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「課長!今、書類をメールで送りました」 「わかった。遅くまで悪かったな」 本来ならこの書類を作成していたのは私ではなく、24歳の後輩の子だが今朝急に体調が悪いので休みますと連絡があった。 しかし、その書類にミスがあり・・・否、書類に”大量”にミスがあり課長から急ぎの応援要請が来た。 彼女は確か、昨日の夜は合コンだと意気揚々と帰って行ったはず。 モヤモヤするがそこは言うまい。 モニターで確認をしていた課長が顔を上げると「大丈夫だ。助かった」と少し疲れ気味の笑顔を向けた。 時計を見ると8時を過ぎている。 ブラック企業ではないから、なにか急ぎの仕事が無い限り残業はなく、皆ほぼ定時に帰っていく為このフロアには私と課長の二人しかいない。 「お礼に飯でも奢るよ」 35歳独身、高学歴、高身長、そして甘いマスクの企画開発部1課の課長だ。 「じゃあ、とんかつがいいです」 「わかった」 課長はそう答えるとデスク周りの整理を始める。 私もパソコンの電源を落とし、机の上に物がないように引き出しにしまった。 課長はこんなふうに時折、夕食を御馳走してくれるいい上司だが、一つだけ難点があるとしたら 「9年付き合っている彼氏とはまだ結婚しないのか?」 一口ヒレカツにからしを少しつけてソースをからめてから口にいれるとサクッと揚げたてのいい音がした。 私には9年付き合っている彼がいる。 高校2年から付き合いはじめて、大学は別々になったけどお互い自宅からの通学だし家も近所だったから付き合いはずっと続いていた。 サクサクとヒレカツを咀嚼してのみ込んでから、一人用のお釜で炊かれたツヤツヤのご飯を口に運ぶ。 ぶっちゃけ、このご飯に塩をかけただけでもいくらでも食べられる。 シジミの味噌汁をすすりながら課長を見ると、自分から質問しておいて返事はどうでもいいような表情でロースカツをおいしそうに食べていた。 「どうなんだろう?」 「その彼と別れることがあったら、いつでも俺の所に来いよ。俺のとなりはいつでも開けとくから」 「はいはい」 そう、課長は時々こんな風に彼のことを聞いてくるのだ。 3年前に1課の課長として就任して、一緒に仕事をしているうちにこんな風に時折食事を御馳走になっていたある時、告白をされたが私には一緒に住んでいる彼がいるからと断った。 普通ならギクシャクしそうだが、課長はきちんと仕事として割り切って接してくれるし今はなんというか相談もできるいい上司だ。 マンションの集合ポストに不動産管理会社から”重要書類”と書かれた封筒が入っていた。 また2年経ったのか・・・ 同棲している彼、二郎は遅番で帰ってくるのは深夜になる。 だから、今日は課長からおごってもらうことにしたのだ。 1LDKの部屋に入るとソファに座って封筒を開ける。案の定、部屋の更新の書類だった。 大学を卒業した後、私は今の会社に就職し二郎は留年をしたのち大学を卒業する重要性を感じないと言って中退し外食チェーンに就職した。 大学卒業を目前に控えたある日、姉が元義兄の不倫発覚により3歳の娘を連れて実家に戻ってきた。 元義兄と不倫相手から慰謝料をもらい二人を社会的に抹殺して帰ってきたので、会社から家賃の補助が出るということで就職を機に部屋を借りて実家を出た。 一人暮らしを始めると二郎は私の部屋に入り浸りになってほぼ同棲状態になったことで、管理会社から連絡があり入居人数が変わってませんか?と指摘され、この場合にはきちんと手続きをしなくてはいけないことを学んだ。家賃は変わることはなかったが、入居者状況表と二郎の住民票を提出した。 入居者状況表に私の名前と二郎の名前を記入し、二郎についての続柄に何と書けばいいのか悩んでいた時「婚約者でいいんじゃね?」という言葉で、はじめて結婚を感じさせる言葉を二郎から貰い満面の笑みで二郎の名前の横に婚約者と記入して提出した。 一度目の部屋の更新の時、二郎は求職中だった。 最初に就職した外食チェーンは1年ほどで退職してカフェに勤めたが数か月で辞めた。 理由は合わないとか、色々なことを体験してみたいとか言っていた。 だから更新の時に提出する入居者状況表には相変わらず”婚約者”と記載することになった。 「次の更新はきっと無いよ」 ドキッとした。 24才の今まで二郎しか知らないし、二郎としか未来を考えたことが無かったのに、次が無いとはどういうことだろうと、自分からそれを聞くのは怖かったから聞き流そうとしたら 「さすがに結婚して1LDKは狭いだろ、子供とかできたりしたらそれこそこの部屋じゃ無理だろうから」 二郎がちゃんと未来を見据えていてくれたことが嬉しかったし、安堵した。 それからも二郎は職を転々とした。 別にサボるとかそういうことはなさそうなのに仕事が続かない。 そして、今はコンビニでアルバイトをしている。 27才の今、二郎が定職についていないとしてもこの部屋や光熱費などの生活に関することはすべて私が負担しているから結婚したとしても何とかなると思っている。 子供ができたら少し不安ではあるが、この年までずっと一緒にいて二郎と別れるほうが不安になる。 書類を広げて更新契約書に必要事項を記入したあと押印をして、入居者状況表の二郎の欄にはまた”婚約者”と記入した。 二郎はどう思っているんだろう。 更新手続きの期限まではまだ日がある。 書類を入っていた封筒に戻してテーブルの上に置いた。
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