っている泉原沙弥は、まず両手で睾丸を包み、固さや重さを測っている。交互に引っ張り、上へ持ち上げたり下げたりする。プロフェッショナルな目線で増岡の性器を触診しているのだ。やはりこの間の夢の中とはやり方が違う、そうか、本当はこうして普通に前向きに座ってやるものなのだ、四つん這いになって後向きだなんて、あんないやらしい姿勢だったのは夢の中だったからなのだ。
「なるべく力を抜いて楽になさっていて下さい課長」
といいながら本人は極めて真剣な表情で施術を続ける。しかしこの体勢を客観的に考えると羞恥心もあり、沈黙に気まずさを覚えてしまい、間を持たせようと考えて言葉をかける。
「いやしかし、自分で頼んどいて何だけど、泉原さんの様な綺麗な方に、こんなことをして貰って申し訳ないね」
「そんなことないですよ。以前は毎日の仕事だったんですから」
「泉原さんは凄いねぇ」
「そんなことないですよ」
「だって、お父様もいらっしゃらなくて、お母様とお二人だったんでしょう。それなのに一流の国立大学を出て、看護師の資格まで持ってるんだから、相当苦労をされたんでしょうね」
「はい……」
泉原沙弥は早い動きで睾丸をマッサージしているが、今の増岡の言葉で心なしか表情が緩んだ様な気がした。
「僕は本当に立派だと思いますよ」
「そんなことないですよ。若い頃はお金がなくて、友達みたいに旅行も出来ないし、携帯電話だって持てる様になったのは大学に入ってからでしたから。本当は私は世間とか、周りのことを恨んでたから、だから頑張ってただけなんです」
「でもそれだって、ちゃんと結果を出して、自分の幸せを手に入れたんだから、やっぱり凄い事だと思うよ」
ふと睾丸を揉む手が止まる。
「いえ、私、全然立派なんかじゃありません。国立大学出たっていっても、奨学金を貰っていたので借金がまだ残ってますから」
増岡の眼には心なしか泉原沙弥が涙ぐんでいる様に見えて、動揺する。
「そうか、今もそんな苦労をしているんだね。ああ、それに比べたらうちの遥なんて、何の苦労もなく育って、アッケラカンとお嫁に行ってしまって。泉原さんが僕の娘だったらきっとどんなことしてでもそんな苦労はさせなかったのになぁ」
睾丸を揉んでいた泉原沙弥の手は、垂れ下がっていた陰茎をつまんで前へ伸ばし、両手で包む様にして持ち、指を絡ませて絞る様に揉んでいく。
「あっ……」
思わずため息とも感嘆ともとれない声が漏れた。泉原沙弥は何か心に強く感じることがあるのか、それを誤魔化そうとする様に増岡への施術を続けながら話す。
「私、小学校の時に親が離婚してから、中学とか高校でも皆と同じ様には遊んだり出来なくて、でも意地になって自分だけ頑張って勉強したりしてたから、そういうのが周りに反感を買ってしまって、高校の時はあからさまに仲間外れにされてました」
そんな話を聞かされると不憫になってしまい、ごく自然に増岡は手を伸ばして泉原沙弥の頭を撫でていた。
泉原沙弥はそのまま陰茎への優しい施術を続けながら、酒の酔いも残っているのか頬に涙を流して話し続ける。
「でも私は本当は、心の中ではずっと、寂しかったんです」
「そうかい、一生懸命だったんだね。でも本当に君は美しくて、仕事も出来て、今はとても素敵な女性になったんだと思うよ」
不意に泉原沙弥はしゃくり上げて増岡の太腿に顔を伏せた。これは娘に対する父性の感情なのか、増岡の中に不憫な気持ちが沸き上がってきて、泉原沙弥の頭に乗せていた手を肩へ移し、ポンポンと叩いたり摩ったりした。 泉原沙弥は肩を震わせて、顔を伏せたまま話し始める。
「小さい頃からずっと、辛いことがあると全部お父さんがいないせいだと思ってました。お父さんがいればいいのにって」
「はは、そうか、じゃ泉原さんはやっぱり僕のことを、少しはお父さんみたいに思ってくれてたのかな」
「はい、でも私恥ずかしいんですけど、今まで一度も男性とお付き合いをしたことがなかったせいもあって、すみません私、課長のことは男性として見ていました」
身体が跳ね上がる程ドキリとした。泉原沙弥はそのまま顔を伏せて、涙が増岡の太腿を濡らしている。泉原沙弥の顔のすぐ近くにある増岡の陰茎が、はち切れんばかりに膨れ上がる。
「泉原さん」と増岡が両手で肩に手をかけると「課長」といって泉原沙弥が顔を上げ、甘える子供の様に抱きついてきた。
抱き止める様にして両手で泉原沙弥の身体を包み、押し付けてくる唇を吸った。いつも仄かに感じていた彼女の香りが間近な温もりとなって増岡の心を覆っていく。唇を擦り合わせながらベッドに倒れ込み、増岡の腕は泉原沙弥の胸をまさぐっている。
泉原沙弥は「ああ、ああ」と幼い子供が泣き真似をして大人に甘える様な声を出して、まるで正体を失くして眼を瞑っている。
増岡は泉原沙弥のブラウスのボタンを外しにかかる。ピンク系の上品な柄のブラジャーが見えた。ホックを外してずり下げると露わになった乳房に口を当て、吸い付いた。
その間も泉原沙弥の手は増岡の怒張した陰茎を撫で摩り続けている。増岡がギュッと強く胸を揉むと泉原沙弥も陰茎を強く握り、根本から先端へ絞り出す様にする。
ふと顔を上げると泉原沙弥は涙を浮かべた目で増岡をじっと見つめている。なんと美しいのだろうと思う。朱色に塗れている半開きの唇が、もっともっとして欲しいと言っている様だ。
泉原沙弥の半開きにした口に舌をねじ込んでいくと、応じる様に舌を擦り合わせてくる。増岡の身体に回した片手にギュっと力が入り、もう片方の手で増岡の陰茎を握り締める。泉原沙弥のお尻に両手を回して、パンツの縁に手を掛ける。泉原沙弥が腰を浮かせたのでズリ下げて足先まで脱がせてしまう。そこには泉原沙弥の中心があって、増岡に入ってきて欲しいと涙を溢れさせている。
「早く、早くああ課長……」
泉原沙弥の両脚を抱え上げて、怒張した亀頭をあてがおうとした時。妻の則子の顔が頭に浮かんだ。
「いや、いけない、こんなことをしていては!」
今しているこのことは、単に則子への裏切りというよりは、自分が生きて来た人生。愚直に働き、未だにローンを払い続けている家のこと、大切に育てた娘遥のこと、則子と連れ添ってきた長い道のり、それ等全てを自分で否定してしまうことになってしまうのだと気付いた。
「やっぱりダメだ」といって泉原沙弥の両脚をベッドに放り出すとグラリと眩暈がする感覚があって「あーっ」と起き上がると自宅の寝室であった。
また夢だった……。隣を見ると暗い中、則子が寝息も立てずに眠っている。
ああ良かった……また夢精でもして、則子にバレたら大変だった。と思う反面。夢だったのなら、やってもよかったじゃないか、という後悔が残る。もう少しで爆発しそうな快感の波に襲われていた。そもそも前回の時のあの放出感が忘れられなくて、どうしてももう一度味わいたいと願っていたというのに、一世一代のチャンスを逃してしまった。ああなんと自分は馬鹿なのだろう。という気持ちが押し寄せてくる。
またこの夢を見られる時はあるのだろうか、いつかまた、そしてきっとこの次はと思うけれど、考えてみれば夢の中ではそれが本当に夢なのかどうかは分からないのだ。現に今もすっかり現実のつもりでいたではないか。もし夢だと思ってやってしまって現実だったら、それこそ大変なことになってしまう。
そしてまた一方で、夢の中とはいえ泉原沙弥さんの様な苦労人で聡明な娘さんに、なんと自分は破廉恥なことを考えてるのだろうと、深く反省する自分もいるのだった。
隣りのベッドには何事も無かった様に寝ている則子がいる。こうしてちゃんと妻がいるのに。何としたことだ。情けない。ましてや則子は今更年期障害の症状に苦しんでいるというのに、自分だけが悦楽の彼方へトリップなどしてはいけないのだ。
次の日、職場では隣の課で田所の出した社会科の教科書の企画が通り、田所は係長に昇進するかもしれないと噂され始めた。もしそうなれば、現職の係長がひとり繰り上がって課長になるのかもしれない。そうなると現在の課長の椅子がひとつ足りなくなる。
田所の係長昇進をきっかけに現課長の椅子を空ける為に増岡が部長に昇進できるとは到底思えなかった。また現職の課長の誰かが部長になるということも考えにくい、だとすれば課長職の誰かが何処かへ出向させられるのかもしれないのだ。もしそうなれば、来年の四月に保健体育の教科書の製作が終わった時点で、増岡は外へ出されるのかもしれない恐れがあるのだ。
それは印刷会社とか、取り引き先の卸業者か書店かもしれない。出来ればこのまま定年まで本社勤めでいたい。ここまできて出向で他所へ出されるというのは、労力とか待遇の問題よりも屈辱的な気持ちが大きいのだ。
その上、田所に泉原沙弥を取られてしまうかもしれない。泉原沙弥が田所と仲良くしているのを見ると嫉妬の念に悩まされる。結局現実に増岡は未だ指一本でさえ泉原沙弥に触れたこともないのだ。その劣情は中学生の時英語の女教師に感じた、あの身を持て余す様な狂おしさを思い出させる。
その日も静まり返ったオフィスで泉原沙弥と残業になっていた。ふとオフィスの電話が呼び出し音を発したので、泉原沙弥が受話器を取った。
「はい、学育出版の泉原です」
こんな時間に何処からだろう。泉原沙弥が受け答えをする。
「あ、課長の奥様でいらっしゃいますか、今一緒に教科書の担当をさせて頂いております泉原と申します。いつも大変お世話になっております。少々お待ち下さいませ、課長、家の方からお電話です」
そういえば今日は則子に残業になるといっておかなかったな、と思いながら泉原沙弥の差し出した受話器を受け取る。
「何だい? どうかしたかい?」
「まだ会社にいるんですか? 連絡もないからどうしたのかと思って」
いつになく心配そうな則子の声が響いてくる。近頃は予定外に急に残業になる日もあって、その度に家に連絡を入れていた訳でもないのに今日に限ってどうしたのだろうと思いながら応える。
「それでわざわざ電話くれたのか、今日はもう少し遅くなるから、もしあれだったら先に寝てていいから」
「そうですか、分かりました」
少し不機嫌な口調で則子は先に通話を切った。これも更年期障害の影響で不安な気持ちになっているせいなのだろうか。
泉原沙弥は何事も無かった様に仕事に集中している。鞄の中の携帯を見るとこちらにも則子からの着信が入っていた。午後昼食に出た時マナーモードにしたまま戻すのを忘れていたのだ。則子は携帯に掛けても出ないからオフィスの方へ掛けてきたのだなと理解した。
苛々する気持ちだった。今このオフィスに泉原沙弥と二人でいることに増岡は特別な空気を感じている。そんなところへ不躾に電話を掛けてくるなんて、でもそれは則子が悪いのではない、増岡自身が、自分が妻帯者であることを思い出さされた為に、その逃れられない現実に腹が立つのだ。
日野市にある伊藤教授の自宅へ行く日になった。泉原沙弥は訪問を意識して、決して派手ではなくそれでいてきちっとした印象のフォーマルスーツに身を包み、伊藤教授の奥様に伺いを立てておいた伊藤教授が好きである老舗の菓子折りを用意してきている。何事にも抜かりなく、やはり仕事の出来る人だなと思う。三時の約束なので逆算して二時前に会社を出て、最寄の神保町駅へと向かった。
神保町から都営新宿線に乗り、笹塚から京王線に乗り入れて日野市の高幡不動駅までは小一時間くらいかかる。
高幡不動駅から歩いて住所を確認しながら伊藤教授の自宅を訪ねる。まずは今回の不手際を心からお詫びした。固い態度だった伊藤教授は泉原沙弥がその場で涙ぐんでしまったことが功を奏して、恐縮し納得してくれたのだった。そして性教育の表現の認識について用意しておいた説明をすると、打ち合わせもスムーズに進行することが出来、二人はほっとしたのだった。
夕方日野市から神保町まで戻り、増岡も今日は終業時間に仕事を終えて家に帰ってきた。やれやれと思ってリビングで寛いでいると、思いがけず則子が仕事のことを訪ねてくる。
「そういえば貴方、伊藤教授の執筆の方は順調なんですか?」
則子にしてみれば伊藤教授はかつての恩師であり、教科書の執筆は自分が取り次いだのだから、その後の進捗が気になるのは無理もない事なのだが、増岡にしてみれば家に帰れば仕事のことは忘れたいということもあり、また普段は殆ど仕事のことを口にしないので、腹立たしい感情が起きてしまう。
「ああ、君が心配することはないよ」とだけいった。
「そうですか」
増岡の答えが「何も口出しするな」と遮断する様な口調だったので、則子も何か気に障った感じになってしまい、そのまま黙って夕食の用意をしているのだった。
だが増岡には分かっている。腹立たしい気持ちが起きたのは、泉原沙弥のことに触れられたくないからだ。今日のことに話が及べば、涙を浮かべてお詫びの言葉を口にしていた泉原沙弥のことが思い出される。そんな健気な彼女のことを則子には話したくないのだ。というよりも、そのまた心底にあるのは則子に対して後ろめたい気持ちである。
ニュースで中央線が人身事故で止まったと報道されているので、帰りの西武線が混んでいた理由が分かり「そうか、中央線が止まったんだな、だから振り替えの人がいっぱい乗って来て西武線が混んでたんだ」と言ってみたが、則子の反応は無かった。
翌日また満員電車に揺られ、池袋から乗り換えた有楽町線の中で、田所正平が声を掛けてきた。
「あ、増岡課長、お早うございます」
苦労して側へこなくても特に話したいこともないのだが、田所は微笑みながら人並みを掻き分けて近くまでくると「お陰さまで僕の企画した社会科の教科書が具体化になったんですよ」という。
「ああ、聞いたよ、おめでとう」
とおざなりの返事をすると、尚もニコニコして「ありがとうございます。増岡課長の下で教科書作ってたノウハウがあったから作れたんですよ」と心にもない感じで言う。
「そうか、そりゃ良かったな」と答えると、何か下半身に違和感を覚えてギョッとなった。二人とも片手を上に伸ばして吊り革を握っているのだが、満員で揉みくちゃにされている中で、田所の片手が増岡の股間に伸びて、ギュウっと握っているのだ。
「何するんだキミ」というと田所はニコニコしたまま「いいじゃないですかたまには」といって尚も股間を揉んでくる。
からかっているのかと思い「どうしてこんなことするんだ」というと、何も動じずに「いいじゃないですか課長」と囁いてくる。
そうか、コイツは自分が係長になると現職の係長が課長になって、増岡が出向させられることを見越して気を遣ってるつもりなのか、いやそんな馬鹿な。
「実は僕、前から課長のこと好きだったんですよ」
まさか、田所は同性愛者だったというのか。それともやはり泉原沙弥を狙っていて、増岡も泉原沙弥を意識していることを知ってバカにしているのか。
「やめろ、やめて田所君……」と手を振り払おうとしても、笑ったままで執拗に握ろうとしてくる。そしてモミモミと物凄く上手い手つきで握ってくる。思わず「ああっ」と声が出る。これはまずいと田所の手を振り払おうとしても、股間をまさぐる手を止められず、尚も攻めてくる。
「やめろって!」
とうとう頭にきてしまい、吊り革を握っていた手を離してそのまま振りおろし、思い切り田所のオデコを叩いた。バシッ!
