第三章 夢の形、愛のカタチ

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 自宅に戻るとすぐに菜々子が近寄ってきた。大事な話があると切り出す顔は不機嫌そうだ。  僕はいよいよだと腹に力をこめる。もう子どもではないから、何を言いたいのか十分に想像できる。二人きりで話したいと主張する菜々子に、祖父の古い友人である田崎さんと啓子おばちゃんの同席を認めさせた。  リビングの座卓に四人分のお茶を用意して、まっすぐに向きあう。  お別れの場に駆けつけた美佳さんと、僕の隣から片時も離れない佳生が廊下で待機してくれている。 「遺産のことなんだけど」  菜々子は前置きもなしに切り出してきた。自分の母親の様子などには興味もないようだ。 「公正証書遺言がある。俺ともう一人が証人になってる。読んでみてくれ」  田崎さんに同席してもらったのはこのためだ。内容は僕もまだ知らない。祖母は「お婆さんの戯れ言だからって聞きいれないかもしれないから」と証人をお願いしたらしい。万事に気の回る人だったから、きちんと書面にしたかったのだろう。 「あたしには二百万円の保険金だけ? は? 何言ってるの? それだけのはずないじゃない。貯金は? 父さんの保険金も残ってるでしょ」 「僕が受け取るのも定期預金を二百万円です。普通預金の残高は諸々の支払いで無くなってしまいますから。銀行の証明書もあります。それにおじいちゃんのときは三百万円受け取って、判を押してますよね」 「あのときはまだお前の学費とか色々かかるって言われたから、とりあえず承知したんじゃない! 母さんの貯金やこの家を相続する権利は私にもあるはずよ! 娘の私をさしおいて孫のあんたに相続させるっていうの? この家もお金も?」  菜々子が恥も外聞もなくまくしたてる。 「僕がおじいちゃんたちと養子縁組しているのを忘れてしまいましたか?」  僕は怒りより悲しみを感じていた。菜々子が再婚するとき、小学生だった僕は祖父母の籍に入っていた。その書類にどんな気持ちで署名したというのだろう。 「太一さんの保険金は学費と家のリフォームとお墓代に充てたそうよ」  啓子おばちゃんが苦々しげな顔で説明してくれる。書面を睨みつけていた菜々子がヒステリックな声をあげた。 「なによ! みんなしてよってたかって! あんただってこんな古い家もらったってうれしくもないでしょ! さっさと処分してしまえばいいのよ!」 「僕はここに居続けます。ここが僕の居場所なんですから。納得できないなら申し立てでもなんでもしてください」  取りあわない姿勢を崩さず、毅然と言い放った。この家を手放すなんてありえない。 「あんたのその顔! あたしをバカにしてるんでしょ。ほんと誰かにそっくり。もういいわ!」  憎しみのこもった視線を一瞬だけ僕に向けたが、保険証書を乱暴にひったくり菜々子は出ていった。 「あんな子じゃなかったんだがな」  田崎さんと祖父は職場の同僚で親友だった。菜々子とも何度も顔をあわせているのだろう。祖父が亡くなった後、祖母はいろいろと相談をしていたようだ。 「最初の結婚に失敗してから、人が変わったようになってしまって」  啓子おばちゃんはそう言ってから、はっとしたように僕を見た。ふたりはすっかり冷めたお茶を飲み干し、また来るからと言い置いて帰っていった。  僕という存在は失敗した結婚の残滓で、母親に疎まれるのは顔も覚えていない父親に似ているから。飲み込んだ現実にため息がでる。  部屋の入り口に、出ていったふたりと入れ違いに佳生と美佳さんの顔が見えた。    僕が覚えているのは、そこまでだ。  
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