第三章 夢の形、愛のカタチ

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 春を楽しむ余裕もなく、いよいよ開店が三日後に迫っている。  オープンを告知するチラシも昨日までにポスティングを終え、佳生が立ち上げた店のSNSにも反応が出始めた。希望的観測だが明日から忙しくなるはずだ。この家の登記関係も無事にクリアしたので、今日はゆっくりと過ごすことにする。    手作りのチラシには、佳生のアイデアで店のロゴマークを書いてある。祖父母の『あちらの家』をヒントに、家の形になかにウェロの文字を入れこんだものだ。図案を見た瞬間に、自分たちの夢が形になるのだと実感した。 「すごくいいな」つぶやく声が重なっていた。  さらに佳生は、そのロゴを使って大人様ランチの旗を手作りし、定番のお品書きのほかにその日の限定メニューを手書きするボードも準備した。 「ここがお客さんにとって心地いい場所になりますように」僕たちはひたすら願う。    ふとリビングから庭に目をやると、知らないうちに咲いたコデマリの花が風に揺れている。  身を寄せるように咲く可憐な花は祖母によく似合っていた。花が終わると「朋希のトマトに日が当たらなくなっちゃうからな」と枝を剪定していた祖父の顔も思いだす。  僕はおもむろに自分の名前が書かれた封筒を取りだした。祖母の見送りが終わったあと啓子おばちゃんから手渡されていたものだ。つらくて後回しにしていたけれど、いまなら読めそうな気がしている。目のまえでコーヒーを飲んでいる佳生の気配が温かい。  数枚の便箋の筆跡はエンディングノートですっかり見慣れたものだ。僕はすでに懐かしくなっている文字をひとしきり見つめてから、深呼吸をして読み始めた。 『これを読んでいるときおばあちゃんがそばにいないのは寂しいけど、朋希をしっかりと支えてくれる人がいるので安心しています。 家のことはきちんと書類にしたので大丈夫のはず。でも仕事の都合などで事情が変わったときは、気にしないで思うようにしてください。 おばあちゃんたちは場所に関係なく、いつでも朋希を見守っていられるからね。 少ししか遺せないお金を菜々子にも分けるのは、納得がいかないと思うけど堪忍してください。 朋希には憎い相手でしょうが自分の子を手放す決断をさせてしまい、おばあちゃんたちも悲しかった。いまさら誰が悪いとか、何がいけなかったか言う気はないけど、おばあちゃんの最後の身勝手だと思ってください。 でも朋希が「ずっと、おじいちゃんたちの子でいるよ」と言ってくれたときはうれしかった。おばあちゃんのご飯を食べて「僕も料理をする人になる」と頑張ってくれた朋希は、おばあちゃんたちの誇りです。 これまでほんとうにありがとう。 これからも身体を大事に、隣にいてくれる人を大切に。 おいしいものを食べて笑っていてください。姿かたちは変わってもずっとそばにいるからね。 おじいちゃんとおばあちゃんより。 朋希へ』   「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう。大丈夫だよ」  便箋をもとに返し、僕は白い花に向かってつぶやいた。こちらの様子を気にする佳生にも微笑んでみせる。僕の目のなかできらきらとした水滴のむこうにいる彼が、とてもやさしい顔をしているのがわかる。  その夜、久しぶりに夢をみた。  僕が声をかけると、ふたりが同時に振り向く。その顔はまちがいなく祖父母で、こちらに向かって頷いてくれる。そしてにこにこと笑いながら、そのままふわっと見えなくなった。    暗がりのなか目を覚ます。まだ夜明け前だ。  ひときわ闇が深くまばたきの音まで聞こえそうな静けさのなか、僕は指先にまでぬくもりを感じていた。ふたりの笑顔をはっきりと覚えている。 「……起きたのか?」  少しかすれた声が耳もとで聞こえた。夢に怯える僕の隣には佳生が眠っていて、目覚めるたびに背中を抱きよせてくれる。 「うん。夢をみたんだけど平気。もう一度眠るよ」    僕は広い胸に顔をうずめる。  安心できるこの場所で、言葉をこぼすのが好きだ。「野良猫がいてね」とか「変なかたちの雲を見たよ」とか。  こぽと立ち昇るそれらを受けて、くすぐったそうに笑う声が好きだ。  ここは大切な居場所。  小さい頃は祖父母のまんなかが、もっと前は母のお腹のなかがそうだったように。  心地よい場所でとくとくと刻む音に誘われた僕は、あっけなく眠りに落ちる。                 (了)
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