第一部 ステラ・バイ・ステラ

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第一部 ステラ・バイ・ステラ

 天の川ではなかった。夜空には半透明な紫色の月が瞼をとじているばかりで、ひと摘みの星くずも散らばっていなかった。  宵の口……深閑とした《黒い森(ミュルクヴィズ)》を、ひとつの影がとんでいる。それは妖精だった。西洋の空想世界で生きる精霊。オパール生地のように透けた羽から、まばゆい鱗粉が舞い、星の運河さながらの光景を宙に敷いていく。  妖精(かのじょ)には、ディアナという名があった。 (ああ……せっかく妖精王さま(グレート・マザー)にいただいた誇らしい名まえも、呼んでくれるひとがいなかったら宝の持ち腐れだわ)  ディアナはため息をついた。四月のクローバーのように甘く、テントウムシが好みそうな匂いのする吐息。もし雪だったら、それは森中の地面の落ち葉を埋めつくすに違いなかった。 (唯一の話し相手といえば、奉公人のくらいだけど。かれったら、おしゃべりは苦手だし、雨の日は巣にこもっちゃうもの。……さいごに会ったのはいつだったかしら?)  可憐で端正な容貌は、拗ねたていどで魅力を損ねる理由にならなかった。ほのかに燐光をともす、レベックにもかくれるくらい華奢な体躯。三つ編みを王冠のように結っているオーロラの髪は夜風になじみ、風が吹かなくても麗しくそよぐ毛並み。 「ほんとうに、退屈な毎日……」  夜は若かった。しかし、かのじょのは――ほどろほどろな沫雪をデコレーションしたクリスタル・シャンデリアの、はなやかな肌から到底想像もつかない長寿だった。森の空気は甘く、かのじょの気分はほろ苦い。 (なんでもいい……なにか楽しいこと、ないかしら)  みやびやかな羽ばたきを起こすたび、ハーブそっくりの繊細な音色が奏でられる。そんな調べも、あっというまに夜の深みへと消えてしまった。  ディアナは頭をふる。憂さを晴らそうと一時(いっし)に加速する。かのじょが近づくことで、ひしめく常緑高木の群れはあわてて避けようとそり曲がり、まるで弓のように駆けるディアナがつらぬき円状の空洞をあけているふうにも映る。  そのとき、ディアナは視界の端っこで、宙をもがくを捉える。リスだ。唐突な幹の形状変化におどろき、どこかの幹の寝床からすべり落ちたらしい。 「あっ――」とっさに手を差し伸べようとしかけ、思いとどまる。まさに起こった、似たようなできごと――高木の枝にのぼり、おりれないでいたうさぎを助けたときのこと――が脳裏をよぎって。かのじょの波動を察知したうさぎはパニックに陥り、ディアナの腕に噛みつき、いちもくさんに茂みの奥に逃げていった。  混沌とした《黒い森》において、たったひとつの(ルール)――ディアナにふれてはいけない。なぜなら、かのじょはで、普く生きものより忌み嫌われた存在だから。 (だめよ、我慢しなきゃ……!)  花びらほどのこぶしを握りしめる。生い茂った下草に落ちていくリスから目をそむけ、ひたすら無事を祈り、ディアナは帆翔するミズナギドリのごとく急上昇した。速く、もっと速く。声にならない叫びを追いこすように、みずからの運命をふりほどくように、速く――  夜空にでた。月と森をつなぐように弧を描きながら、ディアナは夜空の光を浴びる。 「どうして、いつも月はきれいなの?」  ぼんやり、そんな疑問を巡らす。暢気なものだと唇を尖らして。きっと悩みなんてないのね。だからあんなふうに、まっすぐ輝いていられるんだわ――  月を背にすれば、あたりいちめんはまっ暗。森のシルエットが夜になじみ、ほとんど闇と同化している。
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