「あいたっ」
田所がオデコを抑えて痛そうな顔をすると頭がグラリと歪む感覚があり、ハッとして起き上がるとそこは暗い寝室だった。
また夢だ……でもこの手には、今確かに田所のオデコを叩いた衝撃が残っている。いや何処かベッドの縁とか、壁を殴っていたのかもしれないが、でも確かに人の肌の感触だった様にも思う。
はぁはぁとまだ息が荒い、何故こんな夢を見たのだろうかと思う。ふと見ると隣のベッドで寝ている則子が、今寝返りを打ったところだった。
執筆作業を再開した伊藤教授はハイペースで原稿を上げてくる様になり、先行きの見通しも明るい兆しが見えてきた。それに連れて増岡も機嫌が良くなってきた。
その日は家に帰ると、近頃心配ばかり掛けてしまっているので、たまには則子にも仕事のことを話してやらなくてはと思い、自分から口を開いた。
「いや~やっと教科書の全貌が目に入る様になったというか、完成に向けて見通しが出来るところまで来てるんだよ」
「そうですか、良かったですね」
と則子はいつになく饒舌な増岡を意外に思っている様に答える。
「なにしろ今まで扱ってなかった新規の科目だからね、遣り甲斐もあるけど分からなくて勉強しなきゃならないことも多くて大変だったんだよ。伊藤教授には一番お世話になって、君が紹介してくれたお陰だよね、どうもありがとう」
というと、則子は訝しげな表情をして聞いてくる。
「そういえば、この前会社に電話した時に最初に出た、確か泉原さんていう人? 綺麗な声で若い感じだったけど、一緒にお仕事されてるんですか」
「泉原さん? うん、この半年一緒に仕事してきたけど、本当に優秀な人なんだよ。二年前に中途採用で入社してきたんだけど、国立大学を出てるし、前職は看護師さんで不妊治療の権威だっていう医者の下で働いてたそうでね」
気が付くとペラペラと聞かれてもいないことまで説明している。そんな増岡のことを見ていた則子が、苛々した様に口を挟む。
「へぇ~いいですね、そんな若くて綺麗な方とお仕事が出来るなんて、それでしょっちゅう会社に残ってお二人で遅くまで残業されてるんですね」
「何を言ってるんだ君は、誰が好き好んで残業なんかするもんか、僕だって本当は一刻も早く家へ帰って来たいのに、まだ残っているローンとか、君との生活を豊かにする為に歯を食いしばって残業してるんじゃないか」
やましい気持ちを弁護する為に大げさに淀みなく話している自分に呆れている。また則子がそんな増岡に畳み掛ける様に言い返す。
「あーらそんなに大変な思いをしてらっしゃったんですか、それはご苦労お掛けして申し訳ありませんでした。でもそんな若くて素敵な女性となら残業もさぞ楽しくしてらしたんじゃございませんの」
図星を差されて激しく動揺する。
「な、何を言ってるんだ君は、お、お、男の仕事がどんなに厳しいことだと思ってるんだ」
「泉原さんは女性じゃございませんの」
「あ、それはだから……」
そこまで追及されて増岡は激しく動揺し、口ごもり、則子に言い返す術も無くなってしまうのだった。それにしても何故則子はここまで泉原沙弥のことを追及してくるのだろう。増岡がここまで泉原沙弥に入れ込んでいることは、会社の人間は勿論だが則子にだって微塵も知られている筈は無いのに。
増岡の顔をじっと見据える則子は、まるで増岡が泉原沙弥に身も心も奪われてしまい、憑りつかれた様に支配されていることを知っている様だった。その顔を見ているとまるで「私は何もかもお見通しなのよ」と言われている様だった。
ブルブルッと顔を振り、そんなことはない、自分はまだ泉原沙弥の身体に指一本触れていないし、ここまで夢中になっていることを則子が知る由もないのだ。と自分に言い聞かせる。
「何でこうなるんだよ。もう話もしたくない」
と言い捨てて部屋を出て行くことしか出来なかった。
その日から則子はずっと増岡に対して冷ややかな態度を取る様になり、以前の様に笑い、打ち解けた会話を交わすことは無くなってしまった。
それから幾日かが経ち、オフィスで増岡と泉原沙弥が待ちわびているところへ、伊藤教授から軌道修正した最終の原稿データが送られてきた。まだ構成や校閲の作業を施さなければならないのだが、これでようやく教科書本文の脱稿が見えてきたのだ。
ふと溜め息をついて、これまでの労をねぎらう為に泉原沙弥に声を掛けた。
「お疲れ様でした。本当にここまでこれて良かったよ。泉原さんのお陰だね」
「そんなとんでもないです。途中はどうなることかと思いましたけど、本当ご迷惑お掛けしました」
と少しはにかんで笑う顔を見ると、また心がドキンとときめいてしまう。
仕事が一段落ついたので、軽くお祝い会でもして後半戦への勢いを付けようじゃないか、と居酒屋へ繰り出そうということになった。年に何回かは他の社員と利用する例の居酒屋へ入る。
増岡は以前に見た泉原沙弥の夢のことを思い出している。あの夢の中でもこの居酒屋へ来た。夢では二人きりの個室へ案内されたのだが、今回は並んだ四人掛けのテーブルのひとつだった。
まずはジョッキの生ビールで乾杯する。
「ここまで半年間、よく頑張ってきましたね」
「課長がリードして下さったからですよ」
あの二年前、中途採用で入社してきた泉原沙耶を始めて見た時の衝撃はいつでもありありと増岡の脳裏に蘇えってくる。増岡には、本当にこの半年間、心ときめきながら泉原沙弥と苦楽を共にしてきた仕事について、ひとことには言い尽くせない感慨があるのだった。
そして酔いも回ってきたところで増岡は、泉原沙弥について一番気になっていることを聞いてみたのだった。
「それで、僕が勝手に見たところだけど、二課の田所正平君とはどうなのかな? 二人で喋ってるとことか見ると、いい雰囲気だなぁと思ってたんだけど」
増岡にはもう、泉原沙弥への果てしなき劣情を隠す余裕も無くなってきている。酒の勢いも手伝ってか、泉原沙弥を見るその目付きにも、ありありと欲望が滲み出てしまっているのだった。
「はい、きっと田所さんは、私に好意を寄せてくれているのだと分かります。でも田所さんは、きっと身体的に私を狙っているだけなんだと思います」
「身体的にって? どうしてそう思うのかな」
「そんなの目付きで解ります。いやらしい感じがするんです。あの人は自分が出世することと、女を自分の物にしたい欲求と、それだけなんです。私はあまり好きではありません」
キッパリと言い切った泉原沙弥の言葉には、溜飲が下がる思いだった。そして続けて彼女の口から出た言葉には狂喜したのだった。
「増岡課長の方がずっと素敵だと思います」
そうなのだ。今泉原沙弥の気持ちはハッキリと増岡に向いている。どうするのだ増岡。このままでいいのか、彼女は今、増岡が好きだということを表明したのだ。
明日も早いからということであまり遅くなる前に居酒屋を出てきたのだったが、何となく二人とも帰りがたくなり、そのまま駅前の大通りを何処へでもなく歩いている。泉原沙弥が黙ったまま増岡の胸にしな垂れかかってきた。増岡はそれを受け止めて肩に手を回す。
二人で少しよろけながら歩道の脇に寄りかかった。増岡が顔を寄せると泉原沙弥は顔を上げる。お互いの唇を付けてキスをした。
この前見た夢の中では神保町の近くのラブホテルに入ったのだが、現実にはこの付近にラブホテルは存在しない。それで仕方なく、少し値は張るがツインルームのあるシティホテルにチェックインしようということになった。小じゃれた入口を入り、ピカピカのロビーからフロントで案内された部屋へとエレベーターに乗って向かう。
鍵穴にルームキーを差してドアを開くと雪崩れ込み、そのまま夢中で抱き合って唇を貪り合った。衣服を脱ぐことももどかしく、お互いに身体をまさぐりながらベッドに倒れ込む。
泉原沙弥もタガが外れた様に慌しく増岡のベルトを外し、ホックを外し、チャックを下げてズボンを降ろしていく。パンツをずり下げるとピョンと飛びだした増岡の陰茎を口に含んだ。
「あああ~~~」と中年にあるまじき嬌声を上げて増岡はのけ反った。やっぱり、この女もこのことをずっと待ち望んでいたのだ。やっと今思いが叶ったのは僕だけじゃない、彼女もそうだったのだ。お互い様だったのだ。
増岡は遂に思いを遂げた。泉原沙弥は顔を上下に振り立てて激しく陰茎をサッキングしている。こんなことが出来るのかと驚きと喜びが駆け抜けて、身体を波打たせながら、腹の底から沸き出した白いマグマが噴き出すのを止めるべくもなかった。
遂にやった! それは激しい盛大な射精であった。でも後悔はない。もう何もかもどうでもいい。この快楽が全てなのだ! 家庭も仕事も失ったとしても、この瞬間、この快楽が永遠なのだ。今死んだってかまうものか。
ビクンビクン……と痙攣すると同時にグラリとする眩暈に襲われて、ハッと起き上がると自宅の寝室のベッドだった。
今回は大量に射精している。でも前の様にパンツが冷たくなってくることはなかった。何故ならそれは則子が咥えているからだった。放出された精液は全て則子の口の中に受け止められていた。
増岡は飛びだしてしまうかと思うくらい目玉をひん剥いて、その驚きの光景を見た。則子もまた口いっぱいに増岡の陰茎を咥えたまま、驚愕の形相で増岡を凝視していた。
第二章 増岡則子
遥の荷物を積んだトラックは、新婚生活を送る新居へと走り去って行った。
家の前で増岡と見送っていた則子は、トラックが見えなくなると不意によろけてしまい、増岡の腕をつかむ。
「おいおい、大丈夫かい」
「ええ、ちょっと疲れただけですから。大丈夫です」
「これからまた二人の生活なんだからね、しっかりしてくれよ」
と言って増岡は則子の両手を放し、家に戻っていく。
一人娘の遥は大学を卒業して就職し、二年も経たないうちに学生時代から付き合っていた彼氏と結婚してしまった。今はアパレル関係の会社で店舗運営の仕事をしているが、子供が出来れば退職して子育てに専念するつもりらしい。
遥の夫になった男は区役所に勤めている。手堅く将来性もあって、何より真面目そうな、増岡と同じ様な人生を歩むであろう青年だった。
今まで増岡と夫婦として堅実に生きてきた結果なのだと思い、安堵すると同時に、楽しみにしていた遥の人生が一挙に決まってしまった様で、それが何か呆気なく、物足りないという気持ちもある。
でも女の幸せは何より男性から愛されて、結婚して子供を産むことなのだから、きっとこれで良いのだと思う。
リビングに増岡と二人きりになってみると、また二人だけの生活に戻ったのだという実感が沸いてくる。遥が生まれてからお嫁に行くまでの二四年間がごっそり抜けて、こうして老いた二人だけが残されたのだ。これも自然な流れで、一般的な夫婦はみんなこうして子供が巣立った後に残されて、老後を過ごすものなのだろう。
増岡とは同じ職場の先輩と後輩という形で知り合い、増岡から極めて誠実に結婚を前提とした交際を申し込まれて結婚した。その後遥の妊娠を期に退職して、そのまま専業主婦を続けてきた。遥が生まれてからのことが走馬灯の様に頭を過る。
高校を卒業した遥は大学へも就職した会社へもこの家から通っていたから、遥のいない生活は本当に二四年振りだ。過ぎてしまえばあっという間のことだった。
増岡は浮気はおろか接待や仕事絡みの行事がある時を除けば外で飲んでくることもない。悪くいえば何の面白味もない、良くいえばこの人に任せておけば何も心配ない、と思う夫であった。
でも時おり自分たちの人生は当たり前を極めることだけに終始している様で、物足りなさを感じる時もあるのだが、そんなことをいえば罰が当たるというものだろう。
遥が小学校に上がった頃から則子は近所の図書館で司書のパートをしていたのだが、重たい書籍を山積みにして運んだり、高い書架への上げ下げ等、身体に負担の掛かる労働であるため腰を痛めてしまい、六年程前に辞めてしまった。
その後は近所の人の勧めで駅前のお弁当屋でパート勤務を始めた。同じ立ち仕事だが、図書館の様に重い物を運ぶことはない。それに元々料理が好きだったこともあり、ことのほか楽しく生活に張りを感じる様になった。遥が高校三年生の頃だった。
でももうそれも、あと一年で家のローンの支払いが終われば、パートをしなくても暮しに不自由はないのだが、パートとはいえ辞めてしまうと、ささやかだけれど則子にとって生きる理由が本当になくなってしまう気がする。
夫婦二人ともこれまでよく働いてきたのだから、残された時間をゆっくり過ごしていくのが当たり前なのだろうけど、今になって則子には、当たり前ということに抗いたい欲求の様な物が芽生えている。
これから増岡と二人で歳を取り、どちらが先になるのか分からないけれど、老いて死んで終わりなのか、この先にはもう何もないのだろうか。
今朝も増岡は出勤の用意を整えて、テレビのニュースを横目で見ながら朝食を食べている。ただここに遥がいないというだけで、前と変わった様子はない。
実はまだ打ち明けていないのだが、則子には三ヵ月ほど前から更年期障害の症状があり、駅前の病院で治療を受けている。最初に変調に気付いたのは生理が止まらなくなったことだった。単なる不順かと思っていたのだが、一週間を過ぎても終わらず、貧血も起こすようになったので産婦人科に行ったところ、更年期障害との診断だった。
その頃遥は結婚を目前にしていたので心配を掛けたくなかった。遥が無事にお嫁に行って新居に落ち着くまでは増岡にも黙っていようと思っていた。遥がいなくなった今、増岡には話さなければと思うのだが、気持ちに躊躇いがあって、きっかけをつかめずにいる。
症状としては、よくいわれる顔が火照ったり、動悸や息切れ等の症状は無いのだが、夜よく眠れない。それに何事にも意欲が沸かず、食欲も無い、友達に進められて行く様になったヨガ教室にも、すっかり足が遠のいている。
それほど生活に支障があるという訳でもなく、弁当屋のパートに行けば責任もあるのでシャンとするし、同僚とお喋りしていれば症状を忘れるくらいなのだが。
自分が隠していたのだから仕方ないが、今までと寸分の違いもなく黙々とご飯を食べている増岡を見ると、イライラした気持ちが芽生えてくる。増岡は遥がいなくても全く平気なのだろうか、男の方がこういうことに簡単に割り切ることが出来るのだろうか。
また一方で増岡に打ち明けられないのは、更年期をむかえたことへの恥じらいもある。診断を受けた医者によれば、女性ホルモンのエストロゲンという物質の減少がみられるということだった。それでホルモン補充療法というのを受け始めた。治療といっても処方された薬を服用するだけなのだが。
結婚して娘を育て、お嫁に出して、母として妻としての役割りをつとめ上げた。そしてやがては閉経を迎え、女としての機能を失っていくのだ。誰しもいずれは人生を終えていくのは当たり前のことだけど、でもこうして症状を自覚してみると、老いへの恐怖を感じる。
パートが休みの日には、増岡が仕事に行っている間に家の掃除をする。一階のリビングと和室に掃除機をかけ、二階に上がると夫婦の寝室、そして廊下にも掃除機をかけ、遥の部屋のドアを開けた時、そこはもぬけの空だった。
そうだった……風が吹く様な寂寥感に襲われる。何十年か忘れていた感覚だった。ひと肌が恋しい。ふとそんな気分になっている。
遥がいなくなった寂しさを埋めたくてそんな気分が沸いてくるのかと思うが、更年期障害になってホルモン治療を受けると性欲が強くなるという話を聞いたことがある。そのせいなのかもしれないけれど、もう一度増岡と、セックスとまではいかないまでも、スキンシップくらいは出来ないものだろうかと思う。
遥が生まれて三人の暮らしになってからは、増岡との関係は父親と母親という役回りが主になり、男性と女性という意識は薄れてしまった。
身体の関係にしても、そもそも二人とも淡泊なこともあったけれど、二人の頃は週に何度もしていたのが、遥の妊娠が分かった途端に増岡は則子の身体を気遣ってピタリとしなくなった。遥を出産してからは育児が大変だったこともあって、今に至るまで殆ど数える程しかしていない。そうしてかれこれ二十年は遠ざかっている。
この歳になってそんなことをしたい等とはとても言い出せない。そんな気持ちになっている自分にも驚かされる。でもさりげなく、嫌らしくなく、それ程本格的な行為でなくてもいいのだから、増岡にもそんな気持ちになって欲しいと思うのは無理だろうか。
「たまには耳掃除でもしてあげましょうか」といってスキンシップを図ろうとしても、増岡は驚いた様子で則子を見つめ「いいよ自分でするから」と言った。
もう増岡は体力的な面でもそういうことに関心を持つことが出来なくなっているのだろうか。男性機能には個人差があって、六十歳を過ぎても現役の人もいると聞いたことがある。だが則子が更年期を迎えたのと同じ様に、増岡もそうした機能を失いつつあるのかもしれない。毎年の健康診断は何も問題はないし、至って健康の様に見えるのだが。
