第一部 ステラ・バイ・ステラ

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「ディアナ」  ディアナは俯き、聞こえないふりをした。それしかできなかった。ことばを口にしたとたん、かれに八つ当たりしない自信がなかったから。 「やっぱり、このあいだのお礼をしたいと言ってるよ」 「だから、そんなわけ……」つい反射的に否定しかけ、ふと、われに返る。行き場のない怒りが不完全燃焼でしぼんでいき、「このあいだ、って?」 「木に登っておりられなくなっているところを助けてあげたんでしょ?」  その一言で、かのじょの記憶は鮮明にサルベージされた。あれは初めてヴラドと出逢った日のあさ、高木のうえで困り果てていたウサギを助けたときのこと。(でも……)  どうして、をかれが? 「なんとなく、動物の感情のを読み取ることができるだけさ。……気づいてなかった? きのうの夜も、あの子はここに来ていたらしいよ」  寝耳に水だった。ずっと呆けた面持ちで瞬きをくり返すばかりのディアナが、数億年ぶりにかれの横顔をみつめる。 「そのときはズミの花をもってきてくれたんだって。きみは花のことをどれくらい知ってる? あれがこの季節に咲いてるのは珍しくてね。だからきっと、きみに贈りたかったんだよ」  ほら、みてごらん。ヴラドの謙虚な鉤爪が指し示す――あのうさぎの側に、何本も白い花が横たえられてるだろう? あれがズミの花だよ。いわれてみれば、さっきから甘い匂いがすると思ってたんだ……。  ディアナの視線が頬に刺さっていることなんて、つゆほども知らず。ヴラドはまぶしそうに微笑み、敬意をはらうような眼差しをそそぎ続けている。  闇になじんだ視力でとらえるその可憐な白い花の連なりは、ところどころ桃色の蕾をそなえていた。 「わたし……あの子の気持に、ちゃんと応えないと」  かれと出会ってから、つくづく実感する。わたしの世界って如何につまらない、ささやかなものだったんだろう――と。  そのときディアナは数百年の生涯で初めて、「気持を込めて、かたちに残るものを贈りたい」という感情に出会っていた。だれからも、教わったことなんてないのに。  けれど。(どうしよう、わたしがもっているものなんて……)  めずらしく狼狽えながら視線をきょろきょろ巡らす。そして、じぶんが身につけているに気づいた。  手づくりのアクセサリーだった。を結ってこしらえた艶やかなリボンで首からさげている、トネリコの小枝に、細長く切った樹皮ですみれの花を編みこんだもの。数百年ぶんのディアナの鼓動を、そばで聴いている。 「わたしがあげられるの、これくらいしかないよ」 「お礼のお礼をするのかい?」とヴラド。「だって……!」ディアナのことばを遮り、 「いいと思う」かれの声はひたすら柔らかい。「自信をもって。こんなにすてきなプレゼント、ぼくが読んできた本にも書かれてなかった」  ディアナの瞳がことばを紡ぎかけている。光彩陸離の瞳の水面、安堵の色が一滴こぼれるが、あたりいちめんを覆いつくす逡巡の星間ガスにとって幺微(ようび)な感情だった。目は心の鏡(※5)。かのじょはことばを超えた「」をもとめていた。 「残念なことに」ヴラドが口火を切る。「ぼくの手でふれると、そのブローチを壊してしまう」  黒光りする鉤爪の指は、闇より色濃い。いつのまにか朝朗けの時分にかたむき始めていることを証明していた。
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