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――レナード様は爽やかな果実の香りがする。
一昨年のオーグの月、山の麓で絵を描くレナードに初めて会った時、フェリチェは彼が纏うコロンを、とてもいい匂いだと胸に刻んだ。
彼の甘く蕩けるような笑顔も、鏡以上に鮮やかに描いてくれるフェリチェの似姿も、思い出そうとすれば、自然とその香りがフェネットの敏感な鼻をくすぐった。
風が運命を運んでくる。フェリチェは匂いを頼りに、人混みを掻き分けて進んだ。
そうして愛しいレナードの胸に飛び込むはずだったのに、彼の胸にはフェリチェの知らない先客がいた。それでフェリチェは失望のあまり、婚約を解消したいと願い出たのだった。
「悲しいよ、フェリチェ。愛しい君に突然別れを告げられるなんて……僕の何がいけなかったんだい?」
「何がいけないか、ですって? ご自身の胸にお聞きになって!」
レナードの胸には、往来を歩くには少しばかり人目を憚る薄着をした、美しい御婦人が二人べったりとくっついていて、彼の腕はしっかりと女らの腰を抱き寄せているのだ。
「フェリチェと結婚の約束をしていながら、これはどういうおつもりですの!」
「いいじゃないか、ちょっと息を抜くくらい」
「いいえ、ちっともよくない! 破廉恥! 浮気者! そんな方とは思わなかった。ですので……繰り返しになりますが、結婚のお話はなかったことに!」
フェリチェが花婿に求める絶対の条件は、浮気をしないこと。レナードは婿に相応しくない──温め続けた恋も醒め、自ら婚約破棄を申し出たのだが。
「嗚呼っ……なんということだ。僕は本当にフェリチェを愛しく思って、君との結婚生活を楽しみにしていたのに……」
レナードが大袈裟によろめいて地に伏せるのを、住民はどこか冷めた目で見つめた。
それもそのはず。この男──街の領主の四男坊にして、女癖の悪さと放蕩自堕落ぶりで悪評高い不良債権なのだ。まさかフェネット族の長の娘が引っかかってしまうとは……と、フェリチェを見る目にはどこか憐れみが込められている。
「……どうせ僕は領地も貰えない四男坊だし、君のところに婿入りできるなら悠々自適に、のんべんだらりと暮らせると思ったのになぁ」
耳がいいせいで聞こえてしまった彼の本音に、胸の痛みを覚えながらもフェリチェは萎れた尻尾の毛を逆立てた。
怒りに身を任せれば、用意していた愛の言葉は呪いの罵倒に置き換わる。フェリチェの口からそれらが滑り出ようとしたその時、レナードが一足先に達者で軽薄な口を開いた。
「はあぁ、恋に敗れた胸の痛みだけでも僕は立ち直れない」
情婦たちに支え起こされながら、レナードはフェリチェに指を突きつけた。
「その上、このような公衆の面前で婚約破棄とは……なんと不名誉なことか! ああ、胸が痛い、苦しい、張り裂けそうだ。……そこでだ。僕は君に、相応の謝罪と誠意の提示を求める!」
「誠意?」
「フェネットの髪は、市場では一級品。姫の髪の一房でもいただければ、数ヶ月は遊んで暮らせる……ああいや! 傷ついた心の治療を受けられる! どうだい、フェリチェ。心の広い僕が、君の無礼を髪の一房で許してやろうと言うんだ。安いものだろう?」
レナードは腰に穿いた剣を抜いて、フェリチェの足元に放った。
刀身が春の陽射しを弾く。使い手の腐った性根に似つかわしくない、丹念に鍛えられた鋼は眩かった。
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