増岡の食事に鰻やニンニク等、精力を増強するといわれる物をなるべく出す様にしている。だがそれに気付いたのか増岡は「僕に今更こんなに精力つけさてどうするんだい。まだそんなに働かせたいのかい」と冗談めかして言った。
真意が伝わったのかどうかは分からないけれど、それはもう「勘弁してくれ」と言っている様にも取れる言い方だった。なんとなく言っただけなのかもしれないけれど。
増岡は連日残業が続いて帰りが遅く、弁当屋のパートを終えて帰って来ても、お風呂に入り夕食を食べてもまだ何時間も経たないと帰ってこない。近頃はパートの帰りにレンタルショップで映画のDVDを借りてくるのが習慣になっている。
棚に並んだ様々な映画のジャンルの中で「ラブロマンス」の中から「失楽園」や「恋愛適齢期」「恋におちて」等、中年の大人のラブストーリーに魅かれて借りている。
少し長い映画を観ていると、観終わらないうちに増岡が帰ってきて、中断して夕食の用意をすることになる。増岡は黙って食事を取るとそのまま風呂へ向かい、二階へ上がって寝てしまう。則子が何の映画を観ているのかさえ、興味が無い様子だった。
映画の中ではどれもロマンチックで素敵な物語が展開しているけれど、かえって何も無い殺風景な自分を突き付けられている様で、余計鬱々とした気持ちになってしまうのだった。
一人で映画を観終えると歯を磨いて、二階に上がり寝室へ入る。エアコンの音がする。増岡は既にベッドで寝息を立てている様だった。
暑がりの増岡の設定する温度では則子は寒くなってしまうので、いつも増岡が寝てしまってから温度を二度ほど上げて寝ることにしている。リモコンでピッピッとエアコンを操作して隣のベッドに入り、ナイトスタンドを消すと真っ暗になった。
今夜もあまり眠れない夜を悶々と過ごすのかと思うと気が滅入ってしまう。隣で気持ち良く寝ている増岡が恨めしく思える。
と寝ている増岡から何か呟いている言葉が聞こえた気がして、耳を澄ましてみる。
「……リンパ……」
リンパ? 何のことだろう、今確かリンパと言った気がする。黙っているとまた繰り返して言う。
「……リンパ、リンパね……」
何か夢でも見ているのだろうか、どういう状況でリンパという言葉が出てきているのか想像がつかない。悪夢を見て魘されているという感じでもない。静かになったので毛布を被り眼を瞑っているとまた声がする。
「コレはまずいだろう……」
今度は何かまずいことでも起きたのか、増岡は毛布を掛けたまま身をよじっている様だった。こんなに寝言をいうなんて、今までになかったことである。毛布の中で身体を左右に揺する様にしているので、何をしているんだろうと思い、毛布をそっと剥がしてみると、パジャマの股間の部分がもっこりと膨らんで、文字通りテントを張った様に三角に飛び出ている。増岡はその巨大化した股間を持て余す様にグイグイと腰を突き上げているのだ。
驚いた。男性としての機能はもう無いのかと思っていたのに、増岡はまだこんなに現役の男だったのだ。
それを見ているうちに悪戯心の様な物が芽生え、触ってみたくなってしまった。自分で何を考えているのだと思いつつも、夫なのだから何も悪くないのだと思い、人差し指を伸ばしてそっと突っ突いてみる。
「うっ……ウヒィ」
増岡が身をよじって反応した。眼を醒ます様子はないのでもう少し強く突いてみる。
「あヒィ……」
変な声を出すので噴き出しそうになりながら、でも面白くなってしまい、今度は親指と人差し指で突起した膨らみを挟み、もみもみとしてみる。
「……しかしこれは、これはまずいだろう……」
割とハッキリと喋るので、眼を醒ますのではないかと顔を見るが、やはり眼を瞑ったまましっかり眠っている。
増岡は切なそうに身体を右に左に逸らしながらうごめく。段々エスカレートして、膨らみを手の平でつかみ、ギュウギュウ絞る様にしてみる。
「あっ……はぁ~で、でも……さん、まずいだろ、いず……さん」
誰かの名前を呼んでいるのだろうか、耳を澄ませるが、もう呼ぼうとはしない。でも確か今いず?……さんといった気がする。また言わないだろうかと思い、更に力を入れ、もっこりの尖端へ向けてゴシゴシとしごいた。
「しかし、いや、コレは……しかし、まずいだろう、コレは、まずいだろ……」
増岡が口にした誰かの名前を言わせたかった。尚一層の力を込めて握り締め、先へ絞る。
「ヒョえー!」
ひと際大きな声を上げて、ビクンビクンと痙攣する。驚いて手を離し、隣りのベッドに飛び込んで毛布を被る。
「あ、違うんだこれは、違うんだよ、でもこれは……」
則子に言っているのかとドキリとしたが、そうではないらしい、夢の中で誰か見られてはまずい人に見られてしまい慌てている、といったところだろうか。
それっきり静かになったと思うと、眼が覚めたのかむくっと起き上がる気配がして、そっとベッドを降り、歩いてドアまで行き、そっと開く。歩く足音が何かたどたどしいのはきっとパンツの中に射精してしまい、歩き難いのかと思われる。
部屋を出て階段を一階へ降りる音がして、脱衣所へ入った様だ。何かゴソゴソしてたかと思うとまた二階へ登ってきた。
またそっと部屋へ入ってきて、エアコンのリモコンをピッと操作する音がして、ベッドへ入ったらしい。エアコンの温度を下げたのだろう。このまま寝たフリをしていようと思う。
増岡にはまだ立派に男性機能があるではないか、まだ衰えている訳ではないのだ。どうしてその力を私に向けてくれないのだろう。
暫くすると増岡の寝息が聞こえてきた。付き合い始めた頃、結婚するまでは暑苦しいくらいの思いを則子に向けてくれていたというのに。もうこんな五十絡みの女なんかには興味が無いということなのか。
悶々と考えているうちに外が明るくなってきて、目覚ましのアラームを掛けた時間が迫ってくる。結局そのまま寝られずに、鳴り始める前にアラームのスイッチをオフにしてベッドから降りたのだった。
キッチンで焼いた目玉焼きをテーブルに用意していると、スーツにネクタイを締め、鞄を持った増岡が二階から下りて来た。
「おはよう」
「おはようございます」
テーブルに着くと、何食わぬ顔をしてご飯を食べ始める。則子の視線には何も気付かない様子である。遥が出て行ってしまってもまるで意に介さず、則子が更年期に苦しんでいることにも微塵も気付いていない。そんな増岡に腹を立てたからという訳ではないけれど、もう遥もいないことだし、夫婦の問題は二人で共有するものだと思うから、話すことにする。
いつ切り出そうかと間を取っているところへ、増岡の方から言葉をかけてきた。
「今日もパートに行くのかい?」
「いえ、今日はちょっと」
「ん? 何処か行くの?」
「ええ、ちょっと病院に」
「病院? どこか悪いのかい?」
「ちょっと前から具合が悪くて、この前も病院に行ったんですけど、どうも更年期障害らしくって」
「そうか、どんな症状なんだ?」
増岡は箸を止めると心配そうな顔をして見た。長年連れ添った夫婦としての愛情はあるのだと思い、少しほっとする。でもその半分はこれから老後の生活に則子が必要だから心配しているのかとも思う。
「よく聞く顔が火照るとか動悸息切れとか、そんな症状はあまりないんですけど、夜よく眠れないのと。何にも意欲が沸かないし、食欲も無いの、ヨガの教室もすっかり休んじゃってるし」
「そうかい、きっと遥がいなくなって張り合いがなくなったせいかもしれないね。お医者さんは何ていってるの?」
「なにかホルモンのバランスが悪くなってるとかって、お薬を貰って飲んで、ホルモン治療をしています」
増岡はちょっと驚いた顔をしたけれど、女性がこの歳になればそうなっても何の不思議はないのだし、ごく普通のことではないか、と納得している雰囲気だった。そんな増岡を見ていると、また腹立たしい気持ちが沸いてくる。
「弁当屋のパートはもうやめた方がいいんじゃないか?」
確かに来年で家のローンも払い終わるのだし、いよいよ私たちは二人とも仕事をやめて、のんびりと老後を過ごしていく段階に来たのかと思う。
いつもの様に増岡が会社へ出かけてしまってから、昨夜のことを思い返す。増岡はベッドを降りると足を忍ばせて一階へ降り、お風呂の脱衣所で何かゴソゴソとやっていた。見ると脱衣場の隅に置かれたゴミ箱のビニールの底に、丸めたパンツが押し込められている。引っ張り上げてみると久し振りに嗅ぐ男の匂いがする。
病院で血液検査の結果から医者に処方された薬を飲む様になってから、確かに生理の出血は止まったし、不意に眩暈に襲われたり、意味もなく不安になったりすることもなくなってきた。薬の効果である女性ホルモンを活性化したお陰で身体の調子は良くなっているのだろうけど、身体が火照るような感覚もあって、それは性欲ではないかと思う。
増岡はもう自分を女性としては見てくれないのか。近頃は昔増岡としたセックスのことを思い出しては、はしたないと思い自己嫌悪に襲われてしまう。
私の希望は叶わないのだろうか、増岡からまた女として扱われたい。愛されたい……今更また夜の夫婦生活を取り戻そうとするのはふしだらだろうか、いやきっとそんなことはないはずだ、夫婦なのだから、熟年になっても性生活を続けている夫婦はたくさんいると聞く。でもどうやったらあの堅物の増岡がその気になってくれるのだろう。
この前の寝言では「これはまずいだろう」と言っていた。夢の中では一体どんな状況だったのか、それが分かれば手がかりになるのかもしれない。どんな夢を見ていたのか教えてくれたらいいのにと思う。
あからさまに誘ってはきっと引かれてしまうに違いない、そもそも自分から誘っていると思われるのは嫌だ。増岡の方からその気になって誘ってくれるのが理想だ。
まずは自分の女らしさを取り戻すことから始めてみようと思い、インターネットの通信販売で自分にも似合いそうなネグリジェを注文してみようと思う。それから近頃は口紅を付けるくらいだったお化粧もしてみよう。そしてセクシーな格好をして増岡の帰宅を向えたら、何か気付いてくれるかもしれない。
その日は下地から時間をかけて丹念にお化粧をし、通販で届いたネグリジェを着て、部屋を暗くして一番好きな映画「マディソン郡の橋」を観ているところへ増岡が帰ってくる……という風にしてみようと思う。
出来れば増岡もこの映画に興味を持って、途中から一緒に観始める。そして則子は増岡にここまでのストーリーを説明する。家族と田舎に住んでいる何処にでもいそうな主婦のメリル・ストリープの元へ、たまたま取材に来たカメラマンのクリント・イーストウッドと知り合って……。
説明した後は並んで映画の続きを観ながら、何となく身体を近付けて、さりげなく寄り添う様に増岡の腕に自分の腕を絡ませてみよう。そうしたら増岡の方でも何かリアクションしてくれるに違いない。
と考えて用意を整えて、リビングの大画面テレビへ向けて置いた長椅子に座り、照明を暗くしてDVDを再生する。観始めて四十分くらいだろうか、玄関の開く音がして増岡が「ただいま~」と声を掛けながらリビングへ入って来た。
「おかえりなさい」と返事をして、そのままの姿勢で映画を観ている。増岡が映画に興味を持って一緒に観てくれることを期待しながら。
増岡は部屋を暗くしたまま映画を観ている状況に戸惑ったのか、少し上ずった声で「ど、どうしたんだ?」と訊ねた。
「今日はちょっとロマンチックな映画を借りて来たもんですから、気分だけでも出そうかと思って」と言って振り返ると、増岡は何か恐い物でも見つけた様な顔をした。
「良かったら一緒にみま……」
「そうかい、ちょっと先に風呂に入ってくるから」
と言ってリビングから出て行ってしまった。仕方なくDVDを止めて、リビングを明るくすると化粧を落し、ネグリジェを脱いで普段のパジャマに着替える。腹立たしい気持ちが沸いてきて抑えられない。
増岡が風呂から上がってくると「今食事の用意しますから」と言ってフライパンに用意してあったレバニラ炒めをじゅうじゅうと温める。
増岡は別に何事も無い様にテーブルに着き、夕刊を開いている。
「どうだい具合は? 立ちくらみとかするの?」
「うん、普通にしてれば大丈夫なんだけど」
「そうか、でもきっと誰にでもあることだから、養生して元気になってね。これから二人でまだずっと過ごすんだから」
「はい」
優しく気遣ってくれている様だが、夫としていうべき当たり前のことを言っているだけの様な気もして、不満に感じてしまう。そんな気持ちを隠す様に遥のことを話題にしてみる。
「遥はちゃんとやってるんでしょうかね」
「大丈夫だよ。連絡がないのが無事な証拠ってこともあるじゃないか」
「そうですね」
「僕たちの子供なんだし、真面目に波風が立たない様に暮らしてるよきっと」
そうだ、私たちは真面目で品行方正な、絵に描いた様なA型夫婦で、娘の遥もA型で、娘の夫になった男もA型。自分たちの後を継ぐ、型通りの血統書付きA型夫婦が誕生したのだ。
キッチンの片付けを終えて、風呂から上がって寝室に入ると、増岡は既にベッドで寝息を立てている。照明を点けて叩き起こしてやりたい気持ちになってくる。
ピッピッとエアコンの温度を二度上げてベッドに入り、増岡に背を向けて毛布を被っているが、今夜も眠れそうにない。また悶々とひとりで過ごすのかと思うと虚しくなってくる。
「いやしかし……」
突然増岡が言葉を発した。えっと思い、起き上がって見ると、増岡は眠ったままである。見ているとまたゴニョゴニュと何か口の中で喋っている。
ベッドから降りて、ベッドの脇に膝立ちになり、増岡の顔に近付いて耳を寄せる。
「だって、泉原さんは……」
泉原さん? 今確か「泉原さん」と言った気がする。誰の名前だろうか、会社の人なのか。
「……の国立大学……看護師の資格まで持って……立派だと思います……」
何か仕事をしている夢でも見ているのだろうか、夢の中でも仕事をしているなんて、何処まで真面目人間なのかと歯がゆくなる。また悪戯心が沸いてきて、そっと毛布を剥がし、パジャマの上から股間を指先でツンツンと突っ突いてみる。
増岡は「アっ」と驚いた様な声を出すので、慌ててベッドの脇に身を屈めて身を隠す。でも増岡は眠ったままだ。
「泉原さん……」
また言った、今度は確実に聞き取ることが出来た。今確かに増岡は泉原さんと言った。
もっと何か喋らせてやりたいと思い、尚も股間をツンツン突いてみる。そのうち心なしかその部分が膨らんでくる。
「ハぁっ……」
と言って身をよじり始めた。膨らんできたところを手の平で握り、もみもみしてみる。
「……泉原さんは……僕のことを、少しは……思ってくれてたのか……」
思って? 何のことだろう、もしかしたら増岡は則子にとって恐ろしい事実を隠しているのではないだろうか、驚きが身体を過る。
まさかこの人が、と恐ろしいやら腹が立つやらで一層力を込めてパジャマの上から固くなった一物を握りしめ、先へ向けてごしごしとしごく。
「アア……アア……」増岡の呼吸が荒くなる。
また夢の中で何をやっているというの、またいっちゃえ、いっちゃえ、そら、どうした。と囁きながら則子はしごく。
「ああ泉原さん……泉原さん……いや、いけない、こんなことをしていては!」
ひと際大きな声を出したと思うと則子の手を払い除ける。則子は驚いてベッドに飛び込み、毛布を被った。
静かになった増岡がベッドから起き上がっている様だった。
バレなかっただろうか……ドキドキしている。このままじっとしていようと思う。
増岡は確かに「泉原さん」という名前を呼んだ。この前の時も誰か人の名前を言っている様だったけれどよく聞き取れなかった。でもこの前もきっと同じ名前を言っていたのだと思う。女性なのだろうか。
則子の背後で起きているらしい増岡は、そのままベッドから出る気配はない。今回は射精までいかなかったのだと思う。またピッピッとエアコンを操作する音がして、そのまま横になり、毛布を掛けている気配がする。
増岡にはまだ充分に男性としての機能がある。なのに二十年以上も則子には見向きもしてくれない。増岡には他に女がいるというのか、だから相手にしてくれないのか。いやしかし真面目一本で、出会った時から絵に描いた様に誠実な増岡に限ってそんなことがあるだろうか。いやしかし昔「うちの子に限って」というドラマも流行った様に、自分の肉親だけは世間の悪い人とは違うという考えは裏切られるのかもしれない。でも本当にそうだとしたら……と思うと強烈な悲しみが襲ってきて、則子は震える身体を自分で抱き締める。
増岡は会社で新しく保健体育の教科書を製作することになり、本文の執筆をかつての則子の恩師である平明福祉大学の伊藤教授に依頼した。近頃は忙しくて毎晩の様に残業で帰りが遅くなっている。それは本当に残業なのだろうか。
