6.芽生えた感情

7/7
273人が本棚に入れています
本棚に追加
/77ページ
 和泉は枕元に置いてあったスマホを手に取り、いつもの尚紘の写真を表示させる。  これは六年前の写真だから、当時尚紘は二十三歳。年上だったはずの尚紘は、今の和泉よりも四歳も若くなってしまっている。 「尚紘。俺、新しいパートナーを探してもいいかな……」  尚紘からの反応は当然返ってこない。その理由はわかっている。これは写真だからだ。 「何でもない。嘘だよ。こんなのうまくいくわけがない……」  佐原はきっと和泉には恋愛感情は持ち合わせていない。Domは一般的に世話好きだから、優しくされているだけだ。  この五年のあいだに、恋の仕方も忘れてしまった。もともと自分の感情を表に出すのは苦手だから、どうすればいいのかもわからない。こんな自分に恋愛はできない。 「二ヶ月だけ、俺に時間をくれるかな……」  佐原との付き合いも二ヶ月だけ。あと何度かプレイをしたら、偽のパートナーの約束は終わる。それまでの間は、佐原と一緒に過ごすことを許してもらいたい。  佐原に誘われたときだけプレイをする。自分からは誘わない。それなら何か言われても、「佐原に脅されて仕方なくプレイに付き合っただけ」と言い訳ができる。  そうして二ヶ月過ごす間に佐原のことを忘れよう。 「そうだ。二ヶ月後にデートしようか? 尚紘の好きなカフェが中目黒にあっただろ? あそこ営業時間、何時からだったかな」  スマホで店の検索をしてみると、『閉店のお知らせ』と書いてあるHP(ホームページ)が見つかった。  尚紘が亡くなったあと、和泉はデートと称してひとりでこのカフェを何度か訪れていた。特別なことは何もしない。ただ尚紘の思い出に浸るだけの、静かな時間を過ごしていた。  就職して、仕事が忙しくなってからは頻繁に行けなくなり、気がつけば二年以上、中目黒を訪れていない。  あれからかなりの時が過ぎている。店がうつり変わることもありえる話だ。  こうしてひとつずつ、尚紘との思い出の場所が減っていく。思い出は増やせないから、減るばかりだ。 「他の店にしよう。どこだろな……」  新しい店ではダメだ。尚紘を思い出せる場所じゃないとデートにならない。和泉の恋人は和泉の脳内にしか存在しないのだから。  和泉が思いついたのは『ポルト』という名のイタリアンレストランだった。偶然、佐原に連れて行かれた店で、尚紘との初デートの場所だ。  あそこは基本的にコース料理の店で、ひとりでは入りにくい。  この前は佐原とふたりだったから難なく入れた。誰か一緒に行ってくれる相手がいればいいのだが。    「違う、尚紘とのデートだろ……」  デートなのに他の誰かと行ってどうする、と自分自身にツッコミを入れる。  せっかく最愛のパートナーとのデートの予定を考えているのに、和泉の心はなぜか孤独に苛まれていく。 「なんで、俺をもっとちゃんと縛ってくれなかったんだよ……」  尚紘の最期のコマンドがあれば、ここまで体調不良に悩まされることもなかった。  佐原にこんなに心を乱されることもなかった。佐原なんて好きにならずに済んだかもしれない。  辛くなったら尚紘のところへ行けばいい。命を絶ってしまえばいい。いつもそういう思考に陥るのに、しぶとく生きている自分はなんて図々しいのだろう。    和泉の手の中にあったスマホが振動し、メールが来たことを知らせる。それは佐原からだった。 『お前にいい忘れたことがある。打ち合わせに行く前にこの記事を読んでほしい。富久薬品は事業拡大で古河にある旧ミカミ製薬の工場を買うつもりらしい。その話を担当者にぶつけて情報を聞き出せ』  佐原からURLリンクとともに怒涛のメールが送られてくる。昨日、富久薬品の担当者に会って佐原が感じたことを端的にまとめて送ってくれているようだ。 『一緒に行けなくてごめん。親戚が脳出血で倒れて、見舞いに行くことになったんだ。どうしても行かなきゃならない。だから俺の分まで和泉が頑張ってくれ』  佐原がここまでやってくれているのに、仕事を放り出して命を絶つわけにはいかない。 『和泉。俺は朝風呂に入り損ねた。朝風呂は絶対に良い。時間があるならお前は入ってけよ』  これは余計なお世話だ。でも、佐原がいいというなら入ってやってもいい。 『和泉との出張は楽しかったよ』  出張を楽しんでどうする。仕事なのだから、楽しんでないで相応に働くべきだ。  和泉は『ふざけるな仕事だろ。温泉旅行と勘違いするんじゃねぇ』と返信してから、『資料ありがとう』と返信を重ねる。  そうだ。起きて朝風呂に入ろう。そして佐原に自慢してやるんだ。  和泉は布団から這い出て立ち上がる。  今日の仕事を片付けて、東京に戻ればまた佐原に会える。  くだらないことを言い合って、真面目に仕事をして、時々プレイをして——。  悪くない日々だ。二ヶ月過ぎても佐原はもとの部署に戻るだけでフロアは違えど、同僚には変わりない。別に会えないわけじゃない。  今度、佐原の悩みを聞いてやってもいい。いつか和泉に心を開いてくれたら、佐原自身の恋愛話をしてくれる日が来るかもしれない。そのときは佐原の幸せのために背中を押してやろうか。
/77ページ

最初のコメントを投稿しよう!