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「来年になったら居抜き物件を探そう」と言われているのに、何ひとつ具体的な返事をしていない。
仮の店名を表紙に書いたノートには、試作したレシピや食べ歩いたメニューをすべて覚え書きしてある。不安を文字で埋めているうちにすでに三冊だ。資金だって僕の蓄えを足せばなんとかなる。にもかかわらず、僕は鬱々としていた。
現在働いているレストランは創作フレンチの人気店だ。ホテルのレストランでシェフをしていたオーナーが、地元で採れる食材を見直してもらいたいという思いをこめ、御両親の故郷で開いたらしい。入店して五年余り。鍋磨きばかりしていた最初の頃に比べれば、任せてもらえる仕事には格段の違いがある。だが、どんなに技術を真似ても調理実習をしていた学生時代と自分の意識が変わらない。自分を料理人だと胸を張れないのだ。
「朋希はお腹をすかせたお客さんのことだけを思って料理すればいい。昔、俺におにぎりをくれた時みたいに」
佳生の言葉は、僕の体中全部に染みわたるみたいだった。料理を始めた頃のわくわくした気持ちが胸によみがえる。お祝いの席なのに泣いてしまいそうで、僕はうつむいて懸命にこらえた。
背中に祖母の手の温もりを感じていると、思いだしたような美佳さんの声がした。
「あ、そうだ。せっかくのお料理だけど、お腹がいっぱいにならないうちにケーキも出していい?」
美佳さん自身が買ってきた有名店のケーキが冷蔵庫に入っている。その明るい口調に助けられ、僕は顔をあげた。祖母が三分の一ほどしか食べていない皿を困り気に見ている。
「大丈夫だよ。ちゃんと粗末にならないようにするから」と声をかけると表情がほっとした。
「私と分けっこ、しましょ」
色とりどりのケーキを見せながら美佳さんが祖母に提案している。ほんとうにどこまでも親切な人だと思う。
その日僕は幸せそうに笑う祖母の顔を自分の目に焼き付けた。
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