泉原さんという人が会社にいるのだろうか。増岡の会社には則子もかつて勤めていた。何か口実を作って会社へ行き、確かめてみたいと思うけれど、退社して二十年以上も経つのだから、何か余程の理由がなければ不自然だと思う。
そもそも我が亭主ながら客観的に見ればこんなにしょぼくれてイケメンでもなく、金も無い中年男に近寄ってくる女などいるだろうか。まさか何処かの水商売の女に入れあげて、大金をつぎ込んで借金をしていたり……と恐い想像が膨らんでしまう。いやでもさっき泉原さんという名を呼びながら寝言で喋っていた時は、仕事のことで同僚と話している様な感じだった。やはり会社の人なのか。
堂々巡りの考えに翻弄されたまま、また悶々と眠れない夜が明けていく。
翌日の夜、いつも帰宅する時間になっても増岡が帰ってこない。遅くなる時は電話をかけるか携帯にメールかラインのメッセージが届くのだが、それも無い。増岡の携帯に電話してみても、呼び出し音の後に留守電に切り替わってしまう。よからぬ妄想が浮かんでしまい、会社へ電話してみようかと思う。でも今時は個人的な連絡は携帯にするのが常識だし、会社へ電話を掛けるのは余程の非常事態の時だけという認識があるので躊躇ってしまう。それでも湧き出てしまう不安をどうし様も無く、遂に電話しようと決心した。
少し緊張しながら遠い昔の職場へ電話を掛ける。呼び出し音が二回も鳴らないうちに受話器が取られ、知的な女性の声が「はい、学育出版の泉原です」と答えた。
「……あの、増岡の家の者ですが、増岡はおりますでしょうか」
普通を装わなければと思うのだが、声に緊張が出てしまっていると思う。
「あ、課長の奥様でいらっしゃいますか、今一緒に教科書の担当をさせて頂いております泉原と申します。いつも大変お世話になっております。少々お待ち下さいませ……」
束の間であったが、若く美しい女を連想させる流麗な声だった。そして電話口の外で増岡に伝えている声が聞こえる。
「課長、家の方からお電話です」
すぐ近くにいたのか、間髪を置かずに増岡の声がする。
「何だい? どうかしたかい?」
それはごくごくいつも通りの、忙しい職場へわざわざ電話を掛けてくるなんて何かあったのかい? という様な、不自然なところは何もない反応だった。
「まだ会社にいるんですか? 連絡もないからどうしたのかと思って」
「それでわざわざ電話くれたのか、今日はもう少し遅くなるから、もしあれだったら先に寝てていいから」
「そうですか、分かりました」
と電話を切った。ドキドキしている。若い女の声がずっと頭に残っている「泉原です」と言った。増岡と一緒に教科書の担当をしていると言った。それは紛れもなく、あの時増岡が夢をみて魘されている時に口にした名前だった「泉原」忘れる訳もない。増岡の頭の中にはその名前が大きな領域をしめて存在しているのだ。
増岡は何時に帰ってくるのか、悶々と待っていると、十時半頃になってようやく帰って来た。先ほどの電話の件もあってなのか「ただいま」と言う声が少し不機嫌で、そのまま「先風呂入るわ」と真直ぐ脱衣所へ入ってしまう。
増岡がバスルームへ入った後、則子はそっと脱衣所へ入り、脱ぎ捨てられた衣服を片付けながら背広のポケットからスマートホンを出してスイッチを入れてみる。今まで殊更見ようと思ったこともない増岡のスマートホンだったが、パスワードが設定されている筈もなく、そのまま電話の発着信履歴を見ることが出来る。
企業名だけだったり、個人の名字と会社名の組み合わせだったりする登録名の中に「泉原沙弥」という名前が並んでいる。メールの受信ボックスを開いてみると「泉原沙弥」からのメールが頻繁に来ている。
文面を開いてみると、大概は仕事上の要件やスケジュールの確認等なのだが、時折り要件を記述した文の最期に「また更科の天そばが食べたいです」とか「今日も残業ならコンビニの黒蜜シュークリームご馳です!」だのと、会社の同僚としては度が過ぎているのではないかと思う親しげな遣り取りがあり、気持ちを乱されてしまう。
他にも何か怪しいことは無いかと手帳も取り出して、ここ最近のスケジュールを見てみると、二日後の木曜日に「十五時、平明福祉大学伊藤教授宅訪問」と書かれており「同行泉原」と書き添えてある。則子はその日付と時間をしっかりと覚え込んだ。
泉原沙弥とはどんな女なのか、どうしてもこの目で確認したい衝動に駆られている。増岡の手帳に書いてあった日野市の伊藤教授の自宅へ訪問するという日に、増岡の会社の前に張り込んで、会社から増岡と泉原沙弥という女が出てくるところを見てやろうと思う。
木曜は普段ならパートに行く曜日なので、増岡は則子はパートに行っていると思うだろう。でも予め今日の計画の為に休みを貰っておいたのだ。
しかしパートをしている時間なのだから、もしも途中で誰かに会ってしまい、思わぬところから増岡に嘘がバレてはならないと思い、普段と違う格好をしようと思う。殆ど掛けたことのないサングラスをして、帽子を深く被る。洋服もめったに着ない物を引っ張り出して着ることにする。
バスで東久留米駅へ出て、西武線の各駅停車に乗り、隣のひばりケ丘で急行に乗換える。池袋から有楽町線に乗換えて市ヶ谷に着き、さらに都営新宿線に乗換えて二駅目の神保町まで何度も乗換えて揺られていく。朝晩のラッシュの時間は乗換えだけでなく満員で大変なのだろうと思う。今更ながら毎日こんな思いをして増岡は私と遥の為に働いてくれていたのだと思うと、何があっても夫には感謝しなければならないのではないかという気持ちも沸いてくる。
いやでも今は、もしかしたら不義を犯しているかもしれない夫の実態を確かめなければならないのだ。と自分を叱咤する。
伊藤教授は日野市に住んでおり、最寄の駅は京王線の高幡不動である。増岡の会社がある神保町から都営新宿線に乗って笹塚まで行き、そこから京王線に乗り換えて高幡不動までは小一時間程掛かる。そこから逆算して午後三時に伊藤教授の自宅へ着く為には、きっと余裕を持って午後一時半くらいには会社を出るのではないかと思う。
学育出版株式会社がテナントとして入っているビルの近くで、そこから駅へ行くには手前で曲がるだろう角の向いにあるビルの脇に立ち、増岡と泉原沙弥という女がビルから出てくるのを見張っている。
七月も中旬を迎えて日差しの圧力は凄まじく、何処からともなく蝉の鳴く声が響いてくる。立っているだけで汗が頬をダラダラと流れていく。でもどうしても増岡が夢の中で狂おしく名前を呼んでいた泉原沙弥という女をこの目で確認したい一心で我慢している。
隠れて夫の行動を盗み見る等ということは、今までの人生にはなかったことだ。暑さを我慢する一方でテレビドラマの主人公になった様で、何かワクワクする気分もあるのだった。
張り込みを初めて早三十分が過ぎようとしている。だが一向に増岡が出てくる気配は無い。本当に増岡と泉原沙弥は出てくるのか、もしかしたら伊藤教授を訪ねる日程に変更があったのかもしれない。いくらここで待っていても無駄なのではないかと迷い始めた時、そのビルの入口から凄く綺麗で洗練されている女性が歩み出てきた。
あっと思って見ていると、その後に続いて増岡が出てきた。目を凝らしてじっとその女を見る。シュッとしたビジネススーツに身を包み、艶のある黒髪とナチュラルでシャープなメイクをして、美しいけれど優秀そうな感じもする。イメージしていた如何にも不倫をしそうな若いOLというよりも、ずっと何か理屈でない女らしい輝きを放っている気がする。
そんな世にも美しい女性の後に続いて来る増岡は、普段見せたこともないデレっとしたにやけ顔をして、我が夫ながら情けないのを通り越して汚らわしい感じがする。
駅に向って歩いて行く二人の後をついて行く。神保町の駅へ着くと、二人は改札の中へ消えて行った。
泉原沙弥の印象は、女の眼から見ても何という美しい人なのだろうと思う。そうなのだ、この泉原沙弥という女性に増岡は夢中になっているのだ。二人が実際に浮気までに発展しているのかどうかは分からない。でも少なくとも増岡は寝言で名前を呼ぶくらいなのだから、片思いだとしても尋常でないくらい彼女に魅かれているのだ。
二人は不倫の関係を結んでいるのか、恐ろしいけれど確かめたい思いに駆られる。かといって興信所に頼むほど大げさにしたくはない。ただこれからの増岡との老後の人生を、邪魔されずに安泰に過ごしたいと思うだけなのだ。
今朝も増岡は残業になるといって出勤して行った。本当に残業をするのか、残業になるというのは嘘で泉原沙弥と一緒に何処かに行くのではないのか、と邪推している。
則子も今日はパートで遅くなると増岡に嘘をついておいて、また密かに終業時間に会社の出入口を見張っていようと思う。
残業をせずに帰ってくるいつもの時間を逆算すれば、遅くとも定時の一時間後くらいには会社を出てくる筈なのだ。夕方の五時ちょっと前からまた会社の入っているビルの角の向いにあるビルの脇に立ち、じっと見張っていることにする。
この時期は五時を過ぎてもまだ日差しが強い。汗を拭き、ペットボトルから水分を取りながらビルの入口を見つめている。
ようやく少し陽が陰ってきた頃、入口から次々と退社して行く人が出てきて駅へと歩いて行く。そのビルには学育出版の他にも様々な会社が入っているので、他の会社の社員たちもここから出てくるのだ。
一時間が過ぎて、六時になっても増岡は出てこない。果たして本当に残業しているのだろうか、あの美しい泉原沙弥さんと一緒にいるのだから、少し残業した後で一緒に会社を出て、その後も残業が続いていることにして何処かへ行くのではないか。本当に残業してから真直ぐ家に帰ってくるのか、それを確かめなければならないと思う。
六時半を過ぎて、もう脚が痛くて立っているのが辛くなってきた頃、先に泉原沙弥が出てきた。あっと思って見ていると、スタスタと前を見て歩き、一緒に増岡が出てくる様子はない。
増岡がいないのなら関係ないのだけれど、もっとこの女のことを観察したいと思い、後をつけてみることにする。
スタスタと早いので見失ってはいけないと急いで歩く。神保町の駅へ来ると自動改札を通って入って行く。泉原沙弥は半蔵門線の渋谷方面へ行く電車に乗った。考えてみれば彼女は則子の顔を知らないのだから、すぐ近くにいても怪しまれることはないのだが、後に何かの機会で顔を合わせることがあるかもしれないのだ。やはり後をつけていることを悟られてはならないと思い、なるべく彼女の視界に入らない様にしようと思う。
混んでいるが冷房の効いた車内に入るとホッとする。電車は動き始めるとすぐに次の九段下駅へと到着する。
泉原沙弥が何処で降りるのかは分からない。ドアの側にいて、駅に着く度に一端ホームへ出てドアの脇に立ち、降りる人をやり過ごしながら、もし泉原沙弥が降りて来たらそのまま後をつけていこうと思う。
そのまま半蔵門駅、永田町駅と乗り進み、泉原沙弥は渋谷で降りた。地下の駅から地上へ出ると、通勤帰りの人や遊び人でごった返す中を、スタスタと道玄坂を登って行く。
こんな繁華街に近いところに住んでいるのだろうか。人ごみを縫いながら速足に歩くので着いて行くのに必死である。息切れもしてくる。ふと自分はこんなに頑張って何をしているのだろうと思いつつ、でもここまで来たからには何処か行きつくところまで見届けてやりたいと思う。
泉原沙弥は道玄坂を登り切る少し手前で右の小道へ入り、一階に飲食店の入った雑居ビルが建ち並ぶ通りを歩いて行く。そしてひとつのビルの中へサッと入って行った。
何気なく通り掛かったフリをしてその前を通りつつ見ると、エントランスで泉原沙弥がエレベーターに乗ろうとしている。行けば一緒に乗れそうだが、そこまですると自分の顔も認識されてしまい、もし後に何かの場で顔を合わせることがあればまずいことになるかもしれない。
一度通り過ぎて、また戻る。エントランスを見ると、泉原沙弥の姿が無い。あっと思ってエントランスへ入ってみると、エレベーターは四階で止まっている。今眼を離したほんの少しの間に上がって行ったのだろうか、それとも脇の階段を登って行ったのかもしれない。
エレベーターの脇にはこのビルに入っているテナントの企業名やお店の名前が掲示されている。エレベーターの止まっている四階は「ソープランド・泡の女王」と書いてある。
風俗店だろうか、あんなに若くて美しいのに泉原沙弥はここで風俗の仕事でもしているのだろうか。まさかと思いながら、脇の階段をそっと登ってみる。二階に並んだドアにはどれも「……ファイナンス」とか書かれているので、金融系の所謂町金のお店らしかった。三階も何軒かの会社が入っているみたいだが、どれも名前だけ見ても何をしている会社なのかよく分からない。四階へいくとフロアー全体がひとつのお店になっている様で、入口が遊園地みたいに煌びやかに飾られており、ピンクの看板に「泡の女王」と表記されている。
則子の人生の中で、こうしたお店を見るのは初めてのことだった。ここへ男の人たちが来て、中で女の人と裸になっていやらしいことをするのだろうか。でもまさかこんなところで泉原沙耶ほどの女性が働いたりするだろうか。
見ると入口の脇に綺麗な女の人たちの顔が映ったパネル写真が並んでいる。どの人も目がパッチリとしてお人形さんの様に可愛らしい。写真の下には「リリー」とか「アリス」とか源氏名が書かれており「清楚な印象からは想像もつかない淫乱女!」とか「巨大なオッパイに埋もれて窒息死したい人続出」というキャッチコピーがついている。そしてパネルの脇に大きく番号がついているのはどうやら人気のある順番の様だ。
その写真を一人一人見ていると、泉原沙弥にそっくりな写真がある。アッと思って源氏名を見ると「サアヤ」と書かれている。沙弥だからサアヤなのか……やっぱり彼女はここで働いているのだ。しかも人気順位はナンバーワンではないか。写真に添えて書いてあるキャッチコピーには「ゴールドフィンガーの持ち主」と書かれている。
ショックだった。何故あんなに若くて綺麗な人が、こんなところで働かなければならないのか、一流とはいかないまでも中堅の編集社に勤めているのだから生活に困ることもないだろうに。それとも何か事情があって借金でも抱えているというのか。
そう言えば昔渋谷であった事件のことを思い出した。一流企業に勤める優秀なOLが、夜になると渋谷の街角に立って通り掛かる男に声を掛け、売春しているうちに何かトラブルに巻き込まれて殺されてしまった事件。あの事件も何故一流企業に勤める女性がそんなことをしていたのかと謎に包まれていたが、それはお金が目的ではなく何か女の業の様なことが囁かれていたのではなかったか。
でも本当なのだろうか、この写真の人は泉原沙弥にそっくりだし、名前も似ているサアヤだ。このお店を経営している人は彼女が神保町で教科書を作る仕事をしているOLだということを知っているのだろうか、確かめたい衝動に駆られるけれど、とてもこの店構えの中へ入って行く勇気は無い。
急にピコピコと音がして、野暮ったい感じのオジサンが出てきた。驚いて素知らぬフリをしていると、後に続いて来た黒服の従業員が「どうもありがとうございました。またのご来店、お待ちしております」とペコペコ頭を下げている。
「来週だったらナンバーワンのサアヤの予約取れるかな」
「お早めにお電話頂ければきっと取れると思いますので、宜しくお願いします」
と言ってまた頭を下げる店員に手を振って、オジサンはエレベーターの前へ行きボタンを押す。
この人はサアヤのことを知っているのだと思い、咄嗟に後に続いてエレベーターを待つ。則子に気付いたオジサンは何だこの人は? という顔でジロリと見たけれど、そのまま黙っている。
何食わぬ顔をして一緒にエレベーターに乗り込んだ。ごくごく普通の、何処にでもいそうなオジサンだったので「あ、あのう」と思いきって声を掛けてみる。
「突然ですいません、あのお店で働いてるナンバーワンのサアヤさんという人のことご存じですか?」
急に言われたオジサンは驚いて則子の顔を見る。
「な、なんだよアンタは」
「あ、あの怪しいもんじゃないんです。私は只の主婦なんですけど、ちょっと知り合いなもんですから」
「知り合いって? 怪しいだろ」
「お願いします。もし知ってたら教えて欲しいんですけど、あの何かご馳走しますので、もし良かったら」
オジサンはじっと則子を見つめている。
「アンタなに? 興信所の人か何かですか?」
「いえ、あのそういう訳では……」
「じゃ何者ですか」
「本当にあの、只の主婦なんです。こういうところに来るのも初めてで」
「じゃ何の為にサアヤのこと聞きたいの?」
この人はさもよく知っている人のことの様にサアヤの名前を口に出した。
「それがあのう」
「もしかしてご主人がこのお店に通ってきてるとか?」
「ああ、はい、実はそうなんです」
思わぬところでオジサンの方から良い口実を持ち出してくれたので、思わずそれに乗ることにする。
