1人が本棚に入れています
本棚に追加
Gluttony Report No.XX「桜の友」 報告者 XXXX
2XXX/4/1
これは、俺の祖母にまつわる実話だ。
祖母は10年ほど前に死去している。その当時の話である。
*****
それは、茹だるような夏の日だった。
少し歩くだけで汗が頬を伝う。この日のための黒い服もシャツも固くて張り付いて気持ち悪い。
青々と生い茂る草木に囲まれた木造の家が揺らいでいる。
母方の親戚とはあまり親しくなかったものの、父方の方は定期的に訪れていた。年の近い従兄弟が祖父母の近所に住んでいたことも理由の一つかもしれない。
小さい頃は長期休みのたびに祖父母の家に泊まりに行ったものだ。
近くの広場で遊んだり、プールで泳いだり。
部屋数が多いものだったから、そのうちの1つを秘密基地にして従兄弟と籠って遊んだこともある。
寡黙で仕事人だった祖父の工場にお邪魔して作業で出た切れ端で遊んだのもいい思い出だ。
そして、祖母は優しかった。来るたびによく可愛がってくれて、自分もなついていたことをよく覚えている。
それと同時に記憶に残っているのは祖母のぐらちゃんだった。当時もぐらちゃんは人々の生活に浸透していたが、その時はまだ家族の一員としてではなく家にぐらちゃんを迎えることは珍しかったから覚えている。
祖母はよくその柔らかい声でぐらちゃんを「さくら」と呼んでいた。
「桜の木の下で出会ったから」とふんわり微笑む祖母に撫でられるぐらちゃ……さくらはとても気持ちよさそうだった。
いくら俺や従兄弟が祖母を真似て「さくら」と呼んでも一向に振り向きもしない。撫でてもちっとも気持ちよさそうな表情を見せない。
だけども一度祖母が呼べば、にこにこと可愛らしい笑顔を浮かべながら祖母に近づく。
「おなかすいたー」
「はいはい」
さくらに呼ばれた祖母がしわしわの手でおにぎりをこさえ、桜があしらわれた小皿に置いてさくらの前に置く。
キラキラの瞳で美味しそうにおにぎりを食べるさくらを毎日のように見た。
そんなさくらを見るのが好きなんだよと、祖母はよく言っていた。
そんな祖母の葬式の日。
祖父母の家は妙に広くて寒くて。
そんな家の、祖母の部屋に佇むさくらの背中は泣いているようで。
従兄弟に呼ばれるまで、俺はさくらの後姿をただぼーっと眺めていた。
葬式は順調に進んでいった。
やってきた坊さんがお経を唱えて木魚を叩き、焼香の煙が立ち上る。
さくらは祖父の隣で祖母の遺影をじっと眺めていた。
「なぁに、アレ?」
「ほらアレだよ。清掃業者が使ってる、あの」
祖父や俺、従兄弟家族以外の親戚はさくら……ぐらちゃんが葬式に参列していることにひそひそと苦言を囁いていたことをよく覚えている。
「やだ、汚い……まぁでも、あの人も変わり者でしたものねぇ」
「ねぇ?聞けば、アレにわざわざ食事をこさえていたとか」
「名前まで付けて本当、なにを考えていたのやら」
ひそひそ、くすくす。
さくらを横目で見て、祖母の遺影を見ては笑って。
当然いい気分ではなかった。
膝の上の、握った拳の強さは今でも鮮明に思い出せる。
「お義父さんもほったらかしだったとか」
「ええ?そんな……お義父さんもアレがいてさぞ手を焼いたでしょう?」
「本当、お義父さんもかわいそ……」
そう言った親戚の声が不意に止まる。
不思議に思って顔を上げれば、これまで一言も声を発して祖父が小声で話す親戚たちを見ていた。
じっと、ただじっと。
真っすぐ見据える祖父の視線に耐えられなくなったのか、親戚たちはバツが悪そうに顔をそらす。それ以降、祖母やさくらを言う声はピタリと止んだ。
あまりのことに俺は祖父をぼんやりと見ていた。
木魚とお経と、蝉の声だけが響いていた。
祖父は何事もなかったように顔を祖母の遺影に向ける。
それから少し顔を下に向け、さくらの頭部を少し撫でた。
祖父にも全く懐かなかったさくら。
時折撫でようとする祖父の手も避けていたくせに、今日は祖父の豆だらけの手のされるがままになっていた。
葬式は祖母の火葬に入る。
その前に俺たちは祖母に最後のお別れを言うために棺に集まった。
棺の中に花を入れる。祖母が好きだった桜の花だ。
家の庭に植えられていた桜。手折った一枝を祖母の横に添える。
祖母の顔も身体も綺麗で、今にでも起き上がって笑いかけてくれるような気がした。
いつものように柔らかい声で名前を呼んで、しわくちゃの手で頭を撫でてくれるような、そんな。
