1. 研究室へようこそ

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1. 研究室へようこそ

 さて。完全に道に迷ってしまった。  志摩奏歌(しまかなた)はそう口の中で呟いて、手元のスマートフォンに目をやる。待受画面の表示は13時17分をさし、予定の集合時刻を超過したことを示している。ブラウザで開いている学生向けのイントラに大学構内のマップは載っているが、工学部の各研究棟内部の詳細な地図などどこにもない。  まだ数回しか足を踏み入れたことのない基礎研究工学科A棟の一階ロビーからは、近年の防犯重視施作のために細かい研究室名表記の案内板が撤去されており、エレベータで何階のボタンを押したらいいのかもわからなかった。 「どうしよ。山南(やまなみ)先生の電話番号も知らないしな」  大学生特有の長い春休みが明けた4月に迎えたこの4年前期セメスターで、奏歌たち工学部機械知能科の学生は研究室に配属されることになっていた。人気で高倍率の山南研究室には成績順の選抜があるために、奏歌は入学時から熱心に勉強して学年トップクラスを維持してきたのだ。  今日がとうとうその研究室生活初日、先輩たちとの顔合わせの予定だったが、同じ構造の研究棟が5つ、さらにその中に似た構造の研究室が多数並んだエリア内で、奏歌は目的の山南研の入り口にすらたどり着けていない。 「とりあえず、A棟だったはずだから……確か上のほう……。適当に全部の階見ていくしかないか」  プラチナにブリーチした短いボブの髪を揺らしてエレベータに飛び乗ると、奏歌は7階に向かう。到着したホールの先の廊下は二手に分かれ、どちらにも立ち入り禁止区画のガラス扉が厳重に施錠されて立ちはだかっていた。試しに奏歌自身の学生証をキーパネルにかざしてみるが、ブザーが鳴って開けられない。 「……この階じゃないか」  そう呟いてエレベータに戻りかけたとき、背後から少年のような、細いがよく通る声が響く。 「志摩さん! お待ちしていました。こちらですよ」 「え? あたし?」  奏歌が振り向いた先でガラス扉がスッと開いて小さな姿が現れる。あきらかに人間ではない。  少年のような、と思えたのはその声だけで、アイボリーの樹脂製とおぼしき頭部には髪も眉もなく卵のようにつるりとして、首から下はケーブルと金属がむき出しになった両腕を同じく機械仕掛けの体幹部が支えている。腰以下は掃除ロボットのようにタイヤで自走する構造で脚部をもたないため、全体は身長156センチの奏歌の顎ほどの高さしかなかった。その異様な風貌に奏歌は目を見はった。 「はじめまして。志摩奏歌さんですよね? 山南研究室へようこそ」  その不気味で荒削りな「体」に反して、小さな「顔」はじつに表情豊かに、歓迎とかすかなはにかみを交えた微笑みをこちらへ向ける。そっと差し出された右手が握手を求めていることがしっかり伝わってくることに、奏歌はうっすら恐怖を感じて思わず俯いた。 「……ああ、駄目だよ勝手に出歩いちゃあ」  小さな機械の背後から投げられた声に顔をあげると、ガラス扉をこじ開けるように小柄な男性が飛び出してくるのが目に入った。Tシャツに白衣を引っ掛けたラフな格好、ぼさぼさの髪と華奢なメタルフレームのめがねという、どう見ても学部1年生かあるいは高校生のような幼い雰囲気だが、それにそぐわない切れ長の涼しい目元とくっきり通った鼻筋の放つ妙な凄みに、奏歌は戸惑った。  その男性の声は、今この眼前で「顔」が発したものとまったく同じ、澄んだ少年のそれだ。 「また美涙(みなみ)先生が試作機出しっぱなしにしたな、まったくしょうがないんだから……。ああ、志摩さんでしょう、先生がお待ちかねです。さあ、中へ」 「は、はい……」  白衣の男性は奏歌へ右手を差し出すと、先程の「顔」よりずっと気さくで朗らかに笑いかけて歓迎の意を表し、 「僕は椎名斜生(しいなななお)。こう見えてここの助教なんです、よろしく」  と言うと、照れ臭そうにめがねを押し上げてかけ直した。
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