「ご主人がここのサアヤに夢中になってて、心配してるんですか」
「はぁ、まぁ、そんなとこです」
「そうか、可哀相にね。でも気持ち分は分かるけどね」
と言ってガハハと笑った。オジサンは自分のことは何も言わないしそちらからも聞かないこと、と約束して、飲み屋で奢ってくれるなら話してもいいよといってくれた。近くの居酒屋に入ることにした。
オジサンから聞いた情報によると、サアヤはあのお店でダントツのナンバーワン風俗嬢であり、特に指を使った男性器への攻め方が素晴らしく、一度味わった男は虜になってしまうのだという。
それではお店の人たちはサアヤが昼間は泉原沙弥として学校の教科書を作るという固い仕事をしているのを知っているのだろうか、探りを入れたいと思いこう質問してみる。
「サアヤさんが勤めているのは夜だけなんですか? 昼間は何か他のことしてるんでしょうか」
「さぁ、知らないけど、ソープ嬢の中にはカモフラージュの為に昼は普通の仕事してるって人も多いけどね」
教科書を作る仕事はカモフラージュというレベルで片手間に出来る仕事ではないと思うのだが……と思っているとオジサンは更に言葉を続ける。
「でもサアヤの場合はAVにも出てるからな、顔バレする危険が高いからね、よっぽど変装とかしないとバレると思うけど」
「は? AVって、あの、ビデオのことですか?」
「そうだよ、サアヤは男に苛められたりレイプされる役もやるけど、逆にSMの女王様系のヤツもあるよ。男のこと縛って動けなくして引っぱたいたり、ムチでしばいたりとか」
といってオジサンは下品な笑い方をする。
「サアヤは苛める方と、苛められる方と両方出来るから人気あるのかもね」
オジサンは則子があまりにそういったことに疎く、聞くことにいちいち驚きの反応を見せるのが面白いのか、ビールを飲みながらにやにやして、とても楽しそうだった。
渋谷から乗った山手線に揺られている。窓の外を夜の都会がキラキラと通り過ぎて行く。こんな風に電車の窓から街を見るのは久し振りだった。光の合間を沢山の人たちが蠢いて、ひとりひとりに生活があって、家族がいて、妻のこととか、夫のこととか、恋人のこととかを気にしながら歩いているのだろうか。今則子もそんな一人として、夫のことが心配でさ迷い歩いているのだ。平穏無事な生活に不満などを抱いた罰が当たったのかなと思う。
泉原沙弥は昼間は勤勉なOLをしながら、夜はソープランドで人気ナンバーワンの風俗嬢であり、またアダルトビデオにも出演しているのだという。増岡はこのことを知っているのだろうか。そのことも承知の上で泉原沙弥と付き合っているのだろうか。
いずれにしても、彼女はそういう人なのだから、もうきっと増岡は泉原沙弥と肉体関係を結んでいるに違いないと思えてくる。あの煌びやかなお店の佇まいと、綺麗なネグリジェ姿で眼のパッチリしたパネル写真を思い浮かべる。ふと身体の底からマグマの様な熱い物が沸き出して顔が火照ってくる。これは更年期障害の症状であるホットフラッシュというものか、それとも夫が他の女に夢中になっている嫉妬の炎が燃えているということなのか、酷く頭がフラフラして俯いてしまう。
悔しくて情けない、今まで自分が守ってきたことは何だったのか。全てを覆される思いがする。則子の身体には指一本触れもしないくせに、泉原沙弥が相手だと増岡は夢の中でもあんなに身体が反応するのか、と思うと歯がゆい。
泉原沙弥はサアヤという名前でアダルトビデオにも出演しているのだという。スマートホンで今まで見たこともないアダルトビデオの紹介ページを検索してみる。検索欄に「サアヤ」と入れるとズラリとDVDのパッケージが表示される。
「テクニシャンサアヤ降臨・貴方のムスコを狂わせる!」「貴方のペットにして下さい」「ゴールドテクニック・神の手で昇天させてアゲル」など、どれもいやらしく意味の分からないタイトルで、パッケージには見るもおぞましい写真が並んでいる。
果たして増岡は泉原沙弥と一体どんなことをしているというのだろうと想像すると、嫉妬というより興味が沸いてくる。セックスという物は結婚した夫婦が子供を授かる為にする神聖な行為である。という認識が普通だと思っている則子には、こんな汚れた欲望を吐き出すアダルトビデオ等というものが世の中には必要だということも分かる気がするけれど、自分で見ようと思ったことはない。
でもサアヤが男性に対してどんなことをしているのか、そんなに男を夢中にさせる行為とはどの様な物なのか、と興味が沸くのだった。
買おうと思えば通信販売で注文すれば、誰にも知られずに買うことが出来る。クレジットカードの明細は自分のスマホでしか見られないし、増岡にチェックされることもないだろう。サアヤのアダルトビデオを注文してみようと思う。
沢山あるタイトルからどれを買おうか迷ってしまうけれど、何となく「ゴールドテクニック・淫乱OL」と「女教師はテクニシャン・先生教えて」という、性的な技術について何か勉強になりそうな感じの二本を選んだ。増岡が仕事に行っている平日に受け取れる時間を指定して注文する。
注文して二日後にDVDが届いた。ドキドキしながら梱包を解くと、スマホで見たのと同じオゲレツなパッケージが現れる。まず「ゴールドテクニック・淫乱OL」のパッケージを覆っているビニールを剥がし、ケースを開けてDVDを取り出しプレーヤーにセットする。
あの美しく清楚な雰囲気さえ醸し出している泉原沙弥さんという人が、一体どんなことをしているというのか、ドキドキしながら再生ボタンを押す。
タイトルと「サアヤ」の名前が出てきた後に、画面はのどかな公園の風景になり、そこをミニスカートに高校の制服の様な服を着たサアヤが歩いて来る。感じの違うメイクをしているし、髪型も色も違うので感じが大分変っているが、顔は泉原沙弥らしかった。
彼女が小道を楽しげに歩いてくるとガラの悪い二人の若者が立ちはだかり、一緒に遊ぼうと声を掛ける。俳優の演技も下手くそでワザとらしい展開である。それでサアヤは近くに停めてあった車に乗せられて行く。
次のシーンはマンションの室内で、入口から半ば強引に連れ込まれて来たサアヤがベッドに投げ出され、二人の男に強姦されていく様が映される。恐ろしいやら呆れるやらで嫌悪感が沸いてくる。
最初は嫌がっていたサアヤだが、男たちから全裸にされ、激しく愛撫されているうちに気持ち良くなってきたのか、次第に呻き声を上げ始めて、脱力して自分から男たちに身体を任せる様になる。そして遂には命令されるままに口や手を使って男たちの局部を愛撫し、そのまま男たちが放った精液を口の中に受け止めて、ダラリと口の端から流れ落ちる。
それまで野獣の様に凶暴だった男たちは射精を迎えると呻き声を上げて、切なそうに眼を閉じた。男性という物は心の底で女からこうされることを望んでいるのだろう。
一本目の作品はそんな風に、サアヤがひたすら悪い男たちに弄ばれて、いい様に奉仕をさせられるという内容だった。続けて二本目の「女教師はテクニシャン・先生教えて」をプレーヤーにセットする。
同じようにタイトルが出た後、舞台は何処かの学校の教室の様である。でも如何にもその辺の会議室か何かを借りて、その一角だけに生徒役の男性を何人か座らせているというのがみえみえで、普通のドラマに比べると安っぽい感じがする。
教室の扉を開けてサアヤが入ってくる。今度のサアヤは先生役で、鮮やかなスーツに銀縁の眼鏡をかけている。昼間のOLの時の泉原沙弥もスーツだが、DVDの中で着ているスーツは余りにも派手な色で、髪も茶髪で濃い化粧をしているので、言われなければ同一人物とは分からないかもしれない。
今度もまた他愛のないストーリーが展開し、教壇のサアヤが「宿題をやって来なかった人はいますか?」と聞く、すると気の弱そうな男子生徒役の、どう見ても三十代くらいの男がおずおずと手を上げる。
「どうしてやってこなかったの?」と厳しい口調でサアヤに聞かれると「す、すみません。難しくて、出来ませんでした」と俯き加減でいう男の表情に増岡の顔が過った。顔はそれ程似ていないのだが、喋り方や声の感じが似ているのだ。
「それじゃ、罰として後で職員室へ来るように、分かったわね?」
「は、はい……」
次のシーンは職員室で、これも職員室というよりは何処かの会社のオフィスで、サアヤが一人だけいるところへ先ほどの生徒役の男が入ってくる。
サアヤはいきなり「それじゃ、ズボンを脱いで」と命令し、その何処となく増岡に似ている男がもじもじしていると「どうしたの!さっさと脱ぎなさい」と激昂する。
「な、何故ズボンを脱がなきゃならないんですか」と質問すると「貴方はね、意地汚い邪念があるから勉強の邪魔になってるのよ!先生がお仕置きしてその邪念を振り払ってあげるから、さっさとズボンを脱ぐの!」。
言っていることがどういう理屈なのか分からない。どうせやることは決まっているのだからさっさと始めればいいのにと思う。結局男はズボンを脱ぐのだが、その情けない姿に増岡が重なってしまい、居た堪れない気持ちになってくる。増岡もきっと、こんな風に泉原沙弥にいいように弄ばれているのだろうか。
ズボンを脱いでパンツだけになった男を淫乱な目で舐め回すサアヤは、男の股間をギュッと握る。男はビクンとして眼を閉じた。その姿にすっかり増岡が重なって見えてしまう。
男はパンツも脱がされ、勃起している股間をサアヤに触られたりして「どうして欲しいの」等と囁かれ、男がして欲しいことを言うと「それじゃまず私にご奉仕してくれなきゃね」と言って椅子に座り、広げた両脚の中に男が顔を突っ込んでサアヤの局部を激しく舐め回すのだ。
サアヤは暫く「いいわ」「上手よ」等と言って一通り呻いた後、今度は「床に寝なさい」と言って男が仰向けになるとその上に跨いで立ち「ご褒美をあげるわ」と言う。まさかとは思ったが男の顔に向って……。
男は顔にジャバジャバとサアヤの放つ尿を浴びながら「先生大好きです、奴隷にして下さい!」と叫んでいる。それはきっと増岡だった。こんなことを増岡は望んでいるのか、情けないやら悔しいやらで身体が震え、涙がこぼれる。
サアヤは勝ち誇った様に高らかに笑い、蔑む目で男を見下ろしている。凄いと思う。こんな人に増岡を取られてしまうなんて、まるで増岡は悪魔に魅入られて解けない魔法を掛けられてしまった虜の様になっているのだ。増岡を取り戻すことなど到底出来ないのではないかと思う。
と同時に圧倒的なサアヤの存在感には、自分もこんな風に男の人を虜にして、自分に逆らうことの出来ない奴隷にしてみたいという憧れの様な思いも起きている。
そうだ、一度は眠っている増岡の股間を握って射精させることが出来たのだから。練習すれば出来るかもしれない。今までは心の繋がりが一番大切なことだと思っていたけれど、男性というものは、こんなにもセックスをすることを望んでいるのだ。
でもこんな凄いことが自分にも出来るだろうかと思うけど、サアヤから増岡の気持ちを取り戻すには、サアヤに負けないくらいのことをするしかないのだ。
それにはサアヤの他のDVDも注文して、もっとテクニックを勉強しなければならないと思う。負けたくない、という意地もある。
泉原沙弥は昼間は学校教科書を作る会社に勤めながら、夜になるとソープランドのナンバーワン風俗嬢、そしてアダルトビデオにも出演している。そんな彼女の正体を増岡は知っているのだろうか。いや知っているからこそ夢中になって夢の中でまでいやらしい行為をしているということなのか。
増岡は実際に泉原沙弥と性的な関係を持っているのだろうか、上手く探りを入れる方法は無いかと考えてみるに、やはり仕事のことに絡めて聞くのが自然ではないかと思う。現に泉原沙弥は一緒に仕事をしているのだし、それに増岡が作っている教科書の本文を執筆しているのは則子が紹介した伊藤教授なのだから、進行状況を則子が気にしても不自然ではない筈だ。
「ただいま」
と今日は定時に増岡が玄関のドアを開けて帰って来た。一度寝室に行って部屋着に着替えると降りてきてリビングのテーブルに着いた。則子は夕食の用意をしながらさり気なく切り出してみる。
「そういえば貴方、伊藤教授の執筆の方は順調なんですか?」
と聞いてみると、増岡は何故か不機嫌になり「ああ、君が心配することはないよ」とだけ答えた。
仕方なく「そうですか」と返事をしたまま会話は途切れてしまい、増岡は片手でテレビのリモコンを操作している。
家では仕事についてはあまり話したがらないのは常のことなのだが、そんな態度に腹立たしい気持ちが芽生えてくる。今回のことは特に伊藤教授に執筆を依頼出来たのは則子のお陰なのだから、今の進行状況を少しは知らせてくれてもいいではないか。
増岡はニュースを見てワザとらしく「そうか、中央線が止まったんだな、だから振り替えの人がいっぱい乗って来て西武線が混んでたんだ」と誰にいうでもなく喋っている。仕事のことから話を逸らしたいと思っているのではないかと思う。
増岡の本当の意思は仕事のことに口出しするなというよりは、本当に隠したいことに少しでも関わられたくない為に、敢えて拒絶している様に感じるのだ。
結局何も聞き出すことは出来ないまま、増岡は風呂から上がると寝室へ入ってしまった。少し遅れて則子が行くと既に寝息を立てている。
恨めしく思いながらエアコンの温度を三度上げ、自分のベッドへ入る。眼を閉じても眠れる様子は全く無い。疲れていても意識が眠ろうとしない。思いを巡らせてはまた悩ましい時を過ごすのかと思うと気が滅入ってしまう。
増岡がまた寝言を言いださないだろうかと耳を澄ませているが、こうして待っている時には概して何も言ってくれないのだ。
ますます増岡に対する憎い気持ちが募ってきて、また悪戯してやりたい気持ちが起きる。ベッドを降りると増岡の脇に立つ。そっと毛布を剥がし、股間の部分を指先でツンツンと突いてみる。
増岡は「ふぃぃ~」と溜め息の様な声を漏らす。DVDのサアヤの様に苛めてやりたい気分になり、今度はまだフニャフニャのその部分を親指と人差し指でつまんだり離したりする。すると段々に大きさを増してきたので五本の指で握ったり扱いたりして刺激する。
サアヤのDVDで学んだテクニックを駆使してやるのだ。サアヤは縛って動けなくした男性の局部に指を絡ませてクネクネと繊細な動きで刺激し、やがて男は身体をのけ反らせて射精させられてしまった。あんな風に増岡のことを自分に服従させてやりたいのだ。
そのままモミモミと刺激していると、不意に増岡が声を出したので驚いて動きを止める。
「何するんだ田所君……田所君……」
田所君? 今日は泉原さんではなく、田所君と言っている。田所君て誰だ? 何か聞いたことのある名前の様で、必死に思い出していると閃いた。そうだ、いつか増岡が部下だといって家に連れて来た若い男性社員のことではないだろうか。
今日はあの田所君と夢の中で何かいやらしいことをしているというのか、と思いながら尚も執拗に刺激してみる。増岡は抗おうと則子の手を払い除けようとするが、その手をかいくぐって尚一層執拗にペニスを責め続けてみる。
「やめろ、やめて田所君……」
そんな、増岡はサアヤさんに弄ばれているだけでなく、部下の男の子とも同性愛の関係にあるというのか。あまりの驚きに頭がクラクラする。それでも激しく愛撫を続けると「ああっ……」と呻く。
するとそのうちに「やめろって!」と声を荒げたかと思うと乱暴に手を払い除け、思い切りオデコをバチンと叩いた。
「あいたっ」
慌てて自分のベッドに飛び乗り、毛布を被って寝たフリをする。叩かれたオデコが痛い。後で増岡が起き上がっている気配がする。何をしているのか、静かだが少し動いている気配がする。今見ていた夢を思い出しているのだろうか。
増岡が考えていることを想像してみると、恐らく夢の中では田所君を叩いたつもりなのではないだろうか。だとすればつまり、増岡は同性愛者でもないのに田所君に執拗に迫られてしまい、それで怒って田所君の手だと思って則子の手を払い除け、田所君だと思って則子のオデコを叩いたということかもしれない。
そうだったらいいけれど、まさか増岡が同性愛者だなんてことは絶対に嫌だ。それではあの好青年な印象だった田所君が同性愛者だということなのか? いやそれも分からない、増岡の夢の中で勝手に同性愛者にされているだけなのかもしれないのだ。
泉原沙弥の素性を知りながら増岡との関係を確かめる術もなく、ただ新たに注文したサアヤのDVDを見ていろいろな性技を勉強するしかなかった。そうして数日が経ったある日、その夜帰ってきた増岡はいつになく上機嫌で、聞きもしないのに自分から仕事のことを喋り出したのだった。
「いや~やっと教科書の全貌が目に入る様になったというか、完成に向けて見通しが出来るところまで来てるんだよ」
「そうですか、良かったですね」と則子はいつになく饒舌な増岡をもっといい気にさせてやろうと相槌を打つ。
