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第一章 朋希
その建物に入ってから二時間後に移動のバスに乗りこむまでの間、僕は心の中で百回くらい、すごい!と叫んだと思う。ただの一度も声にはならなかったけれど。
中学三年生になってひと月あまり。修学旅行の最終日に水族館見学をしている。
事前学習ではさほど興味もわかなかったのに、館内に足を踏み入れたとたん初めて見る生きものに目を奪われた。
オオサンショウウオがじっとしている姿はどことなくかわいいし、ふわふわと上下するクラゲに取り囲まれると、まるで異世界にいるみたいだ。ほんとうにすごい。
そして、館内で一番大きな水槽があるフロアにやってきた。
前にいる生徒の後ろから一生懸命に覗きこむ。背伸びしたり反対に腰を落としたりしていると、突然、同じグループの有木佳生に腕を引かれた。
「新山、こっちのほうがよく見えるぞ」
そう言われて、身長が155cmしかない僕よりずっと背の高い彼の前に立たされた。どぎまぎしてしまい、小さな声でありがとうと言うのがやっとだ。
佳生とは三年のクラス替えで初めて一緒になった。席が隣同士で初日に挨拶をしたから、名前くらいは知っている。でもそのあと話をする機会もなかったので、こんなところで呼ばれるとは思わなかった。
緊張しながら前を向くと、目前を大きなエイやサメが悠々と行き交っている。神秘的な光景に息をのむ。
それは僕の記憶にある海とは、全然違っていた。たった一度、小学校に入って初めての夏休みのことだ。久しぶりに会う母が小さな女の子の手を引いていて「朋希、結名ちゃんよ」と言った。母と一緒にきた知らないおじさんに僕は挨拶ができなかったけど、四人で海水浴場に行った。波打ち際で女の子と遊ぶ母親が楽しそうで、僕は砂浜に立ちぼんやりと海面を見ていた。足の裏の熱さを思いだす。
あの海の中も、もしかしてこんなに美しかったのだろうか。アクリルガラスのむこう側に青い世界が広がり、差し込む陽の光がきらきらとした粒をまいている。
波の音も潮の香りもない。リアリティを伴わない視界にただ圧倒されていると、頭上から声が聞こえた。
「いっぱいいるやつ、うまそうだな」
それが目の前を泳ぐマイワシの群れのことだと気づき、現実に引き戻される。
「たしかにおじいちゃんの好きな魚だけど。有木くん、お腹空いてるのかな」
昼ごはんを食べてから、まださほど時間は経っていない。食べることの大切さを繰り返し教えられているせいか、僕にはそのつぶやきが気になってしょうがなかった。
だからといって自分から話しかける勇気など到底ありはしないのだが。
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