祖母は晩年、病気に身体を蝕まれていた。
ふんわりとした綺麗な白髪からは艶が消え、手は骨が浮き出て。
健康そのものだった祖母の身体はあっという間に生気を失った。
けれど棺に眠る祖母は、まるで元気だった頃のままだった。
「ああ、よかった」と、なんとなく思った。
ふと、足元を見ればさくらが棺を見上げていた。
さくらの大きさでは棺どころか棺を乗せる台にすら届かない。
「……さくら」
無意識に、名前を呼んでいた。
さくらがゆっくりと俺を見る。
俺はしゃがんで手を広げて、さくらを待った。
さくらはじっと俺を見る。
それから、広げられた俺の手を見て。
「……」
しかたがない、とでも言うような顔をして、さくらは俺に抱えられた。
俺はさくらを抱えて、さくらに祖母を見せる。
さくらはただ祖母をじっと見つめる。
数秒か、数分か。長いようで短かったようなその時間でさくらは祖母にお別れをしたのだと思う。
祖母のおにぎりを食べるときにしか伸びなかったさくらの手が祖母の頬に触れる。
そして、小さく「きゅう」とないた。
しゅるん、と腕は戻ってさくらは俺の方を見る。
しゃがんでさくらを地面に下ろすと、今度は祖父の方を見た。
視線に気が付いたのか、祖父もさくらを見る。
無言の時間がしばらく続いた。
ほんの少しの沈黙の中で、祖父とさくらは会話しているように見えた。
そうして、しばらくして。
祖父は「好きにしろ」と一言告げた。
そのまま祖父はさくらと祖母に背を向けて歩き出す。
「え、じいちゃん!」
慌てて俺たちも祖父の後を追う。振り返ると、さくらは祖母の棺を見上げていた。
「さくら!」
俺が声をかけてもさくらは振り返りもしない。
「いい。そのままにしておけ」
「え、でも……」
「いい」
従兄弟にもきっぱりと言い放ち、祖父は振り返って祖母とさくらを見る。
しかしそれも一瞬のことで、すぐ顔を戻した祖父はそのまま歩いて行った。
仕方なく祖父の後に続いてその場を離れる。
遠くに見たさくらと祖母の棺は、あの日の家のようにひどく揺らいでいた。
祖父と一緒に戻ると、葬儀場の人が火葬の手順を説明してくれた。
これから棺は隣接した火葬場に運ばれ、骨になると言う。
祖母が火葬されるまで葬儀場の一室で待つことになった。
「……」
さくらは棺が運ばれるまで祖母を見守っているんだろうか。
……なんて思っていたら、しばらくしてさくらが部屋にやってきた。
「……え、さくら?!ばあちゃんは?!」
思わず大声を出しても一切無視。
親戚たちの刺すような視線ももろともせず、当たり前のように我が物顔でどっしり腰を据えたさくらに呆気にとられるしかなかった。
それから数分、数十分。
待てども待てども葬儀場の人は来ない。
とうに二時間は過ぎた頃、流石におかしいと思たのか親戚の何人かが騒ぎ始める。
それからすぐのことだった。
祖母の身体が姿を消したという知らせが来たのは。
知らせを聞いてすぐ、俺や従兄弟は祖母の棺へ向かった。
棺の蓋はわずかに開いていた。
覗いていたのは白い装束ではなく、薄桃の花びら。
棺の中から、祖母の身体はすっかり消えていた。
祖母のいない祖母の葬式がどうなったのかは、あまり覚えていない。
ただ、葬式から2年ほど経った春の日に、なんとなしに祖父にあの日のことを酒の肴に話したことがある。
「結局、ばあちゃんはどこに行ったんだろうな」
「……そんなもん、あいつのとこだ」
「あいつ?」
首を傾げた俺に鼻息一つ鳴らし、祖父は外を見る。
せっかくだから、と窓を開けていた軒下からは庭の桜がよく見えた。
祖母はさくらと出会ったきっかけだからか、それとももともと好きだったのか。祖母は桜の木を大切に世話していた。
その年の桜も満開で、風が吹けば桜の雨がふわりと降っていた。
桜の木。桜……さくら。
「……じいちゃん。そういやさくらは?」
祖母の死後も家には定期的に訪れていた。しかし、一度としてさくらの姿を見なかったような気がする。それはいつものことではあったし、祖母が亡くなったことでさくらも気分が沈んでいて、だから出てこないのだとその時は考えていた。
「さあな。今頃2人で桜巡りでもしてんだろう」
「2人?」
「もともとあいつのモンだったんだ。もとに戻っただけだ」
要領を得ない祖父の言葉に当時の俺は首をかしげるばかりで、なに一つ分からなかった。
最初のコメントを投稿しよう!