「なにしろ今まで扱ってなかった新規の科目だからね、遣り甲斐もあるけど分からなくて勉強しなきゃならないことも多くて大変だったんだよ。伊藤教授には一番お世話になって、君が紹介してくれたお陰だよね、どうもありがとう」
ここはチャンスだと思い、敢えて泉原沙弥の名前を出して反応を見たいと思った。
「そういえば、この前会社に電話した時に最初に出た、確か泉原さんていう人? 綺麗な声で若い感じだったけど、一緒にお仕事されてるんですか」
「泉原さん? うん、この半年一緒に仕事してきたけど、本当に優秀な人なんだよ。二年前に中途採用で入社してきたんだけど、国立大学を出てるし、前職は看護師さんで不妊治療の権威だっていう医者の下で働いてたそうでね」
あまりにも饒舌で詳しすぎる程の説明には、返って何かを誤魔化さなければならない意図を感じる。更に追及したい気持ちになってくる。
「へぇ~いいですね、そんな若くて綺麗な方とお仕事が出来るなんて、それでしょっちゅう会社に残ってお二人で遅くまで残業されてるんですね」
「何を言ってるんだ君は、誰が好き好んで残業なんかするもんか」
しまったと思ったがもう遅かった、僅かな言葉のチョイスを間違ったせいでこちらの意図を邪推されてしまった。ここまでくると売り言葉に買い言葉で応酬が始まってしまう。
「僕だって本当は一刻も早く家へ帰って来たいのに、まだ残っているローンとか、君との生活を豊かにする為に歯を食いしばって残業してるんじゃないか」
「あーらそんなに大変な思いをしてらっしゃったんですか、それはご苦労お掛けして申し訳ありませんでした。でもそんな若くて素敵な女性となら残業もさぞ楽しくしてらしたんじゃございませんの」
いつになく強い口調でそう言うと、増岡は驚き、動揺している様子である。
「な、何を言ってるんだ君は、お、お、男の仕事がどんなに厳しいことだと思ってるんだ」
「泉原さんは女性じゃございませんの」
「あ、それはだから……」
見苦しく狼狽する増岡に怒りと共に情けない気持ちが沸いてくる。口ごもって何も言わなくなってしまった増岡をじっと睨みつける。そして増岡は「何でこうなるんだよ。もう話もしたくない」と部屋を出て行ってしまい、その日から殆ど口をきかなくなってしまった。
こうなったらもっと他にもサアヤが出ている以外のアダルトDVDも注文して、サアヤに負けないテクニックを身に着けて、また寝ている増岡を昇天させてやる、という闘志が沸いてくるのだった。
則子は昔から勉強でも仕事でも地道な努力を重ねて学歴も職業も獲得してきた。何でも頑張って努力すれば乗り越えることが出来ると思っている。すっかり幸せな家庭生活に慣れてしまい、こうした「頑張る」という気持ちを忘れていた則子にとって、図らずもまた情熱を燃やす機会を得たのであった。
繰り返しDVDを再生し、時にはスロー再生にしたりして、男性を攻める手や舌の動きと順番を覚えた。そしていよいよ今夜、習得した技術を駆使して、先に寝てしまった増岡を攻めてやろうと思う。
増岡が寝室に入ってから一時間程して寝室に入ると、既に増岡は寝息を立てて眠っている。そっと毛布を剥がして、股間が見える様にする。そして、最初は微かに感触が伝わるくらいの強さでツンツンと突く。増岡はモジモジと股間に手をやったり、身をよじったりしているが、そのうちに「うふぅ」とか「あっ」と声を漏らし始めた。
そのうちに「泉原さん……」とその名を口にする。カアッと頭に血が登り、増岡の頭の中で何が起こっているのかと嫉妬の炎に身が焼かれる。その悔しさを指先に込めて、更に股間に与える刺激を強くしていく。
「……好きだよ。泉原さん……」
畜生! 畜生! もっと呻け、バカね、触っているのは私なのよ。
とやっているうちに増岡の物はどんどん大きさを増し、パジャマの上からでもハッキリと形が分かるまでになってきた。親指と人差し指でつまみ、DVDで勉強した様に亀頭のくびれの部分に指を回して、首を絞める様にクリクリ揺らして締め付ける。
「ああっ……ああ……」
増岡は顔をしかめ、股間を宙に突き出す様にしてのけ反る。まだまだこのままで終わらせるものか、とパジャマの股間に付いているボタンを外し、そっと手を入れてまさぐり、ペニスを探り当て、パンツの入口から出てくる様に誘導する。
ビョンと音がするくらいの勢いでそれは飛びだしてきた。昔見たことのあるそれと、二十年振りの再会だった。今度は直に指を絡めて、サアヤのテクニックを模倣して指の間に挟んだり、亀頭の尖端を手の平で潰す様に撫でまわしたり、また亀頭の裏側の筋が集まっている一点を指先でクリクリと摩擦する。
「ふうっ……あああっ……」
と増岡は切なそうに身をよじらせている。まだまだなんだから……。
いきり立って先端から透明な液を滴らせているそれに顔を近付けてみると、懐かしい男性の温もりがある。ソフトクリームを舐めるみたいに舌を伸ばして、下から上へベロッと舐め上げてみる。
増岡は「アヒャっ」といって頭をのけ反らせる。自分の身体の中にも熱い部分を感じると、則子の股間は熱くなって、湿り気を帯びている。
則子は口を大きく開けて陰茎をまるごと口の奥まで咥えこんだ。もう逃がすものか、今こそ増岡をこの手に取り戻すのだ。とDVDのサアヤがしていた様に顔を振って唇で亀頭をしごく。
「い、泉原さんっ……」
まだ言うか。眉間にしわを寄せて悶える増岡を横目に一心不乱に続けていく。そのうちにピクッと震えたかと思うと口の中に温かい体液が溢れ出てきた。見ると増岡が目玉をひん剥いて則子を見つめている。
今日こそは私が増岡を昇天させたという満足感がある。則子は怯むことなくどうだ! という思いで増岡を見つめ返した。
第三章 増岡隆二と則子
その朝。増岡と則子は生涯で一番気まずい朝を迎えた。
いつもの様に「お早う」と言って増岡がリビングへ入っても、則子は聞こえているのかいないのか、背を向けたまま朝食の準備をしている。
増岡はテーブルで則子の用意してくれた朝食を食べる。その間も則子はずっと澄ましている。テレビの天気予報では、今日は遅い時間に雨が降るかもしれないといっている。
「帰りは雨になるかもしれないな、傘持ってった方がいいかな」
と言うと、則子は黙って折畳み傘を出してきて増岡の鞄に入れた。
「ありがとう」と言っても返事はない。
「最近身体の調子の方はどう?」と聞いてみると「大丈夫ですよ」とだけ素っ気なく答えた。
則子は怒っている様な態度なのだが、よく考えてみても、増岡には何故自分が怒られなければならないのかが分からなかった。
「それじゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
増岡がドアを出るとすぐに背後でガチャリと鍵を掛ける音がする。何か拒絶されている気がして寂しいが、バス亭へ向かうしかない。今日も朝から日差しが強い。
その日以降、増岡と則子はお互いに余所余所しい態度になった。暗黙のうちにあの夜の出来事には触れないことにして、空々しく日々を過ごすことになったのであった。
あの夜の行為は増岡に対する深い愛情なのかとも思うのだが、それにしてはそれからの増岡に対する冷たい態度は何を意味するのか。嫌われているというよりは、則子の方であんなことをした気恥ずかしさを誤魔化そうとしているのではないかとも思える。
それに則子はあの夜だけでなく、その前にも増岡が何度か泉原沙弥との性的な夢を見た時に、いつもあんな風に増岡の股間を刺激していたのかと思うと、知らぬ間にすっかり弄ばれていた様で、腹立たしく思う気持ちもあるのだった。
そしてよく考えてみると、増岡が夢の中では勿論現実にも泉原沙弥という女にぞっこんであることを則子は知っているのではないかと思い、不安な気持ちになってくるのだった。
かといって則子の真意を問い質してみることも出来ず、歯がゆい日々を過ごしているのであった。
家の中では増岡を送り出してしまうと則子は朝食の後片付けを始めている。いつもの手順で事務的に淡々とする。
則子はあの夜増岡が目覚めた時に、あんなことをしていたことを軽蔑されるのではないかと思った。これまでの自分からは考えられない様な、あの様な破廉恥なことをしたのだ。そのことを恥しいと思う気持ちが強い。それを誤魔化したいので増岡に余所余所しい態度を取るしかないのだった。
しかし正直なところは、増岡に対して恥ずかしいという以上に「してやったり」という思いがある。それにいざとなれば「泉原沙弥のことも全て私は知ってるんだから」という強味もある。それは増岡に対する怒りとなって、自然と威圧する様な態度になってしまうのだった。
「お早う」「行ってきます」「ただいま」「いただきます」……お互いに数える程しか言葉を交わすことなく、それでも普通に過ごしている体で暮らしている。
そうして空虚だけれどお互いの腹を探り合う様な日々が幾日か過ぎて、いつしか気を張っているのも疲れてくる。二人ともそのことの核心には触れずにいながらも、徐々に交わす言葉の数も増えてきた。
やがて普通に世間話等が出来るまでに日常を取り戻したと思われた頃、リビングでテレビを見ながら増岡は則子に切り出した。
「ところで則子……あの時のことなんだけど」
「あの時って?」
則子にも増岡の言うところはすぐに分かったのだが、トボケてみた。
「だからその、あれだよ」
「あれ……はい」
と分かっているという意思を送る。増岡の方は尚も言い出し難そうに間を置きながら言葉を繋ぐ。
「その、あれは、あの時だけだったのかな、と思って」
「あの時だけって?」
「だから、ほら、その前にも、僕のこと、あんな風にしたことあったのかな、って」
「ああ、それは、まぁ、はい、何度かは前にも」
「……」
折角普段の会話が元の様に戻りそうだったのに、またここで気まずい空気になってしまうのは則子も避けたいところだった。なので少しは応じる様に質問に答える。
「最初は手だけだったんだけど、あの時は、初めてですよ、その、口は……」
「そうか」
「……貴方のこと、気持ち良くさせてあげたいと思ったもんだから、いけなかったですか?」
「いや、いけなくはないけど」
則子は少しホッとするが、増岡が知りたいことはもっと先にあった。
「君があんなことするなんて、僕には全く驚きだったけど、でも、それをする、何かきっかけみたいなことは、あったのかな」
則子には増岡が何を気にしているのかということが分かった。きっと泉原沙弥の存在のことを気にしているに違いない。こうなったら言うしかないと思った。今こそ全てを確かめる時がきたのだと思い、腹をくくった。
「最初の時は、貴方が何か寝言を言いながら苦しそうにしてたから」
「えっ、寝言って?」
「はい、誰か、人の名前を呼んでて」
「名前って?」
「泉原さん……って」
増岡はギョッとして則子の顔を見た。
「貴方は泉原さん、泉原さん、って呼びながら、その、おチンチンを大きくして苦しそうだったから、少し楽にさせてあげたいな、って思って」
まるで病気の夫を看病してあげたみたいな言い方になった。でも則子は上手いこと言ってやったと思った。増岡は絶体に見られたくない悪戯を見つかってしまった子供の様に眼を見開いて黙っている。グウの音も出ないとはこういうことなのかと則子は思った。
則子は最初の夜に増岡の寝言を聞いてから、手で増岡の股間を刺激する様になったこと、泉原さんという名前を聞いて同じ職場で働いている人だと知り、どんな人なのかコッソリ会社の近くに行って張り込んで、顔を見たこともあるのだと告げた。
増岡は眉間にシワを寄せて、今までに見たこともない苦渋に満ちた顔をしている。きっとこれから追及されるであろうことを予想して慄いているのだ。でもここで追及の手を弱める訳にはいかない。則子は全てを明白にしなければ気が済まない。
「貴方と泉原沙弥さんという人とは、一体どんな関係なんですか?」
「関係って、ただぼ、僕は一緒に仕事をしてるだけだよ」
「本当ですか」
則子は増岡を睨みつけた。また増岡の表情を見ると、これがそうなのかという言葉が過る。蛇に睨まれたカエルだ。
「ほ、本当だとも、それとも何か、君は僕が泉原さんと何か、ふ、不適切な関係でもあったとでもいうのか」
不適切な関係……ニュースでしか耳にしたことの無い言葉が、日常の中から発せられていることに何か非現実のことの様な感覚を覚える。でもニュースが現実なのではない、これが現実なのだ。
「それじゃ貴方は、泉原さんがソープランドでも働いてることは知ってるんですか?」
「そ、ソープランド? 泉原さんが? そんなことあるワケないじゃないか」
「本当に知らなかったんですか?」
「だからそんな馬鹿な話がある訳ないじゃないか」
則子はテレビの台の後ろに隠しておいたDVDの入った袋を取り出し、中身を出して増岡の前に並べる。
何だろうと思って増岡は手に取って見る。今までにこうした物を殆ど見たことがない。まるで低俗で下品な物だと思っている。そんな物を則子が隠し持っていたことに驚かされる。そしてケースに裸で写っている女優の顔を見た時、更に信じ難い物を目の当たりにして驚愕が心の中に広がっていく。そ、そんなバカな……。
則子は増岡の表情を見て、本当に増岡は泉原沙弥の正体を知らなかったのだろうと感じた。
「これが泉原さんだっていうのか? そんな泉原さんがまさかそんなこと、ちょっと写真が似てるだけだろ」
と言いながら声が震えている。則子はケースからDVDを取り出して、プレーヤーにセットし再生ボタンを押す。
増岡は何か恐い物を見せられるのではないかという予感に怯えている。
映されたのは則子が最初に買ったものだった。画面にはタイトルの後、公園の中を女学生の格好をしたサアヤが歩いてくる。
増岡には、それを見ている自分の眼が信じられなかった。そこに映っているのは、何年か前なのか髪型もお化粧も違うけれど、その顔立ちは紛れもなく泉原沙弥だった。
「そ、そんな、泉原さん……」
信じられないという顔をして増岡は画面にへばりつく。
やがてサアヤがマンションに連れ込まれ、ベッドに投げ出される。豹変した男たちがサアヤに襲い掛かる。
増岡の眼にはまるで本当に泉原沙弥が暴漢に襲われている様に映った。
「や、やめろ! 泉原さん! 逃げろ、お、お前等、警察呼ぶぞ! 馬鹿、よせっ!」
増岡はまるで現実の様に取り乱し始める。則子は笑いそうになったが、それ以上に増岡が如何に泉原沙弥という女を本気で思っていたのかというショックの方が大きかった。
画面では男たちに全裸にされたサアヤが組み敷かれ、身体中をベロベロに舐められていく。
「やめろっ、やめろぉ~あああ、泉原さん! 泉原さんっ……」
増岡を追及する為にしたことだけれど、こんなに衝撃を受けているのを見ると、残酷なことをしている気がして則子には罪の意識が芽生えてくる。いやでも自分は増岡の妻なのだから、追及する権利があるのだと自分にいい聞かせる。
画面で強引に愛撫されていたサアヤはやがて抵抗する気力もなくなり、愛撫されることに身体が反応し始めて、遂には男たちに望まれるままに局部を口にし、自分から男たちに奉仕を始めるのだった。
「ああっ、ああー!」
増岡の脳は今にも壊れてしまいそうだった。あの泉原沙弥が、自分が指一本も触れたことのない美しい泉原沙弥さんが、こんなことをされているのだ! 増岡は身も心もメチャメチャになって破壊されてしまうのではないかと思う。
増岡が発狂するのではないかと思い「もういいでしょ、止めましょう」と則子が再生を止めようとすると、増岡はその手を乱暴に振り払う。
「ダメだ馬鹿野郎!」
涙と鼻水でグジャグジャになった顔で則子に怒鳴り、画面にへばり付く。
画面ではサアヤが男の怒張した局部を夢中になって舐め回し、やがて男がうううっと呻き声を上げ始めた。
「泉原君! あああああ~そんな、そんな馬鹿な、嘘だ、やめろーやめてくれぇ!」
局部を咥えさせたまま男はビクビクと痙攣し、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
放心したサアヤの唇の端からダラリと男の体液がこぼれ出た。
増岡の頭は真っ白になった。自分は壊れたのだと思う。歯車のかみ合わなくなった機械の様に、頭の中でガチャガチャと異音が鳴り響いている。でも心の一方で、やはりそうだったのか……という思いも沸いている。あの泉原沙弥の何ともいえない佇まい。綺麗で清楚で知的で仕事の出来る人なのに、それとは別に根源から湧き出てくる様な女としての存在感。色気というにはあまりにも俗な、もっと高尚で美しい物だ。それを醸し出していたのはこういうことだったのか、増岡には決して受け入れることの出来ない性の世界。
増岡は「おおおおお~」と頭を抱えて泣き崩れた。
則子はどうすることも出来ずに、どうしていいかも分からずに見ているしかない。
やがて増岡は顔を上げると物凄い形相で則子を睨みつける。
「何で僕にこんな物を見せた」
「貴方と泉原さんのことがあやしいと思ったからですよ」
「何だって?」
「だってそうでしょ、何回も寝言で名前を呼んでたし、一体夢の中で貴方は泉原さんと何をしてらしたんですか」
「夢の中で何をしようと僕の勝手じゃないか」
「本当に夢の中だけなんですか」
「当たり前じゃないか、僕は泉原さんに現実には指一本触れたこともないんだぞ」
と自信満々に言いながら増岡の胸中には、みじめで情けない感情が渦巻いている。
「それじゃ、貴方は本当に夢の中でしか泉原さんと関係を持ったことは無いっていうんですね」
「関係って、おかしな言い方するなよ、夢の中のことなんか何もしたことにはならないだろう」
「なりますよ」
「なんで?」
「なんでって、夢の中だろうが何だろうが泉原さんのことを思って貴方はあんなこと」
「あんなことって何だ」
「それはだから、貴方が夢の中でしていたことですよ!」
「……」
「言ってみなさいよ! 何してたんですか夢の中で」
やはり増岡の方が劣勢になり、言い返せなくなってしまう。
「貴方は本当に、泉原さんが夜はソープランドで働いてることや、アダルトDVDに出演してることも知らなかったんですか」
増岡は則子を見て、そのまま放心した様にゆっくり頷いた。本当に増岡は知らなかったのだと則子は思った。
増岡に対する憐れみの様な感情が沸いてきて、それと引き換えに嫉妬と悲しみが薄らいでいく。
「君は僕が寝言で泉原さんの名前を呼んでた時に、いつも横から手を出して弄んでたのか」
と増岡は尚も恨みがましく抵抗する様にいう。則子も言い返した。
「私には何もしてくれないくせに」
「何を言ってるんだ。君は僕に何をされたいっていうんだ」
「セックスですよ」
「……」
その言葉を契機に精根尽き果てた様に、二人はへたり込んでしまった。
再生され続けているDVDの画面では、マンションでのシーンが終わり、次のシーンへ移るまでサアヤのプロモーション映像が流れている。幻想的な加工を施した世界で美しく輝くサアヤが誘惑する様に笑ったり、身体をくねらせて踊ったり。その姿はこの世の物と思われない程美しい。
八月に入り、朝から響いてくる蝉の声も暑さもピークを迎えている様だった。増岡は仕事に出掛ける身支度をして鞄を持ち、階段を下りてリビングへ入る。
「おはよう」
「おはようございます」
「今ご飯よそいますね」
「うん」
「今日は夕方降るかもしれないっていってましたから鞄に折畳み傘入れときますね」
「うん、サンキュー」
いつもの様に増岡はテレビのニュースを横目で見ながら朝食を食べる。
夫婦の日常が戻った。というよりは、お互いに勤めて普通にしていようと務めている。これから老いていく二人にとって、お互いが必要なのだ。二人の生活を守っていかなければならないのだ。どんなわだかまりがあろうと、例えまだ納得出来ないことがあろうとも、この先の為には眼を瞑って行かなければならない。それを暗黙の了解として日々を過ごしているのだった。
「増岡課長、課長? どうかされましたか?」
気が付くと泉原沙弥の顔を見つめていた。我に返って差し出された構成のゲラ刷りを受け取る。
「ああ、ごめんごめん」
「お疲れですか? もし体調とかお悪いのでしたら」
「あ、いや大丈夫だからね、ありがとう」
会社での泉原沙弥は前と寸分の違いもなく、いつも通りに仕事をしている。正体を知ってしまった増岡には、それが態度に出ない様にと思えば思う程、言葉を掛けるにも不自然になってしまい、それを彼女に気付かれてしまうのではないかと冷や冷やするのだった。
増岡が指一本触れることさえ許されない、美しく可愛らしく清楚で優しい泉原沙弥があんなことを! あれを見た時には頭が破裂してしまいそうだった。今も思い出すと平静ではいられなくなってしまう。だからひたすら考えない様にしている。だが事実を無かったことにしようとしても、また目の前に彼女がいる。
泉原沙弥はそんな増岡の胸中を知る由もなく、淡々と生きているだけで、普通に増岡と接し、普通に仕事を続けている。増岡はこの現実を理解することを放棄している。
この泉原沙弥があのサアヤだというのか? 泉原沙弥が前とは全く違う人間に思えてしまう。いや違う人間というよりは、日常に生きる存在を超えた、手の届かない高貴な女神の様にも思われる。それは人知を超えて、理解することも出来ない魅力に満ちた、いっそ平伏してしまいたい衝動に駆られる存在だった。
自宅のリビングで増岡と則子が夕食を取っている時、テレビからそのニュースが流れてきた。
「ニュースをお伝えします。六本木にある高層マンションの一室で、AV女優のサアヤさんが亡くなっているのが発見されました」
アナウンサーの口からサアヤの名前が読まれた時、二人の箸が同時に止まった。
「サアヤさんって、貴方、この人」
「何だって」
驚いてテレビを見る。リモコンで音量を上げる。アナウンサーの説明が続く。
「先月末より連絡が取れないと所属事務所から警察に通報があり、マンションの管理人立ち合いの元に鍵を開けて部屋へ入ったところ、サアヤさんがリビングで倒れており、既に意識がなかったということです。現場には空になった多量の酒瓶や普段から服用していた精神安定剤の容器等が残っており、警察では泥酔状態で薬を多量に服用したことが原因で死亡したのではないかと見ています」
増岡も則子も驚きのあまり見入っている。サアヤが亡くなった、ということは泉原沙弥が死んだということなのか。アナウンサーの説明は続いている。
「遺体の状況からサアヤさんが亡くなったのは二日から三日くらい前ではないかと思われるということです」
「三日前だって? それはあり得ないよ、だって泉原さんは今日だって会社に来てたんだから」
「そんな」
「どういうことだ?」
増岡はテレビの後ろからサアヤのDVDを取り出して、もう一度パッケージの写真をまじまじと見る。
「これは、本当に泉原さんなのか」
その言葉に則子は反論する。
「だって、私は会社から後をつけて、ソープランドに入るとこも見たし、お店に写真も飾ってあったんですよ」
「だからその写真は顔が似てるからそう思っただけなんじゃないのか」
「だって名前だって、沙弥さんだからサアヤさんじゃないんですか?」
増岡はスマートホンででサアヤのことを検索してみると、報道された事件の情報が沢山アップされている。中にはサアヤの生い立ちについて書かれているサイトもあった。サアヤは北海道の生まれで、物心ついた時には両親が離婚して母子家庭だったのだが、男出入りの激しい母親が連れてくる男たちからしばしば性的な虐待を受けていた。それで中学生の頃から素行が悪くなり、家を出て十代の時に売春をして補導されたこともある。そして二十歳の頃からAVに出演し始めたらしい。
「本当に違う人なんですか……」
則子にはまだ泉原沙弥とサアヤが別人だとは信じられない様子である。
「その泉原さんが入ったっていうソープランドは何処にあるんだ?」
「それはだから、渋谷の道玄坂の途中から右に入って……」
「それはもしかしたら、教科書の挿絵を頼んでるデザイン事務所があるビルなんじゃないのか」
増岡は教科書の挿絵を依頼しているデザインの会社が渋谷の円山町にあったことを思い出した。その会社のホームページを開いて所在地の地図を表示して見る。
「はぁ……そうね、もしかしたらここかもしれない」
「もしかしたらじゃなくてそうなんだよ、泉原さんは会社を出た後でこの事務所に寄ったんだよ。教科書の挿絵の打ち合わせをする為に」
「そんな……それじゃサアヤっていう名前はどうなるんですか」
「沙弥だからサアヤだなんて、泉原君がもし本当に風俗嬢やAVに出てたのだとしても、名前とか隠さなきゃならないのにそんなすぐばれそうな芸名にする訳ないじゃないか」
「でも顔は?」
「顔はそっくりだったんだよ、そう確かに」
とDVDを出してまじまじとパッケージを見た。
「そんな……」
増岡の中には則子に対する怒りが沸いてくる。
「全く人騒がせな」
「何よ、貴方だって泉原さんがサアヤだってずっと思ってたくせに」
「はっはは……そうだよ。そもそも泉原さんがまさかそんな、そんなことする訳なかったんだよ」
二人はやれやれという気持ちになり、テレビではまた別のニュースが続いている。
「でも、サアヤさんて人は可哀相ですね、ひとりで死んで、三日間も誰にも発見されないでいたなんて」
更に検索してみると、サアヤの本名は藤久保由美といい、享年二九歳でやはり泉原沙弥とは全くの別人であった。
夜遅くになって、更に詳しい事件の内容が報道された。二人はアナウンサーの話す内容に耳を傾ける。
「サアヤさんには唯一の肉親である母親がおり、兼ねてからアルコール中毒で施設に入っていましたが、サアヤさんが亡くなったとみられる数日前に施設で急死していたことが分かりました。サアヤさんは知人に、いつか母親と一緒に暮らしたいといっていたそうです。サアヤさんは母親を失ったショックのあまり酒を飲み過ぎてしまい、またその時に服用していた精神安定剤の影響もあったのではないかと、関係者はみています」
増岡の頭の中では、まだサアヤと泉原沙弥とが入り混じっており、二人を別々のイメージとして整理できずに混乱している。
DVDの中で乱暴な男たちに凌辱されたり、また時には男たちを服従させて高らかに笑っていたサアヤ。それがあの清楚な泉原沙弥の本性であると心の底から信じていた。でも現実のサアヤは北海道から家出をして東京に来たという、会ったこともない人だった。
ただサアヤも泉原沙弥と同じ母子家庭だった。サアヤは母親が連れ込む男たちに虐待されて、やがては家を飛び出して風俗嬢になり、AVに出演していた。それでもアル中になった母親といつか一緒に暮らすことを夢見ていたのに、その母親が死んでしまい、絶望の中で死んでしまった。
ニュースが終わっても、増岡は点けっぱなしのテレビをただ眺めるともなく眺めている。
則子は夕食の片付けをしながら思っている。泉原沙弥とサアヤとは、ただ顔がそっくりで名前と源氏名が似ているというだけの別人であった。そのことで則子には増岡のいう「泉原さんには指一本触れたこともない」という言葉は本当らしいと思えてくるのだった。
だがしかし、泉原沙弥のことが増岡の全くのプラトニックだったのだとしても、夫の心を奪われていたことに変りはない。そのことを思うとまだ心のわだかまりを完全に消すことは出来ない。
「何故私じゃダメなのよ……」
と則子はぼそっと呟いた。
「どうしたんだい?」
「私は貴方はもう、男性としての機能は失ってしまっているのかと思ってました。でもあの夜、貴方が寝言で泉原さんの名を呼んだ時、貴方の股間を見たら、物凄く……」
「それで君は僕に悪戯したっていう訳か」
「悪戯だなんて」
「じゃあなんだよ」
「いいじゃありませんか、私たちは夫婦なんだから」
夫婦だから……増岡の脳裏に泉原沙弥がいっていた「夫婦は死ぬまでセックスをするべきです」という言葉が思い出される。
「泉原さんとなら出来て、どうして私とは出来ないんですか」
「違う、僕はやってない、夢の中だけなんだから」
「だから夢の中でなら出来るんですよね」
「……」
その時、則子の脳裏に降って沸いた様にある考えが浮かんだ。
「夢の中でなら、泉原さんとなら出来るんですよね? それなら私が泉原さんの代わりになってあげます」
増岡は驚いた顔をして則子を見る。
「そんな、どうやって?」
「目隠しをすればいいんじゃないですか、それで寝るのよ」
「それで、どうするんだ?」
それは増岡を取り戻したい則子の考えた、正に苦肉の策とも取れるアイデアであった。
「だから、寝る時に目隠しをしておいて、また貴方が魘されて泉原さんの名前を呼び始めたら、私が泉原さんの代わりになっておチンチンを揉んであげます。貴方はそのまま泉原さんにして貰ってるつもりで気持ちよがればいいのよ」
「なんだって?」
「つまり貴方は眼が覚めても眼を開けない様に目隠しをして、もし眼が覚めちゃってもそのまま夢の中のつもりでエッチしてると思えばいいの」
増岡には則子が何をいっているのか理解出来ない。
「だから、私が泉原さんの代わりに身体を愛撫してあげるから。貴方は泉原さんにされてるつもりで楽しめばいいのよ」
「でも、そんなこと、出来るかな」
「やってみましょうよ。それで眼が覚めても、もしかしたらそのままの気持ちで私の身体とセックス出来るかもしれないじゃないですか」
なる程と増岡は理屈が分かり、考えてみる。
「いや、でもそれは……うん、試してみる価値はあるかな」
「そうよ、やってみましょう」
眼隠しといっても眼の部分だけを隠してゴムひもで止める様な物ではすぐに外れてしまうので、則子は手芸店へ行き、柔らかくて黒い布で、良さそうな物を選んで購入してきた。増岡はその日から目隠しをして寝ることになった。
しかし、寝る前になるべく泉原沙弥のことを考えて寝る様にしても、なかなか夢に出てきてくれなかった。それならばサアヤではどうかと則子は提案するが、サアヤのことを考えると不憫な気持ちになってしまい、余計ダメな気がした。
それでも増岡は久し振りに則子と二人でひとつのことに取り組んでいる気がして、頑張ろうと思うのだった。
しかし二人の努力にも関わらず、それから何日が過ぎても泉原沙弥が夢に現れることは無かった。
「課長、お早うございます」
朝の有楽町線のラッシュの中で、また田所正平が場違いの陽気な声を掛けてくる。
「ああ、どうだい調子は?」
と仕方なく応じる。
「いや凄い今充実してるんスよ。前と違って受け持ちのところだけ作るんじゃなくて、教科書の全体を見通しながら皆に担当を割り振ったりするじゃないですか、何か責任感とか全然ちがってますね。課長の下にいた頃の経験がバリ役に立ってますよ」
自分が企画を通した教科書の製作で陣頭指揮を執っているらしく、張り切っている様子がキラキラした瞳に現れている。
田所がこの仕事を仕上げれば、十月の人事で係長に昇進するのではないかと噂が流れている。とすれば現係長のうち誰かが課長に昇進すると思われるが、今三つしかない課長職にいる誰かが部長に昇進するか、さもなければ誰かが出向の憂き目に遭うのかもしれない。 増岡は製作中の保健体育の教科書が来年四月の文科省の検定を迎えるまでは出されることはないだろうと思うけれど、もしかすると田所の昇進も来年へ持ち越されて、四月のタイミングで自分が出されるのかもしれないと思うのだった。
いつもの様に神保町で降り、二人で会社のあるビルへと向かう。そこへ後ろから「課長、田所さん、お早うございます」と泉原沙弥が声を掛けてきた。
振り返って彼女を見ると、途端に眩しさが飛び込んでくる。
「ああ、お早う泉原さん」
と返事をした田所も一気に目が覚めた様な笑顔を浮かべて泉原沙弥を見た。
「お早う」
と言った増岡の言葉はタイミングがずれたのか彼女の耳には入っていない様だった。
「田所さん先日は飲み会ありがとうございました。すっごい楽しかったです」
どうやら以前に田所が誘っていた飲み会に参加したらしい。そのことを増岡は知らなかった。
「とんでもないです。泉原さんが来てくれたお陰で他の男子も喜んでたし、感謝してますよ」
「本当? なら良かったけど、是非また誘って下さい」
「こちらこそ宜しくお願いします」
増岡はそこには存在しないかの様に、二人はキラキラした会話を交わしている。
増岡は会社へ仕事をしに来ているのだから、他の誰が誰と付き合おうと、自分の目的とは関係無いのだから……と自分にいい聞かせてみても、何とも悔しいというか、疎外された惨めさに襲われてしまうのだった。
製作中の教科書は八割方の執筆が終了し、残りのページの執筆と校閲作業が終わればいよいよ全容が見えてくる。それに伴い掲載する統計データやグラフ、画像の選別とレイアウトなど、仕上げの作業はまだまだ続く。
「それにしても泉原さん。ここまでよく頑張りましたね」
「そんな、急にどうしたんですか課長」
作業をしながら、さりげなく切り出したつもりだった。
「いやちょっと感慨深かったから、まるで娘の様な泉原さんとここまで一緒にやってこれたことにね」
「私もお父さんみたいな課長とやってこられて良かったと思ってます」
「そうかい」
「私、今未だ交際してる人とかいないんですけど、もし結婚とか決まったら真っ先にご報告しますね」
まるで既に目星を付けた相手が決まっている様な言い方だった。それはきっと増岡の中では田所正平だった。
泉原沙弥はこの会社内で誰より近しい間柄として増岡を認識してくれている様だが、それは決して男性としてでは無かった。当たり前のことなのにショックだった。泉原沙弥は増岡のことを異性としてなど微塵も思っていない。欠片も、塵ほども。海岸の砂浜の一粒の十分の一の半分ほども思っていないのだ。粒子の何ミクロンの一ほども、眼に見えない分子の程にも思っていない。
辛いのは、まだ教科書が完成するまでずっと泉原沙弥と作業を続けなければならないことだ。辛い、好きだ。それを言ってはならない、言ってしまえば仕事に支障を来たすどころか、彼女から軽蔑されてしまうのだ。
また幾日かして有楽町線の中で田所と会い、彼がまだ独身であるということを踏まえてそれとなく聞いてみる。
「どうなんだよ、そろそろ仕事も軌道に乗って来たし、本当に付き合ってる女性の一人もいないのか」
「はぁ、まぁ」
とはにかんだ様な、誤魔化す様な曖昧な笑いを浮かべる。
「うちの泉原さんはまだ独身で彼氏もいないみたいだけどな」
「ああ、はい、実は課長だからいいますけど、今泉原さんと付き合ってるんです」
と小声で言った。瞬間増岡の全身に居た堪れない震えが広がっていく。
「そうか、それは良かったじゃないか」
元上司である威厳を保ち、必死で平静を装っている。きっとこのまま泉原沙弥は田所正平と結婚してしまうかもしれない。
田所も増岡の心中など想像もしていないだろう。いつもに増してニコニコしている。その顔が恨めしい。でも田所に聞いてみたいことがあった。
「ところであの泉原さんという人は、どうなんだろう、その、男性経験というか、前にもその、お付き合いしたことがあるんだろうか」
「始めてだっていってました。母子家庭で苦労して、学生の頃もアルバイトと両立するのが大変で、とても男の人と付き合ってる暇なんかなかったそうです」
泉原沙弥はサアヤどころか、まだ男性経験もない生娘だったということか。増岡は驚きと同時に今まで泉原沙弥に抱いていた妄想のことを思うと、恥ずかしく、自分に対する激しい軽蔑を覚えるのだった。自分はクズだ。
そんな泉原沙弥だから、彼女を女として見て思いを募らせていた増岡の視線に気付く筈もなかったのだ、と納得することが出来た。
八月も中旬のお盆を迎えて、増岡も今日から三日間はお休みである。朝から遥が初めての里帰りにと夫の運転する車でやってきた。まだ二ヶ月しか経っていないのに遥は懐かしいといって、何も無くなっている自分の部屋に入ってみたり、一緒に昼食を取り、午後はケーキを食べてお茶を飲み、二人の仕事のことや最近のこと等を話した。
則子がまだ言わないで欲しいというので増岡も則子が更年期の治療を受けていることは言わなかった。そして遥は明日も店舗が営業しているというので、夕方には夫と二人で帰って行った。
則子は明日と明後日は午後から夕方にかけてお弁当屋のパートに出掛けるが、増岡が休みで三日間も二人で過ごすというのは初めてだった。
今夜もベッドに入る増岡の眼に則子は黒布を巻いて目隠しをする。こうして眠る様になって一週間程になるが、一向に増岡が寝言をいう様子は無い。
増岡としてはもう泉原沙弥に対する恋慕よりも、諦めと絶望の方が強くなっている。だから夢にも出てこないのではないかと思った。
「じゃ今夜も泉原さんが出てくる様に頭に思い描いて寝て下さいね」
「ああ、分かったよ」
と言って照明を消した。その夜、遂にその時はやってきた。
則子は今夜も寝付くことが出来ず、ゴロゴロとベッドの上で何度も寝返りを打っている。すると増岡の方から微かに「うう~」と息の漏れる様な声が聞こえてくる。ハッと思って増岡の方を向き、耳を澄ます。
「……い、いずみはら……さ……ん……」
きたっと思い、そっとベッドを降りて隣りのベッドの脇から増岡に顔を近付ける。
「いずみ、はら、さーん……」
夢の中では、増岡はあのDVDに出てきた公園を歩く泉原沙弥を追い掛けている。それはサアヤではなく泉原沙弥であり、服装も普段会社に着て来る様なビジネススーツの出で立ちである。
「泉原さん、泉原さん!」
増岡が必死に呼びかけても泉原沙弥は全く耳に入っていない様にキッと前を見てスタスタと歩いて行く。すると前方に二人の柄の悪い男が立ちはだかり、ニヤッと笑うと「手伝ってやろうかオッサン」と言った。
増岡は「ああ、頼むよ」と言って男たち二人と泉原沙弥を捕まえに掛かる。
「やめて、やめて下さい」
と暴れる泉原沙弥を、増岡は後ろから羽交い絞めにし、一人は腰を抑えて、もう一人は両脚を抱えようとするのだが、暴れるので上手く出来ない。
則子のいるベッドの脇では、何をしているのか眠ったままの増岡が両手を振り回したり、則子の腕をつかもうとするので、則子はその手を必死で振り払っている。
夢の中ではなんとか泉原沙弥の身体を三人で持ち上げると、公園の脇に停めてあるワゴン車に運び込んだ。
そこでシーンが変り、マンションの一室に増岡と男二人が泉原沙弥を連れ込み、ベッドに投げ出した。
「キャーっ」と叫んでベッドに転がった泉原沙弥に増岡と男たちは襲い掛かり、衣服を剥ぎ取っていく。
泉原沙弥が全裸になったところで増岡は「お前等は出て行け! ここから後は僕がひとりでやる!」と怒鳴り付けると、男二人は消えて行った。
増岡も全裸になり、泉原沙弥に馬乗りになって両手を押さえつけ、顔中をベロベロに舐める。そして首筋、肩、胸と唇を押し付けて舐めていくと、泉原沙弥の身体から力が抜けて、されるがままになってきた。そのまま胸に激しく吸い付くと「ああ~」と今度は歓喜の声を漏らし始める。もう両方の手を離しても抵抗はしない。増岡は泉原沙弥の股間に顔を埋めて夢中で舐め回した。
そうして身体を起こすと、泉原沙弥の両脚を肩に担ぎあげ、増岡の怒張した亀頭を泉原沙弥の陰唇に入れようとあてがった。だが刺し入れようとしてズンと押すのだが亀頭の固さが足りないのか、固く閉じられた陰唇を開いて貫くことが出来ない。あっと思って何度も刺そうとするのだが、やはり固さが足りないのか弾かれてしまう。
「うっふふ……あはは……ダメじゃないですか」
組み敷かれていた泉原沙弥は笑い始めたかと思うと、増岡を跳ね除けて立ち上がった。
「何やってんだよ役立たずのクソジジイ!」
その顔はDVDで男優の上に仁王立ちになっていたサアヤになった。唖然とする増岡をベッドに突き倒し、その顔を足で踏んづけてグリグリと踏みにじる。
「エロジジイが、そんなに好きなのか」
「はっ……はいい……好きです。好きなんです」
ベッドの脇で則子は、眠ったままの増岡が苦しそうに呻く声に、夢の中で何が起こっているのだろうと訝しんでいる。
「お前なんかこれでも喰らうがいい!」
と言ってサアヤは立ったまま仰向けの増岡の顔に小便を振りまいた。
「あばばばば……ごぼげほげほ……」
ベッドの脇では増岡のあまりの魘され様に起こそうかどうしようかと則子は迷っていたが、増岡の股間を見ると激しく勃起しているのだった。
思わず則子はそれをパジャマの入口から探り出し、ビョンと飛びだしたそれをギュッと握り、ギュウギュウと扱いた。
増岡の上で仁王立ちになったサアヤは上体を屈めて増岡のペニスを握り、両手でぞうきんを絞る様にトルネードにしごき上げる。
「お前なんかこれでいっちゃいな、ハハ、果てろ果てろ!」
「わわわわわ、わひゃあああ~」
増岡は今までにない激しさで身体を脈打たせたかと思うとドクドクと射精し始める。則子は急いで口に咥えて増岡の放出した精液を口の中で受け止めた。
増岡は眼を醒ました。でも目隠しをしているので眼を開くことは出来ず、まだ暗黒の中にいる。でも認識していた。夢の中でペニスに感じていたことは、現実には則子がしてくれていたのだ。則子が与えてくれた快感なのだ。
「則子、目隠しを、取ってくれよ」
則子は口の中の精液をティッシュに吐き出して処理すると、増岡の顔から黒布の結びを解いて目隠しを取る。
眼を開いた増岡はそこで則子を認識し、ひとこと「あ、ありがとう……」と呟いた。
その翌日も仕事が休みで、増岡はリラックスした気持ちで一日を過ごした。当然ながら現実の泉原沙弥に会うこともなく、だから昨夜見た夢の、妄想の世界に浸っていることが出来た。
また夕方になってパートを終えた則子が帰ってくると、昨夜取り戻した二人だけの楽しさに胸が沸き立つ様な気持ちを覚えるのだった。
それ以来、増岡は何かコツを得たというのか、現実の泉原沙弥やサアヤとは区別して、夢の中のこととして、妄想としての彼女を登場させることに抵抗が無くなったせいか、頻繁にその夢を見ることが出来る様になった。
増岡はその泉原沙弥でもサアヤでもない、夢の中に登場するその女に「サヤ」と名づけて、その趣旨を則子にも説明した。これからは増岡と則子は、増岡の夢に登場する架空の人物を「サヤ」として認識することにしたのだった。
しかし則子は、自分から増岡を愛撫するだけでなく、自分も愛撫されたいと思う様になった。
その夜眠りについた増岡の夢にサヤが登場した時、則子は増岡のペニスを刺激して充分に勃起させた後、パジャマを脱いで全裸になった。そして目隠しをした増岡の顔に自分の乳房を押し付けた。果たして増岡は眼が見えないまま口を開いて吸い付き、ベロベロと舌を出して則子の乳首を舐め回した。夢の中で増岡はサヤに組み敷かれて、無理やり押し付けられた乳房を舐めているのだった。
「ああっ、ああ~」
則子の身体に、忘れていた歓喜が二十年振りに響き渡る。
「ああっ、サヤ、サヤ様~」
則子は胸を離すと、今度は増岡の顔の上に立ち、そっと腰を屈めてむき出しの局部が増岡の口に当たる様にした。
「さぁ、舐めてよ」
と言った則子の声は夢の中でサヤの声に吹き換えられている。
増岡はサヤの股間を夢中で舐める。
「はあっ、はああ~」
堪えきれなくなった則子は腰を離し、そそり立つ増岡のペニスの上から腰を下ろしていく。充分に潤滑した則子の股間は抵抗なく増岡のペニスを迎え入れた。
「アアっ、アアアっ!」
腰を屈めたり伸ばしたり、陰唇を引き締めて増岡のペニスを上下にしごく。その度に則子の身体はビクビクと震え、全身を刺し貫かれる感触に身体をのけ反らせた。
「はあっ、はあ~サヤ、サヤさまっ!」
増岡は組み敷かれたままビクビクと身体を波打たせ、跨った則子の奥深くまで放出したのだった。
その日からは増岡だけでなく、則子もまた目隠しをした増岡を相手に身体的な快楽を得ることが出来る様になった。
その行為を繰り返す様になって、二人はお互いのタイミングや、呼吸が合う様になり、則子は上手くなって増岡のツボを全て心得る様になった。そして増岡を快楽の絶頂へ導いてくれる。
増岡は毎回「サヤ、サヤ~」といって絶頂を迎えるのだ。夢の中での対象は実在する泉原沙弥でもAV女優でもなく、この世に存在しない架空の人物になったのだけれど、やはり則子は寂しい。そうだ、如何に則子が増岡との性交に喜びを感じていようとも、増岡の意識の中にいるのはサヤであって、私ではない……。
則子は決意した。増岡の身体だけではなく、増岡の心も取り戻すのだ。その夜、増岡の夕食に睡眠導入剤を入れた。
そしていつもの様に目隠しをして増岡が眠りについた後、則子は部屋の照明を点けて明るくし、増岡のパジャマを脱がせに掛かる。睡眠導入剤の効果で増岡はいつにも増して深く眠っているのか、眼を醒ます気配はない。上半身のボタンを外し、増岡の身体を右に左に転がしながら袖から腕を引き抜いた。ランニングシャツを頭から抜き取り、パジャマのズボンを抜き取り、パンツも脱がせる。
そうしてそっと増岡の両手と両脚を伸ばして、目隠しと同じ布を使ってベッドの四方に大の字に括りつけた。
則子もパジャマを脱いで全裸になり、増岡の上に乗って全身を舐め回していく。
則子が与える刺激によって増岡の中で夢を引き起こしたのか「うう……ぁあ……」と溜め息が漏れ始め、やがて「サヤ……サヤ様ぁ……」と呻き始める。
手足が縛られていることに錯乱して暴れ始めるのではないかと思ったが、きっと増岡も了解して、夢の中でそれに見合う脚色がなされているだろうと思われた。
夢の中では広い原っぱの真中に置かれたベッドの上で、増岡は手足を縛りつけられ、その上に跨ったサヤに凌辱されていた。
「サヤ様、サヤ様~」
則子は一層激しくベロベロと増岡を攻め続ける。そしてピンとそそり立ったペニスに両手の指を絡め、テクニックを駆使して責めたてる。張りつめて怒張した亀頭に舌を絡めて舐めいたぶる。
増岡は一層切なそうに身をよじらせて「はぁ~ああ~」と呻くのだが、両手足が括りつけられているので逃れることは出来ない。
増岡の上に跨ったサヤは、果てしない青空をバックに増岡を見降ろして言う。
「どうして欲しいの? さぁ隆二、いってごらん」
「入れて下さい~イカせて下さい~お願いです、サヤ様ぁ~」
則子は身体を起こし、増岡のペニスを股間にあてがい、腰を落して奥深く飲み込んだ。
「ああ~」
激しく腰を上下させて容赦なくシゴキ上げる。増岡は気も狂わんばかりに顔を左右に振って身体をのたうたせる。
絶頂を迎える寸前になって、サヤの身体が増岡から上に離れ、空に浮かんで上昇して行く。
「ああっ、ああ~」
絶頂の寸前で引き抜かれて離れてしまったことに、何故やめてしまうのか! といわんばかりに増岡は身体を揺らして抗議している。
「ダメよ、まだダメ」
「どうしてですか~サヤ様、お願いです、お願いします~」
増岡の興奮が収まったところで則子が再び腰をあてがうと、中空高く舞い上がっていたサヤが下降し、ブスリと増岡のペニスに突き刺さった。
「おおおーー!」
則子は更に激しく引き絞りながらズルズルと腰を上下させる。
「はぁっ、はぁ、あーー」
増岡は快楽に身をよじる。また絶頂を迎える直前で引き離した。サヤの身体がロケット打ち上げの様に空高く飛んで行く。
「ああっ、ああーーどうしてですか! サヤ様ーっ!」
サヤの身体は点になり、見えなくなってしまった。絶望感に浸っていると、空に黒い点が現れ、それが段々股を広げたサヤの姿になり、垂直降下して増岡のペニスに刺さった。
「わひゃー!」
そうして腰で絞り上げ、三回目にまた絶頂を迎える直前になって、則子は増岡の頭の後ろに手を回し、結び目を解いて目隠しを取り去る。
サヤの背後に眩しい太陽が現れ、サヤの姿は逆光の中でシルエットになった。
「さぁ、見てよ、私はサヤじゃない、貴方としてるのは私なのよ、見て!」
増岡の両目を指で押し広げる。逆光のシルエットから現れたのは則子だった。増岡はギョロリと則子の顔を見た。でも腰の律動と上り詰める快感を止めることは出来ない。
「則子よ、さぁ隆二! 呼んでよ、則子って、則子って呼んでよ!」
身体がひとつになり、一緒に歓喜を迎えるのは則子だ。
「のっ、のっのっのっ、則子ー!」
ビクンビクンと身体をのたうたせて、白目を剥いて増岡は放出した。則子は身体の奥深く増岡の命が撃ち込まれてくるのをしっかりと受け止めた。
両手足を括りつけていた布を外すと、二人は猛烈に抱きしめ合い、舐め合い、泣いた。則子は増岡を取り戻した。愛し合い、二人だけの境地へと入って行った。
エピローグ
翌年の四月になった。天気の良い休みの日に増岡と則子はお弁当を持って電車で出掛け、桜の名所である石神井公園に来た。
池で白鳥の形をした脚漕ぎボートに乗り、二人でバシャバシャと漕いでいる。ペダルを踏んでいる脚の動きは二人ともしっかりした物で、力を入れて漕ぐとスイスイと中々のスピードが出る。
あの夜から、増岡は目隠しなどすることもなく、則子を愛した。則子の身体で射精することが出来た。いや最早則子の身体でしかイケない身体になっていた。
ゆったりと広がる池の水辺に立ち並んだ桜の木は満開で、空よりも眩しい桜色に包まれている。二人でいることがこんなにも良かったという気持ちが、そのまま風景になっている様だった。
遥は妊娠し、今年の秋に生まれる予定である。まだ性別も分からないのに増岡と則子はデパートを巡ってベビー服やベビーカーを買い漁っている。
増岡が担当していた保健体育の教科書は完成し、無事文科省の検定にも合格することが出来た。田所正平は係長に昇進し、増岡は半ば予想していたことだが、関連会社である印刷会社への出向が命じられた。
でもそれも、何故かまたこれからの幸せの始まりの様でもあり、憂える気持ちなどは少しも感じずにいるのだった。
泉原沙弥は保健体育の担当が終わり、また新しい企画プロジェクトに参加してバリバリ頑張っている。田所正平との交際がどうなっているのかは、増岡の知る由もない。増岡は只何の他意もなく、泉原沙弥にはサアヤの様な憐れな行く末ではなく、幸せになって欲しいと思っている。そして自分にも、より一層の安堵が欲しいと思うのだった。
増岡に性愛の欲望を蘇らせた泉原沙弥と、則子に男性に歓喜を与える性技を授けたサアヤ。その二人を合体させた「サヤ」の存在とは何だったのか。
池の水面に漂うピンク色の花びらたちが、その何もかもを肯定している様に映った。
了
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